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【6月25日】「歌と踊りの祭典」解説 堀口大樹 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2018/06/25 月曜日 18:46:51 JST


 

 

 


  

 

2018年 26回全ラトビア歌の祭典・第16回踊りの祭典

 

 

 

文責:堀口大樹(当協会常務理事・岩手大学准教授)

 

 

 

ラトビア歌と踊りの祭典は、5年に一度の国家行事である。単なる合唱フェスティバルではなく、ラトビア人にとって民族の団結と文化の継承を象徴する神聖な場所である。2003年からはユネスコの世界無形遺産に登録されている。歌と踊りの祭典はバルト3国の各国で行われている。エストニアでは1869年より5年ごと、次回は2019年、ラトビアでは1873年より5年ごと、次回は2023年、リトアニアでは1924年より4年ごと、次回は2019年である。

 

今回の歌と踊りの祭典は、2018630日から78日まで行われる。期間中は、合唱、民族楽器クオクレ、オーケストラ、踊りのコンサートやコンクール、演劇、工芸品の見本市などの60以上の行事がリーガで行われる。

 

全参加者は43000人で、国内の118の行政単位、また24ヶ国からの参加となっている。海外の参加国はほとんどがヨーロッパの国で、そのほかアメリカ、カナダ、ブラジル、オーストラリア、日本である。ラトビア人の移民は早くて19世紀末から始まったが、最も大きかった移民の波は第二次世界大戦前後である。第二次世界大戦前後のヨーロッパでの移民先はイギリス、ドイツ、スウェーデンであった。それ以外のヨーロッパの国へは、再独立後の経済的な理由により移住した。ラトビア人は移民先でもコミュニティーを形成し、子弟にラトビア語やラトビアの伝統文化を教え、大人が集って合唱をしている。こういった海外ラトビア人団体の中には、ラトビア人の夫や妻に混ざって歌っている外国人も珍しくない。

 

歌の祭典に参加をする外国人団体は、日本ラトビア音楽協会合唱団ガイスマと、エストニアの学園都市タルトゥのタルトゥ大学室内合唱団のみである。これまでの祭典では外国人団体の参加もあり、歌の祭典のクロージングコンサートの全演目、または最後の数曲を歌うことがあった。しかし前回の2013年の祭典以降、参加を希望する外国人団体が急増した。クロージングコンサートの舞台上の収容人数には制限があり、ラトビア国内でもすべての合唱団が舞台に立てるわけではないこと、祭典はラトビア人のためのものであることから、今回は物見遊山的な外国人の団体の参加に制限をかけた。その結果、常日頃からラトビアの合唱曲に親しみ、海外でラトビアの文化を普及させている功績から、ガイスマを含む2団体の外国人団体の参加が認められることとなった。

 

以下、祭典の見どころを紹介する。

 

参加者によるパレード(gājiens)は、祭典の風物詩の一つとなっている。自由の記念碑からスコントスタジアムまでの1,8キロを歩く。これまで最終日に行われていたが、今年は71日に行われる。地方からの団体にとっては、最終日までの滞在期間が長くなってしまうため、祭典の序盤での開催は不都合と言われている。

 

パレードに先駆けて630日に歌合戦(Dziesmu kari)の決勝が行われる。歌の祭典のクロージングコンサートの出場権をかけて競われる予選とは別の合唱コンクールである。準決勝はすでに6月初めに行われており、それを勝ち進んだ団体が競う。歌のクロージングコンサートでは、準決勝に出場した団体のみが歌う曲がある(Brīvība「自由」とPa zvaigžņu ceļu「星の道を」)。

 

踊りの祭典のクロージングコンサートは、77日にダウガワスタジアムで行われる。テーマは「マーラの大地(Māras zeme)」で、17000人がラトビアの歴史を踊りで表現する。マーラとは、ラトビア神話で母神とされる。

 

最大の目玉は最終日の歌の祭典クロージングコンサートで、森林公園の舞台上で12000人からなる全体合唱(kopkoris)が歌う。今回のテーマは、「星の道を(Zvaigžņu ceļā)」。ラトビア人の歴史や文化を星になぞらえ、最後に天の川にたどり着くイメージである。

 

