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【4月20日】藤井会長「ダンスシューズは雪のシベリアへ」について PDF プリント メール
作者 webmaster   
2014/04/20 日曜日 21:29:36 JST

「ダンスシューズで雪のシベリアへ」(新評論刊)について 

                          日本ラトビア音楽協会会長 藤 井 威 

   冒頭に、「本書の出版おめでとう」と、心からお祝いしたいと思います。 

  まず第一に、著者のサンドラ・カルニエテさんとは、どんな方かをご紹介しなければなりませんが、彼女の波瀾に満ちた経歴を理解するためには、ラトビア民族の経験した信じ難いほどの苦難と忍従の近現代史の知識が欠かせません。

  ラトビア語を母語とし、ラトビア独自の伝統と文化、特に音楽を愛好する独自の志向を持つ人々が、民族統一国家の樹立を19181118日の独立宣言によって成し遂げます。第一次大戦末期のロシア革命の大混乱の中で、初めてロシア帝国のツァーリ支配から脱却したのです。ラトビア民族にとって悲願の民主・独立国家の形成であり、将来に向けて洋々たる未来への希望に満ちあふれた門出でした。誰もがそう思ったでしょう。誰一人としてこれが苦難と忍従の苛酷な悲劇の幕開けなどと思わなかったでしょう。

  1940年、第二次大戦の勃発の下で、ラトビアはまずスターリン赤軍の占領、続いてヒトラー・ナチス軍の侵入、さらに再び赤軍の再占領と厳しい悲劇が襲いかかり、結局、独立機関は22年間に過ぎず、第二次大戦終結後もソビエト連邦を構成する一共和国として併合されてしまいます。そして、ソ連統治下の全体主義的抑圧政策、とりわけKGBの強圧的な監視体制の下で窒息的な体制で継続するのです。ラトビアの人々は、1989年のベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の消滅の激動の中で1990年、独立国家への移行期間入りを宣言、1991821日、歓喜の歌声の中でラトビア独立回復宣言を行います。ラトビアの人々にとって、1940年の赤軍占領から1991年の独立回復までの長い長い51年は、不法な占領と規定しています。独立国家への重要なステップの第一は、1989年、バルト三国市民が、北はエストニアの首都タリンからラトビアの首都リーガ、そして南のリトアニアの首都ヴィリニュスに至るまで、600キロメートル、200万人の人間の鎖を作って世界の自由と独立を訴えたこと、第二に1991年、ソ連特殊部隊黒ベレーの銃口に素手で立ち向かい、死者わずか6人、ほとんど無血で黒ベレーによる弾圧を抑え切ったこと……、この二点は「無血の歌う革命」として人類史上初めての快挙でした。

   一冊の本を紹介するのに、これだけの前文が必要と言うのも珍しいでしょう。そしてこの本は、それに値する面白さと、読む人を夢中にさせてしまう見事な内容を持っているのです。

   この本の著者、サンドラ・カルニエテは、ラトビアでは知らぬ人もない若き女性政治家です。ロシアのウラル山脈を越えてシベリアに入ったところ、トムスク州トブルに1952年に生まれています。シベリア生まれのラトビア人が「何故!」…、そう思いますね。第二次大戦は1945年に終っていますが、ラトビアはそのままソ連邦を構成する一つの州としてソ連型共産主義の全体主義的統治体制下にあり、サンドラ一家は、ラトビア帰還の夢を実現したのは1957年でした。サンドラ、5歳の幼児です。

   その後サンドラは、ラトビアの地で、ラトビア独立回復運動の主導者の一人として活躍を始め、1989年の人間の鎖にも率先して参加します。1991821日、ラトビアはエリツィン大統領治下のロシア共和国からの独立回復宣言を発します。独立ラトビアの政府期間としては、共産主義政権の下での行政機関は形だけは存続しましたが、全く新しく発足させなければならない重要な二期間がありました。軍隊と外務省です。サンドラは直ちに新設の外務省に入省し、1993年国連大使に任じられます。ラトビア新政府としては、ロシアとのきずなを断ち切り、民主国家、市場経済国家として新しい発展を期する以上、欧州の新興国家として国際的に受け入れてもらうことが絶対に必要であり、サンドラは41歳の若さで、その最前線の外交官に任ぜられたのです。サンドラは有能な外交官として、フランス大使、ユネスコ大使を歴任し、2002年には外務大臣となり、2004年のラトビアEU加盟を実現するとともに、ラトビア初代の欧州委員(EUの閣僚級ポスト)に任ぜられ2009年以降は欧州議会議員として活躍中です。

   サンドラほどの有能で新興ラトビアの不可欠の人材が、渾身の力をこめて書き記した本書は、“サンドラ・カルニエテという政治家個人の自叙伝だろう”と思うのが普通でしょう。しかし、そうではないのです。

