黒沢幸男さん(80歳)が12月2日、肝臓癌のため至誠会第二病院で死去されました。通夜葬儀は6~7の両日、家族だけで営まれました。協会への貢献は加藤晴生専務理事が書いてくれましたが、私とも50年来の親友(グリーでは私が4年上)で、いつもコンサートで一緒になり、音楽談義を楽しむ仲でした。つい最近まで続いていました。数え切れない思い出が脳裏をよぎります。 長く音楽の友社に勤務して、数多くの音楽家から親しまれ厚い信頼を得ていました。早稲田グリーの先輩でもある指揮者・須賀敬一さんは「日本の合唱の大恩人。いろいろなことを相談した。考えてくれた。力になってくれた。私たちがしなければならない進行中の案件もあった。ありがとう黒沢さん、辛いよ、さびしいよ」と悲しみの言葉を述べ、栗山文昭氏、新美徳英氏ら多くの音楽家もFacebookを通じて哀悼の言葉を捧げておられました。人間愛・音楽愛にみちた人でした。合掌【編集室 徳田浩】 ※下の写真はあるコンサートの打ち上げレセプションでの最近影です。左から2人目が黒沢さん、一番右側が編集子です。 頼んだことは黙って成し遂げてくれる頼りになる方でした 専務理事 加藤晴生 黒澤さんとの付き合いは私が早稲田グリーに入部したての頃、ある会合で隣の席の彼が長野県出身であることを知り、私が終戦直前の3ヶ月間、学童集団疎開先の須坂でお世話になった時のことを話したのがきっかけで、お互い年齢も近かったこともあり親近感を持ってくれたようです。私が入部した時、黒澤さんは最上級生(4年)でした。 最後に話をしたのは8月19日、Latvian Voicesの記者会見の時です。その後、用事でシニア会の練習後の溜まり場に顔を出した時、いつものように「オゥ」と言われたので挨拶しました。お元気そうでした。まだ一緒にやりたいことがあるのにと思うと残念です。 黒澤さんは私たちから依頼を受けると騒ぎ立てることなく必ずキチンと成し遂げてくれる頼りになる方でした。96年ジンタルス初来日の際、資金面での問題が出ました。私はこのプロジェクトダメになるかもしれないと腹を決めました。同期の遠藤君が一緒に頑張ろうと励ましてくれ、徳田さんが海外在住を含むOBたちに募金応募要請を出状 (メールのない時代です)、黒澤さんは黙って事前に大手企業の助成金申請をしておいてくれました。ジンタルスの訪日は大成功でした。 98年私たちは、ラトビア文化大臣から歌の祭典参加の招聘状戴き祭典に参加、2001年のジンタルス再来日を経て多くの方々のお力添えにより2004年の協会創立に至りました。音楽の知識が深く多くの音楽家と親交がある黒澤さんには、最も頼りになる存在として当初から常務理事として協会の運営を担っていただきました。訃報に触れた時、私の心にポカンと穴があくような衝撃を受けました。黒澤さんはきっと天国から協会の発展を見守ってくれると信じています。「加藤、がんばれよ!」と励ましの声が聞こえる気がします。黒澤さんのためにも立派な協会にしなければならないと、強く心に念じました。さようなら、黒澤さん。本当にお世話になりました。
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