クロージングコンサートの指揮者は21名である。クロージングコンサートでの指揮は、ラトビアの合唱指揮者が憧れる名誉ある役目で、総指揮者(virsdiriģents)と呼ばれる。さらに総指揮者を数回務めた指揮者は、名誉総指揮者(goda virsdiriģents)と呼ばれる。今回のクロージングコンサートでは、60代から90代の8名の名誉総指揮者が指揮をする。名誉総指揮者の一人Andrejs Jansons1938年にラトビアで生まれたが、戦後ドイツを経てアメリカに亡命をした。独立回復後から、祭典でクロージングコンサートの指揮をしている。また今回は出場団体の指揮者から構成される指揮者合唱団(diriģentu koris)があり、いくつかの曲を歌う。

 

歌のクロージングコンサートの国内予選は、20183月に行われた。さらにこの予選に先立って、地方ごとに合同練習が週末に定期的に行われ、クロージングコンサートで実際に指揮を振る指揮者が、担当する曲を指導していた。

 

歌と踊りのクロージングコンサートのチケットに対する関心は毎回高まる一方である。その入手は現地の人にとっても難しく、いっそ歌い手や踊り手として参加をした方が楽、というくらいである。チケットの74%は一般販売、24%は地方自治体や祭典関係者、社会保障を受けている人、2%は招待客に渡った。一般販売は3月初旬に行われたが、インターネット販売では、数時間メイン画面にすらたどり着けないのは当たり前で、店頭販売でも前日や前々日から列を作って待つ人もいた。チケット購入の手間や公平性を考慮し、次回は抽選制度の導入の意見もある。

 

歌のクロージングコンサート終了後(予定では24時)、夜明けまで合唱曲や歌謡曲を歌う歌い合い(sadziedāšanās nakts)が行われる。

 

 

 

ラトビア語

 

 ラトビア人はその話者人口(母語としては約150万人)ゆえ、自分たちの言語を大切にします。外国語が得意な人が多いですが(若者は英語、中高年はロシア語)、ラトビア語で話す外国人には非常に好意を持って接してくれます。是非、基本的な挨拶は覚えてください。なお、ガイスマの団員はラトビア語で歌っているので、ラトビア語も勉強していると思っているラトビア人もいます。

 

 

 

Labdien. ラブディエン          こんにちは。

 

Labrīt.  ラブリーット  おはよう。

 

Labvakar. ラブヴァカル  こんばんは。

 

Paldies. パルディエス         ありがとう。

 

Lūdzu. ルーヅ  どういたしまして。どうぞ。

 

Atvainojiet. トゥヴァイヌオイエット  すみません。

 

Uz redzēšanos. ウズゼーシャヌオス  さようなら。

 

Visu labu. ヴィッス ブ  さようなら。(こちらの方が簡単)

 

 

歌の祭典の歴史



 

前史:19世紀末から20世紀初頭

 

 本来歌の祭典はラトビア人だけの伝統ではなく、19世紀初めにはオーストリア、スイス、ドイツなどドイツ語圏を中心にしたヨーロッパで広く行われていた。合唱は最も民主的な芸術音楽の形であり、民族全体を愛国心や民族運動に駆り立てる力を持っていたからである。バルト3国の大都市の多くは中世ドイツ人商人の手により建てられたが、19世紀当時この地域には多くのドイツ人(ドイツ・バルト人)が支配階級として住んでいた。19世紀半ばから、このドイツ・バルト人たちにより合唱(主に男声合唱)が盛んになっていく。(なお後のヒトラーが国民を団結させるために合唱を利用したこともあり、ドイツ語圏では合唱運動は下火になっていくが、バルト3国では現在でも合唱が文化の一つとして残っている。)

 

 ラトビアの地方や小都市では、1860年代後半から急速に合唱が盛んになり、歌唱や演劇など様々な文化的な団体が誕生していく。その際、精神生活の充実という共通の目的により、民族を団結させる「合唱」という最も民主的な芸術形式に目をつけたのが、「新ラトビア人」と呼ばれた、その後の民族・独立運動を展開していくラトビア人知識階級であった。同じく1860年代後半から現在のラトビアのあちこちの都市で歌の祭典が行われるようになる。

 

帝政ロシア時代のリーガでは、古くからのドイツ・バルト人とロシア人が多く暮らしていた。ドイツ人が大都市に暮らす支配階級であったならば、ラトビア人はドイツ人の地主の下で暮らす被支配階級であった。当時のラトビア人知識階級は、ドイツ語やロシア語で教育を受けて、多くの新ラトビア人も帝政ロシアの首都ペテルブルグで学んでいた。

 