  本書は、サンドラの父及び母の二家族の信じられないほど苛酷で悲惨な経験を徹底的に調べあげて書き記した「慟哭」の記載であり、そんな境遇に忍従と創意工夫によって耐え抜いた両家の人々の「意志力」の記録なのです。 

 サンドラの母、リギタ・ドレイフェルデは、サンドラの母方の祖父母、ヤーニス・ドレイフェルズとエミリアの娘でした。勤勉なドレイフェルズ家は、比較的裕福な家庭を築いていましたが、1939年に始まった第二次大戦下に、スターリン治下のロシア赤軍の大軍がラトビアに侵入し占領した時、ドレイフェルデ家に悲劇が襲いかかります。1941614日、ラトビア人75千人以上が逮捕され、強制追放処分となり、ドレイフェルデ家の両親及び娘一家も含まれていたのです。罪状は、比較的豊かな家族として従業員や召使いから不法に搾取していたというものであり、調書は最初から結論の入った形式的なものであったと言います。この大量の追放者は、家畜運搬用の貨車が大量に連結された護送列車に詰め込まれ、シベリアに向かいます。シベリアの地で父と母娘は切り離され、別々の収容所に収容され、これが父との永遠の別れとなりました(父は間もなく死去)。母娘は極寒のシベリアで、飢えと寒さと強制労働に耐える忍従の生活を送ることになります。サンドラの母リギタはこの時15歳の少女であり、ラトビアで拘束された時、中学校卒業記念の最初のダンスパーティ用に買ってもらった新しいダンスシューズをバッグに詰め込むのがやっとだったと言います、本書の表題「ダンスシューズで雪のアベリアへ」は、このことを追放の苛酷さの象徴としてとらえているのです。

  次に、サンドラの父、アイワリス・カルニエティスは、サンドラの父方の祖父母、アレクサンドルス・カルニエティスとミルダの息子でした。アレクサンドルスは器用だが貧しい技師でした。ソ連赤軍の侵入、そしてヒトラー・ナチス軍の侵攻により、赤軍がラトビアから退却したあと、アレクサンドルスにとってナチス軍に協力する他ありませんでした。1944年夏、ナチス軍の全面的な敗勢は顕著となり、ラトビアにもソ連赤軍の反攻が本格化します。アレクサンドルスは、ソ連赤軍への抵抗部隊「森の兄弟」の一員となります。第二次大戦終結直前の19451月、アレクサンドルスはナチス協力者として逮捕され、強制収容所に収容されてそこで亡くなります。ミルダと息子アイワルスは無法者の家族として、19493月、ソ連当局者に逮捕され、シベリアに追放されるのです。アイワルスはこの時18歳でした。

  流刑のシベリアの地で、偶然にもドレイフェルデ家とカルニエティス家が出会います。そして、リギタ・ドレイフェルデ(24歳)とアイワルス・カルニエティス(20歳)の二人は、19515月に結婚し、195212月、シベリアの地で娘サンドラが生まれます。この一家が1957年、夢に見た祖国ラトビアへの帰還を果したことは既述しました。

  後にゴルバチョフ・ソ連大統領の時代及びラトビア独立後の時代に、サンドラ・カルニエテは、両親一家を知る人の証言を集めます。その結果を本書に書き記したのです。本書の副題「あるラトビア人家族の物語」は、そのことを端的に表示しているのです。

  本書の面白さと読む人の心にしみいる印象深さは秘密として、次の三点を指摘しておきましょう。第一に、外国書の日本語への翻訳者が陥りがちな生硬さが全くなく、我々日本人にとって分かりやすく、こなれた文章となっていることを指摘したいと思います。このことは、日本人としてラトビア人のものの考え方とラトビア語に関する最高の知識を有する翻訳者、黒沢歩さんのおかげであり、また、この書の出版者も適切な助言もあったことと推察されます。第二に、スターリン型共産体制及びヒトラーのナチス体制が共通して持つ、全体主義体制の非人間性と、その強烈な圧力下にある統治担当者たちの盲従の恐ろしさが、如実に記されていることが指摘できます。我々は人間として、このような体制が二度と起こることのないよう、この歴史的教訓を心に銘すべきだと思います。第三に、この二家族が苛酷な試練に耐え切れた背景として、シベリア及び共産主義体制下のラトビアの庶民たちの心に脈々と流れていた同情の念と隠れた協力……、そうです。人間本来のやさしい気持がはっきりと記されていることを指摘したいと思います。

  本書が、心ある多くの日本人に読まれることを切望したいのです。

最終更新日 ( 2014/04/30 水曜日 18:42:52 JST )
 
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