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【12/5】ラトビア共和国・ヴァイヴァルス大使を関西学院にお迎えして PDF プリント メール
作者 webmaster   
2008/12/09 火曜日 23:24:23 JST
90年前に関学で教えたラトビア人・オゾリンが取り持つ縁「大使はいつも笑顔で、その場の空気を和ませてくださる、私にとっては“特別の存在”です」。 

関西学院 学院史編纂室 池田 裕子

 

 

 ペーテリス・ヴァイヴァルス大使を関西学院にお迎えする日がやってきました。高等学部(文科・商科)で英語を教えていたイアン・オゾリンの辞職は1921年のことでしたから、関西学院にとっては、87年振りにラトビア人の訪問を受けることになります。ラトビア共和国が独立を宣言して90年目に当たる記念すべき年に、初代駐日大使が関西学院を訪問されることを知ったら、オゾリンはどんなに喜ぶでしょう?!

 

 10月10日午前10時10分、永田雄次郎学院史編纂室長と私は兵庫県公館に到着しました。前庭には、ラトビア国旗と日の丸が掲げられていました。現在、大使は知事を表敬訪問されているのです。室長と私は、公館の美しい庭を散策しながら大使を待ちました。

 10時半過ぎ、大使と大使館員オレグス・オルロフスさんが出て来られました。関西学院の公用車に、運転手を含め大人5人が乗り込むと、後部座席は密着状態です。少しでも足元を広くするため、助手席を目一杯前に出し、その後ろに大使にお座りいただくことにしました。その横で、オレグスさんと私は小さくなって座りました。一国の代表をお迎えするには申し訳ないような狭さでしたが、気さくな大使は笑顔で乗り込んでくださいました。

 ここから西宮市にある関西学院までは約1時間のドライブです。その途中、神戸文学館に立ち寄ります。オゾリンが教えていた当時、関西学院は原田の森(現在の神戸市灘区)にありました。そこは現在、神戸市立王子動物園(リガ市から寄贈されたインドゾウ「ズゼ」がいます)になっています。そして、当時ブランチ・メモリアル・チャペルと呼ばれていた建物が今は神戸市の所有となり、神戸文学館となっているのです。

 神戸文学館では、山本幹夫館長と学芸員の義根益美さんが迎えてくださいました。ここで驚いたのは、大使が日本文学に大変お詳しいということです。実に多くの作品をお読みになっていて、今年は逃したけれど、村上春樹にぜひノーベル文学賞をとおっしゃいました。「村上春樹は神戸の隣の芦屋市の出身です」との館長の説明に、大使は一層関心を深められたようでした。

 文学館の中で神戸出身の文学者やオゾリンの話をした後、「それでは、記念撮影をしましょう」と言って外に出ました。石垣に刻まれた『関西学院発祥之地』の文字を目指して階段を下りた時、一人の外国人青年が通りかかりました。青年の胸に「ヤーニス」という名札が見えました。そこで、オレグスさんが声をかけられると、何とこの青年はラトビア人だったのです! しかも、「ヤーニス」はオゾリンのファースト・ネームです。ヤーニス君は日本を旅行中で、東京から歩いてここまで来たそうです。この思いも寄らぬ奇跡的邂逅に、皆、言葉をなくしました。人間の力の及ばない、大きな不思議な力が働いているとしか思えませんでした。大使は「池田さんが呼び寄せたに違いない」とおっしゃいました。「いいえ、オゾリンが引き合わせてくれたのだと思います。だって、名前が同じですから」と私はお答えしました。「ここはラトビア人をひきつける特別な場所かもしれない」と大使は感慨深げでした。「ラトビアのことを書いた本を大使館から寄贈するので、文学館の中にラトビアのコーナーを作ってもらえないでしょうか?」と大使は山本館長に申し出ておられました。「できれば、そこにオゾリンの紹介文も付けてください」と私からもお願いしました。館長も義根さんも「ぜひ、そうしましょう」と言ってくださっていましたが、このヤーニス君との邂逅により、それはそうすべき必然があるように思われました。 