 合唱の持つ社会・民族を結束させる力に目をつけた新ラトビア人たちではあったが、問題になったのは、レパートリーにラトビア人作曲家の作品が少なく、多くが他の民族の合唱曲を翻訳した歌詞で歌っていたことであった。盛んになりつつあったラトビアの合唱運動の未来に大きな不安を感じ、仕事に着手したのは、教育者のツィムゼと、リーガラトビア人協会であった。

 

 この協会の設立の背景には、1867年のフィンランドや現在のエストニアで起こった飢饉がある。彼らに援助を行うため、リーガに住んでいたラトビア人により、ラトビア援助協会が設立された。エストニア人への援助の必要性がなくなったその後も、この協会はリーガで多数派とはいえなかったラトビア人たちの文化活動を指揮するリーガラトビア人協会として残った。まさにこの協会が1873年に行われた第1回全ラトビア歌唱祭を企画し、当時の首都ペテルブルグで学んでいたラトビア人の作曲家たちと協力をし、第1回全ラトビア歌唱祭の準備に取り掛かった。

 

 

 

1期:19世紀末から20世紀初頭(第15回)

 

 現在のラトビアの地域は、当時のロシア帝国のクルゼメ県、ヴィゼメ県、ヴィツェプスク県(現在のベラルーシに重なる)として行政区分されていた。

 

 第1回祭典は1873626日から29日(新暦で78日から11日)に行われた。全体合唱には45の男性合唱団、計1003人が参加をし、教会音楽や世俗音楽のコンサート、歌合戦が行われた。全体合唱では、レパートリー25曲のうち12曲がラトビア人作曲家によるものであった。

 

当時の県知事の許可を得たり、皇帝アレクサンドル2世の統治25周年に合わせて第2回祭典を行うなど、帝政ロシア時代の権力とうまくやり取りを行うことで、祭典の実行の許可を得ていた。

 

 

 

2期:ラトビア最初の独立時代(第69回)

 

19181118日にラトビアはロシア帝国からの独立を果たす。独立国となった時代には、当時のラトビア大統領チャクステが祭典のオープニングの祝辞を述べたことから、祭典は民族国家となったばかりのラトビアにとってすでに大きな意味を持っていたことが伺える。全体合唱のレパートリーのほぼすべてがラトビア人作曲家によるもので、祭典はまさに独立した民族の自由の象徴だった。この時代からオーケストラや吹奏楽団などのコンサートも平行して行われ、祭典の規模は大きくなっていく。

 

 

 

3期:ソ連占領時代、第2次世界大戦、ラトビアソビエト社会主義共和国時代(第1019回)

 

2次世界大戦後、ラトビアがソビエト連邦の支配下に入ると、祭典の運営はラトビア共産党とラトビアソビエト社会主義共和国連邦当局の手に委ねられるようになる。これまで、「全ラトビア歌の祭典」という名称が、ソ連の支配下に入ったことにより「ソビエトラトビア歌の祭典」と冠されるようになる。

 

ソ連時代、民衆の芸術活動は一般に広く支持され、合唱活動、舞踊活動、音楽活動は衰えることはなかった。ラトビア国家音楽院では、合唱指揮科、音楽教育科、文化活動科など新たな学科が設立された。1955年から歌の祭典に踊りの出し物が加わり、現在まで続く、踊りの祭典が生まれる。

 

しかし当局により5年に一回の祭典のサイクルが、政治的な記念日()にあわせて変則的になった。例えば、「ラトビア歌の祭典70周年記念・ソビエトラトビア第1回歌の祭典」(1948)を皮切りに、「ソビエトラトビア25周年記念歌の祭典」(1965)、「レーニン生誕100周年記念・共和国30周年記念ソビエトラトビア歌と踊りの祭典」(1970)、「ソビエト連邦設立50周年記念・歌の祭典100周年記念ソビエトラトビア歌と踊りの祭典」(1973)、「10月社会主義大革命60周年記念・ソビエトラトビア37周年記念歌と踊りの祭典」(1977)、「ラトビアにおけるソ連権力回復40周年記念ソビエトラトビア歌と踊りの祭典」(1980)、「大祖国戦争におけるソ連人民の勝利40周年記念・ラトビアにおけるソ連権力回復45周年記念ソビエトラトビア歌と踊りの祭典」(1985)とすることで、共産党はありとあらゆる口実を見つけて政治的記念日を付加し、祭典に自らの影響力を忍び込ませた。

 

