月1回、大使館で行われている佐藤拓さん(ガイスマ指揮者)指導のラトヴィアの歌を歌う会が大変好評です。以下は佐藤さん執筆の第8回(17年11月)から第11回(18年2月)のテキストです。毎回、歌を一曲マスターするだけではなく、ラトビアのいろいろなことが興味深く語られ、大学の教室のような雰囲気も感じられます。是非多くの方の参加をお待ちしています。次回は3月第3木曜(22日)です。お問い合わせは加藤民子さんへ。(編集室) 第8回」 『Pacel galvu, Baltā Māt!』 頭を上げて 白髪のお母さん 作詞ヤーニス・ペーテルス(Jānis Peters)、作曲ライモンズ・パウルス(Raimonds Pauls)という、Manai Dzimtenei「我が祖国」と同じタッグによって1991年に発表された作品です。パウルスはその当時ラトヴィアの文化大臣を務めていました。 「太陽が出ない夜も 歌っていたのは誰だったのか」「自分の国を歌っているのは 太陽の子供たち」という歌詞は、ソ連の支配下にあってもなお歌うことやめなかったラトヴィア人自身のことを指しています。この曲が作曲された1991年はラトヴィアがソ連からの独立を回復した年であり、長きにわたる暗い時代を脱して、ラトヴィアの大地が新しく生まれ変わるような感動にあふれています。 1993年、独立回復後はじめての歌と踊りの祭典でこの曲が歌われました。同年ラトヴィアを訪れた稲門グリークラブ(早稲田大学グリークラブのOB団体)は、リガの女声合唱団ジンタルス(Dzintars)がアルト・ソロと共にこの曲を歌うのを聴き、大きな感銘を受けたとのことです。 20世紀以降のラトヴィアの歴史 1918年11月18日 第一次世界大戦後に独立を宣言(ラトビア第一共和国)。 1940年8月5日 ソ連に併合され、ラトビア・ソビエト社会主義共和国となる。 1941年 第二次世界大戦(独ソ戦)により、全域がナチス・ドイツの軍政下に入る。 1944年 大戦末期、ソ連が再占領。ラトビア・ソビエト社会主義共和国が復活。 1980年代後半 「歌う革命」の始まり 1989年8月23日 「バルトの道」 (200万人がバルト3国を結ぶ600km以上の人間の鎖を形成した) 1990年5月4日 ラトビア共和国がソ連からの法的独立を宣言。 1991年8月21日 ラトビア共和国最高会議による完全独立宣言。 諸外国からの国家承認がなされ、事実上の独立を達成。 1991年9月6日 ソ連がラトビア(およびエストニア、リトアニアのバルト三国)独立を承認。 2004年5月1日 欧州連合 (EU) 第9回 『Dziedot dzimu, dziedot augu』 歌いながら生まれ、歌いながら育った ラトヴィア人に広く愛される民謡。歌を愛し、歌に生きるラトヴィア人そのものを歌ったような内容であることから、歌と踊りの祭典でも頻繁に歌われています。合唱への編曲はアルフレーツ・カルニンシュ(Alfrēds Kalniņš 1879—1951)によってなされました。 歌うことが単なる娯楽ではなく、人間の生活・人生そのものと深く結びついているというのは、民族的な歌唱の伝統を持つ人々には共通の事ですが、ラトヴィア、そしてバルト3国においては「民族の自立」「国家の独立」への思いが、いっそう歌を重要な存在としています。 『歌う革命』 1980年代後半、ゴルバチョフ書記長によるグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)によって、自由主義運動への弾圧が緩和され、その結果ラトヴィアを含むバルト三国で独立運動が加速しました。市民団体による街頭デモ、マスメディアによる啓発、大群衆によるソ連当局への抗議活動など様々な場面で「歌」が用いられ、歌によって独立の機運を大きく高めたことから「歌う革命」と呼ばれています。 革命を象徴する出来事に「バルトの道(Baltijas ceļš)」と呼ばれる大規模なデモ活動があります。1989年8月23日、およそ200万人が参加して手をつなぎ、3共和国を結び、約600km以上の人間の鎖を形成しました。このデモンストレーションは、バルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書締結50周年を期して行われ、三国が共通の歴史的運命を共有していることを、国際社会に訴えるために行われました。この人間の鎖のあちこちで、人々の口から歌が沸き起こっていたといいます。 第10回 『Mīla Ir Kā Uguns』 愛は火のように 1985年、映画音楽や舞台音楽の作曲家であるマールティンシュ・ブラウンス(Mārtiņš Brauns、1951~)によって作曲された作品です。作詞は数々の愛国的な歌曲の詩で知られるヤーニス・ペテルス(Jānis Peters、1939~)で、彼が脚本を手掛けていた舞台作品『シラノ・ド・ベルジュラック』の挿入歌として作曲されました。 その後ブラウンスが所属していたロックバンド“Sīpoli”の重要なレパートリーとなり、その親しみやすいメロディと、「他のなんでも奪えるが、この愛だけは奪えない」と歌う愛国的な歌詞による昂揚感も相まって、合唱曲としても広く歌われるようになりました。2001年に行われたリガ建都800年祭でも歌われ、今年行われる歌と踊りの祭典のプログラムにも加えられています。 『歌と踊りの祭典2018』 1873年に始まったラトビアの歌と踊りの祭典が、今年の夏5年ぶりに開催されます。歌の祭典としては26回目、踊りの祭典としては16回目となります。 期間は2018年6月30日~7月8日。この9日間の間ほぼ毎日のように様々なコンサートやイベントが催され、それらには延べ50万人が参加すると言われています。ラトビアの人口が訳196万人ということを考えると驚異的な数字で、まさに国家の一大行事であることがわかります。 イベントは合唱のみならず、民族舞踊、吹奏楽、演劇、少数民族の民謡、クオクレの合奏などバラエティに富んでいます。中でも重要なのが7月1日に行われるオープニングセレモニーと、7月8日のクロージングコンサートです。 オープニングではフラッグ・セレモニー、リガ大聖堂での宗教音楽のコンサートに続いて、民族衣装に身を包んだ参加者による大パレードが行われ、リガの町中を行進します。 最終日のクロージングコンサートは最大規模で、メジャ公園野外劇場で12000人の歌い手と数万人の聴衆が集い、夜の8時から3時間に及ぶ演奏が続きます。プログラム終了後も参加者はその場に残り、夜明けまで歌と踊りを続けます。 第11回 『Lokatiesi, mežu gali』 背を低くして 森の木々よ 非常に可愛らしい雰囲気のラトヴィア民謡。歌詞の内容は若い男女の結婚にまつわる対話のようですが、断片的でとりとめがなくストーリー性がありません。 曲の雰囲気は底抜けに陽気で活力に満ち、若い娘たちが春になると屋外で楽しくダンスをしながら、近隣の家々に歌を呼びかけるような景色が浮かんできます。 合唱の編曲はエミリス・メルンガイリス(Emilis Melngailis、1874~1954)によって行われました。メルンガイリスは独立以前から民謡の収集、編曲に力を注いできた人物で、非常に数多くの作品を残しています。また歌と踊りの祭典の首席指揮者としても活躍し、ラトヴィアの合唱文化の育成にも多大な貢献を残しました。 訳詩 日本語訳:堀口 大樹
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