 印象深いひと時を過ごした神戸文学館をあとに、西宮市に向かいました。関西学院でお会いいただく方々のことを説明している内に、車は西宮上ケ原キャンパスに到着しました。正門を入って学院本部前で車を停め、院長補佐の舟木讓先生の歓迎を受けました。3階の院長室にご案内すると、外務省の天江喜七郎参与(関西日本ラトビア協会会長)は既に到着されていました。

 ルース・グルーベル院長主催の歓迎昼食会は12時45分からです。大使は、5月に行われた在大阪ラトビア共和国名誉領事館開設記念レセプションで、院長とは既に顔を合わされています。理事会から駆けつけられた院長としばし歓談された後、2階に用意された昼食会場に向かいました。ヴァイヴァルス大使、オレグスさん、天江さんをお迎えしての昼食会への関西学院側出席者は、グルーベル院長、畑静子前院長夫人(オゾリンを関西学院に紹介した畑歓三の息子の妻)、杉原左右一学長以下9名でした。

 アメリカの南メソヂスト監督教会が創立し、後にカナダ・メソヂスト教会が経営に参加した関西学院では、今も会議開始時や食前に祈りをささげる習慣があります。食事を前に、宣教師でもある院長が祈りの言葉を口にされると、皆目を閉じて下を向きました。前もってこのことを大使館にお伝えし、大使には祈りの習慣はないけれども関西学院のやり方を尊重するとの回答を得ていた私は、こっそり目を開けて大使がどうされているか確認しました。すると、大使もしっかり目を開けておられました! 

 

 昼食会での会話は、最初から最後まで英語でした。院長はアメリカ人ですから、英会話に何の支障もないのは当然ですが、その他は日本人7人、ドイツ人1人です。戦前は「英語の関学」と言われていたらしい関西学院ですが、そんな看板はとっくの昔に下ろしています。それでも、大使をお迎えするということで、出席者は持てる以上の力を振り絞ったのでした。

 今回の準備をする中で、産業研究所のホルガー・ブングシェ先生のお父様(88歳)がベルリン生まれ、ラトビア育ちのドイツ人であることを知りました。関西学院の中でやっと見つけた唯一のラトビア関係者です。ブングシェ先生は、お父様からお聞きになった体験談をご披露くださいました。また、畑静子さんは、3月に亡くなったご主人(前院長)が、ソ連時代に関西学院大学交響楽団演奏旅行でリガを訪問された時の写真をお持ちくださいました。

 大使は、オゾリンに関するラトビア語の資料を院長と私にプレゼントしてくださいました。ラトビア語は全くわからないながらも、じっと見ていたら、意味が推測できそうな部分もあって、『ターヘル・アナトミア』を前にした杉田玄白の心境です。10年間恋焦がれてきたオゾリンのことが書かれているというだけで、私には光り輝いて見えました。

 食後は、院長と室長によるキャンパス・ツアーです。話が弾み、昼食会が20分以上長引いたため、お見せできたのはハミル館だけでした。旧キャンパス原田の森から移設されたハミル館は、オゾリンがいた当時、高等学部文科の校舎として使われていました。現在は心理学の研究室になっています。ここで、名誉教授の宮田洋先生が何故か見事なポーランド語でご挨拶され、大使は度肝を抜かれたご様子でした。

 ハミル館を出られた大使とオレグスさんは、スパニッシュ・ミッション・スタイルと呼ばれるキャンパスをお歩きになって、「ここは日本ではないみたいですね」とおっしゃいました。

 

キャンパス・ツアーの後は、いよいよ関西学院大学主催特別講演会「バルト海の真珠ラトビア、EUの一員Latvija - Baltijas pērle Eiropas Savienībā」です。会場は、この春できたばかりのG号館101号教室。講演会のことが読売新聞と朝日新聞で紹介されたため、学生だけでなく、一般の方にもお越しいただき、200名程集まりました。

 杉原学長の挨拶のあと、ラトビア紹介のDVDを約10分間流しました。そして、大使と通訳オレグスさんの登場です。大使から関西学院でご講演いただけるとの話をお受けした時、英語か日本語通訳付きのラトビア語でとのご提案でした。講演会を協賛する経済学部と相談したところ、迷うことなくラトビア語でお願いすることになりました。講演会参加者から「大使の話される美しいラトビア語の響きに魅了された」との声が寄せられましたから、この選択は大正解だったと思います。