ソ連時代のレーニンの言葉「芸術は人民のものである」というスローガンは、「芸術活動は義務である!自主活動(余暇に行う活動、趣味)にはかくかくしかじかの割合の労働者が参加しなくてはいけない!すべてのコルホーズや工場には合唱団がなければならない!」と解釈されていた。このような当局の強制ともいえる自主活動の促しは「自主」とは一見互いに相容れないが、一方で歌や踊りを愛する人にとっては好都合であり、逆説的だが、国家によるアマチュア芸術活動の奨励がなければ、ソ連時代の合唱運動の発展や歌の祭典自体の存在も危ぶまれていたかもしれない。

 

ソ連時代もラトビア人作曲家による新曲やアレンジなどは続いていた。ラトビアの民族衣装を着たり、民族装飾を祭典のポスターに取り入れたり、舞台建築の点においても、形式的には民族主義的であった。しかし内容的には、レパートリー中のラトビア人作曲家による作品の割合は明らかに低下し、その代わりに共産党や祖国ソ連を賛美する歌や、ソ連のその他の共和国の民族との友好を歌った歌が取り入れられ、歌詞内容について当局の検閲を受けた。また他のソ連の共和国からの代表団も参加するなど、祭典はラトビア人のものだけではなく、次第に「インターナショナル」になっていく。

 

 

 

4期:民族覚醒運動(Atmoda)、歌の革命(Dziesmotā revolūcija)ラトビア独立回復時代(第20

 

80年代の民族覚醒運動はラトビアの政治家や芸術家や知識人、亡命ラトビア人の活動が大きいが、そこには歌が大きな役割を果たし、独立機運を高めていた。これが、86年から91年までの独立運動が歌の革命と呼ばれる所以である。89年の8月には、ソ連によるバルト3国の併合を取り決めた独ソ不可侵条約が結ばれてから50年が経ったことを契機に、南北にわたって600kmにわたるバルト3国の首都を人々が人間の鎖となって手を繋いで結び、ソ連からの独立回復を願った。

 

 独立回復宣言後の2ヶ月後、19907月初めに行われた歌と踊りの祭典では、ソ連時代に禁止されていた独立時代の国歌「神よ、ラトビアをたたえよ」を歌う権利の回復は、独立回復とまさに一致している。名称も「第20回全ラトビア歌の祭典・第10回踊りの祭典」となり、これは今回2013年の祭典の名称「第25回全ラトビア歌の祭典・第15回踊りの祭典」にも受けつがれている。

 

 この20数年で最も大きかったのは、他のバルト諸国とともにラトビアの歌と踊りの祭典がユネスコの世界無形文化遺産に登録されたことであろう。これにより、歌の祭典はバルト諸国が世界に誇れる伝統と文化であることが証明されたのである。

 

 

 

ラトビア国外のラトビア人による歌と踊りの祭典

 

第二次大戦後、約10万人のラトビア人が西側に亡命したが、戦後で混乱していた時代でも異国の地でも、ラトビア人は歌を通じて自分たちのアイデンティティーを確認していた。

 

1946年、英米仏軍が占領していたドイツでラトビア人による最初の「歌の日」が確認されている。これはニュルンベルグ近郊の町など7つの都市で行われた。その他にもイギリス(「歌の日」1949年から1986年)、オーストラリア(「ラトビア文化の日」1951年から1989年)、カナダ(「歌の祭典」1953年から)、アメリカ(「アメリカラトビア人全歌の祭典」1953年から)、ヨーロッパ(「ヨーロッパラトビア歌の祭典」1964年から1989年)で行われてきている。ラトビアのソ連からの独立後、歌の祭典は開かれなくなった国もある。最も大規模なのはアメリカのラトビア人による歌の祭典で、2012年に行われている。

 

ラトビア国外の祭典も、ラトビア国内の祭典同様に様々なジャンルの芸術の展覧会や演劇、踊り、音楽のコンサートが行われ、ソ連時代にはラトビアで演奏ができなかった作曲家の曲を演奏することができた。合唱指揮者には亡命したラトビア人が呼ばれた。亡命ラトビア人による合唱団や音楽アンサンブルは、独立後のラトビアの祭典に毎回招待される。

 

 

 

社会学調査「変動する社会における歌の祭典」

 

文化省の指令により2002年に行われたこの社会学調査では祭典の運営関係者や参加者、音楽学者、一般人を含めた1000人が対象のアンケート調査により、歌の祭典の実態を検証した調査報告書である。

 

祭典の参加経験者の割合は調査対象の1000人のうち、女性で37,1%、男性で19,5%であった。

 