 私自身は、中座している時間もあったため、講演内容の詳細をお伝えすることはできませんが、いくつか印象に残った言葉を挙げてみましょう。「皆さんはラトビアを遠い国と思っておられるかもしれません。しかし、日本とラトビアは案外近いのです。両国の間にはロシアがあるだけです」「なぜラトビアのことが日本で知られていないかというと、ソ連時代、鉄のカーテンで覆われていて、内部で行われていたことが全く漏れないようにされていたからです」「これまでの経験から、私たちはロシア人のことを知り尽くしています。ロシアのやり方を熟知しているし、ロシア語も自由に話せます。そんな私たちの力をぜひ活用してください。例えば、日本がロシアと直接取引きした場合、ロシアの税関で荷物が2週間とめられます。ところが、ラトビアを経由すれば、それを半分の1週間にすることができるのです」「私たちにとって音楽は空気みたいなものですから、なぜラトビアで音楽が盛んなのか、その理由を説明するのは困難です。ただ、他国の支配を受けている期間が長かったため、言葉にするのが許されないこと、例えば、『ドイツ人は嫌いだ』とか『ロシア人に虐められた』という内容を歌にしてきました」「民族、言葉、宗教の異なる人々と共存する状態がラトビアにとっては常にノーマルなことだったので、それが特別なこと、難しいことだとは思っていません」。

一方通行で終わるのではなく、来場者からの質問に答える時間を多くしたいとの大使のご配慮のおかげで、活発な講演会になりました。質問のひとつひとつに、ユーモアを交えながら、丁寧に、誠実にお答えになる大使の紳士的態度と、オレグスさんの当意即妙の通訳、フロアとの見事なやりとり、お二人の抜群のコンビネーションに、参加者は引き込まれました。質問が次から次に出たため、途中で打ち切らざるを得なくなってしまったのは心苦しいことでした。講演終了後、大使とオレグスさんに声をかける人々が群がり、大変な人気でした。オゾリンもどこからか、見てくれていたでしょうか?

 

帰りは、グルーベル院長、杉原学長、山内一郎前理事長、永田室長等に見送られながら、再び関西学院名物(?)ぎゅうぎゅう詰めの公用車にお乗りいただき、新大阪駅までお送りしました。3連休前夜のみどりの窓口は長蛇の列で、オレグスさんはびっくりされました。「大使は普通の方ではないからグリーン車でしょう? グリーンならすぐに指定が取れるから大丈夫」と耳打ちすると、「グリーンには乗りますが、大使は普通の人です。特別な人ではありません」とオレグスさんはきっぱり否定されました。関西学院にお迎えするに当たって、ぎゅうぎゅう詰めの公用車以外にも数々の失礼、不手際があったことと思います。大使はすべてを包み込み、いつも笑顔で、その場の空気を和ませてくださいました。そんな大使は、私にとってやっぱり「特別な存在」です。

 【この原稿はLatvija編集室が池田裕子氏に依頼したものです。カラー写真が多数送られてきましたので、同氏の了解を得てHPにも掲載しました。当日の模様の一部が10月31日、BSジャパンの番組「大学が変わる。現場へ」で放映されました。Latvija編集室】

1 昼食会後の記念写真 大使、グルーベル院長(女性)の後は左からオレグス大使館員、ブングシェ准教授、天江外務省参与、杉原学長、竹本経済学部長、伊藤同教授、畑前院長夫人、永田学院史編纂室長、筆者(池田)、舟木院長補佐【写真はいずれも関西学院学院史編纂室提供】

 

2 美しいラトビア語で講演したヴァイヴァルス大使

 

3 オレグス館員が見事な日本語で通訳を務めた

 

 

4 かつて関西学院があった原田の森の神戸文学館に立ち寄り、偶然通りかかったラトビア人青年ヤーニス君と奇跡的な出会いがあった(左から2人目)

 

5 英語で歓迎の挨拶する筆者(昼食会)

 

6 ソ連時代に関学交響楽団がラトビア演奏旅行をした時の写真を感慨深く見る大使ら

7 昼食後、院長と緑濃いキャンパスを散策 院長はノルウエー系のアメリカ人で話は弾んだ

 

最終更新日 ( 2008/12/21 日曜日 23:35:12 JST )
 
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