典型的な参加者は、25歳以下の若い女性、ラトビア人、地方出身、高等教育を受けたか、現在学生であり、自分を中流階級の上に置いている。一方、典型的な観客は、40歳以上の女性、ラトビア人、高等教育を受け、同じく自分を中流階級の上に置いている。

 

歌の祭典の意味について多くの回答者は、大きな文化的伝統、ラトビア人らしさが最も発揮される場所、国際的なラトビアの位置づけに大きな意味を持っているもの、そして開催中自分がラトビア人であることを確認できる機会としている。また娯楽であると同時に、感情が高まるまたとない機会である。ラトビア人の民族的アイデンティティーに加え、民族の社会的・政治的結束を養うため意味を持っていることは、関係者、マスメディア、一般人ともに共通した意見である。

 

多民族国家のラトビアでは、歌の祭典への関心は民族別に異なる。その意味で祭典は多民族社会全体を結束させるよりも、ラトビア人を結束させる力を持つ。ラトビア人が集団で歌の祭典に関わるのに対し、非ラトビア人の祭典への関わり方は個人的である。しかし一方で同時に、半分近くの回答者は、民族の違いや経済的格差、世代を忘れさせる効果を祭典は持っていると答えている。

 

資本主義社会では、自発的な文化活動には時間のなさが障害となっており、ラトビアも例外ではない。よって祭典への参加を念頭に入れた活動には、自身のモチベーションが必要である。

 

大衆文化の影響は、歌の祭典にも入り込んできている。例えばそれは多声よりも2声や1声が、アカペラよりも伴奏つきの曲が中心になりつつあること、演奏の簡素化、電子楽器の使用、舞台の音響に反映されており、ソロ歌手、ポップスの人気歌手や舞台演奏家が招待されることも珍しくない。これを支持しているのは祭典の運営者や芸術監督であり、逆に指揮者や音楽学者は本来の伝統的な形式を保守したいとしている。このように全体合唱の役割や人間の声自体の役割が小さくなっていると指摘される傾向が出てきている。またテクノロジーの発達による祭典のショー化も危惧されている。

 

祭典の芸術的側面について、まずプロの音楽家とアマチュアの参加者の意見の相違がある。それはレパートリーの難易度である。プロが毎回の祭典でレパートリーの難易度を上げる傾向があるのに対し、アマチュアはその難易度についていくのが大変であるとしている。またプロの中からも祭典のレパートリーの高い難易度により、アマチュア合唱団のレパートリーそのものが狭まっているという声もある。しかしアマチュアにとって祭典の芸術的側面はあくまで多くの側面の中のひとつに過ぎず、祭典は民族のお祭りであるとする意見が多い。

 

レパートリーについては、その難易度と同時にその内容も問題である。観客が知っているような歌か、民謡のアレンジか、宗教曲か、現代作品かの点で常にバランスをとる必要があるのは誰もが認めている。

 

変わらないものと変わるもの

 

社会による権威と国家による援助で祭典が伝統を維持する力は増しており、祭典の存続とそのための伝統の維持に多くの人が肯定的である。それはまたレパートリーへの要望にも現れ、レパートリーの中心はやはり民謡であるべきというのは多くの人の願いである。

 

一方で、祭典はその場で動かないものではなく絶えず動いていくものである。市場経済の中で、文化への姿勢、人と人とのつながり、余暇の過ごし方が多様化しつつある。その中で人々が今後どのようにして時間をやりくりして音楽と関わっていくかが問題である。

 

また参加者の多くが若い女性であるという、年齢と性別による不均衡をどのように是正していくのか?さらに祭典にとって、参加者が「大都市」と「地方」から来ていることを認識することは重要である。大都市の人口は地方の3倍にもかかわらず、地方からの参加者や観客も多く、祭典でも重要な位置を占めている。しかし学校や公共交通機関などの合唱運動のために必要な地方のインフラをどのように整備するか?主に海外を中心に活動しCDを出す「エリート合唱団」が祭典に参加しないこと、ポップスしか聴けない若者など、祭典に対する価値観やそもそもの美的感覚が多様化していることが、祭典の今後を占う要素である。

 

 

 

※学術論文などへの引用の際は、出典として本資料の明記をお願いします。

 

参考資料・URL

 

Dziesmu svētku mazā enciklopēdija. 「歌の祭典小百科事典」 Musica Baltica.2004.

 

www.dziesmusvetki.lv

 

  

 


 

 

 



最終更新日 ( 2018/07/01 日曜日 10:25:23 JST )
 
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