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【12月20日】藤井会長「連載の総まとめと歌の祭典参加詳報」 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2013/12/20 金曜日 20:37:16 JST
藤井威会長に、今年好評連載された「写真で見るラトビアの歴史」の総まとめを書いていただきました。これだけを読んでも、ラトビアの歴史を十分理解して頂けますが、全17回の連載を、年末年始のお休みに再読して頂いて、ラトビアという魅力的な国と国民への理解を深めて頂ければ幸いです。さらに後半で、当協会の今年度最大の事業「ラトビア歌の祭典参加」に関する詳報を書いていただきました。写真も会長ご自身の撮影で、壮大な今年の歌の祭典の全様を初めて掲載することになります。2枚目の写真の最前列は、我が日本ラトビア音楽協会のメンバーが歌っている様子です。【Latvija編集長 徳田浩】 

 

  

2013年歌の祭典の全様(撮影も藤井会長) 

                       日本ラトビア音楽協会 会長  藤井 威 

 日本ラトビア音楽協会会長・藤井威より、親愛なる皆様にご挨拶申し上げます。私は、本協会のホームページに私のコラム欄を設けていただき、20116月より「音楽立国ラトビア讃歌歌」と題するエッセイを、同年10月まで7回にわたり連載してまいりました。この中で私は、ラトビアの人々の音楽に寄せる熱い思いを詳しく描写し、オーケストラ演奏、オペラ上演、コーラス、独唱、現代音楽、そして何よりも、ラトビア各地に残る地方色豊かな民謡など各般の音楽分野での優れた演奏技術に讃歌を捧げてまいりました。 そして、201210月より、「写真で見るラトビアの歴史」と題するエッセイを、20137月まで17回にわたって連載いたしました。その中で私は、人間が何とか住めるようになり始めた遥か昔の先史時代(約1万年も昔です)から現在に至るまでの長い歴史を、写真とともにご紹介してまいりました。そして、ラトビアを含むバルト三国の地域が、ヨーロッパの歴史の上に本格的に登場してくる紀元800年頃からの歩みを詳しく見てまいりました。それから1100年を越える長い長い期間、このラトビアの地を歴史的ふるさととする「ラトビア人」は、周辺の強国、ドイツ、デンマーク、ロシア、スウェーデン、ポーランドなどの支配下、もしくは強い影響下に置かれ、ラトビア人の統一国家を形成する経験を持たない特異な歴史をたどったことをお話してまいりました。

  そんな環境の中で「ラトビア人」は、ラトビア語という独自の言語、そしてこの「ふるさとの土地」に根ざした生活様式、風俗、習慣、文化、そして何よりも、民族として愛してやまない音楽、とりわけ、各地域に歌いつがれた民謡(ダイナと呼ばれています)の数々を固く守り通してきたのです。今からほぼ150年前の19世紀中頃、ロマノフ王朝ロシア帝国の強力な支配下にあった時代に、ダイナを構成する言語と独自の旋律が、この地に住む人々にとって何ものにも変えがたい共通の民族的遺産であることに気付き始めます。ラトビアの人々の歴史の上で初めて、言語とダイナに民族的アイデンディティを意識するようになったのです。そして、ダイナの調べに「民族意識」の確立を託してゆくのです。その意味で、18736月末、リーガ市郊外で、ラトビアの各地域の文化活動を担う人々を集めて、第1回ラトビア音楽祭が挙行されたことは、ラトビアの人々にとって画期的な意味を持つことになります。この時、全体合唱には45の男声合唱団、計1003人が参加したと言います。詩人カールリス・バウマニスは、この祭典に向けて一つの詩を捧げました。

神よ、ラトビアに讃えあれ……

花咲く娘たちがいるラトビア

歌う若者たちがいるラトビアを……

   この詩が「ラトビア」という民族アイデンティティを示す言葉が、詩の上で使用された最初であったと言います(この詩が後に独立ラトビアの国歌になります)。

 ロシア帝国当局にとっては、ラトビアをロシアの支配下で完全に統合する方策を推進する上で、ラトビアの人々に民族意識が芽生え、高揚してゆくことは抑えてゆかねばなりません。ましてや、「神よ、ラトビアに讃えあれ」という詩はとうてい認めることは出来なかったでしょう。ラトビアの人々は、ロシア当局とうまく妥協し、その方針になかば沿いながら音楽祭の開催は何とか続けてゆき、原則として5年に1回は開催するよう努めたのです。  

  ラトビアの人々は、民族としての史上初の独立統一国家の樹立を悲願として密かな運動を続けます。そして第一次大戦の渦中、ロシア帝国とドイツ帝国の泥沼の戦いの過程でボルシェヴィキ革命が勃発し、ヨーロッパ全土を巻き込む混乱に中で、ラトビアは19181118日の独立宣言により、悲願の独立を達成します。ダイナの呼び起こした民族意識の覚醒は、ついに民族独立の快挙に導きます。 

 でもこの新しい独立国家を待ち構えていた運命は信じ難いほど苛酷であり、300万人に満たない小民族ラトビアの人々に悲劇的な試練と忍耐を強要するのです。1940年、第二次大戦の勃発の下で、ラトビアはまずスターリン赤軍の占領、続いてヒトラー・ナチス軍の侵入、さらに再び赤軍の再占領と厳しい悲劇が襲いかかり、結局、独立期間は22年間に過ぎず、第二次大戦終結後もソビエト連邦を構成する一共和国として併合されてしまうのです。

  ラトビアの人々は、1989年のベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の消滅の激動の中で19905月、独立国家への移行期間入り宣言、1991821日、歓喜の歌声の中でラトビア独立回復宣言を行います。ラトビアの人々にとって、1940年の赤軍占領から1991年の独立回復までの長い長い51年間は、不法な占領と規定しています。独立回復への重要なステップの第一は、1989年、バルト三国の市民が、北のエストニアの首都タリンからラトビアの首都リーガ、そして南のリトアニアの首都ヴィリニウスに至るまで、600キロメートル、200万人の人間の鎖を作って世界に自由と独立を訴えたこと、第二に1991年、ソ連特殊部隊黒ベレーの銃口に素手で立ち向かい、死者わずか6人、ほとんど無血で黒ベレーによる弾圧を抑え切ったこと……、この二点は「無血の歌う革命」として人類史上初めての快挙と言えるでしょう。  

  このような歴史過程に於いて、音楽立国ラトビアの民族祭典「ラトビア音楽祭」は根強く続きます。独立時代には第6回から第9回まで、ソ連時代には第10回から第19回まで、ラトビアの人々の根強い支持の下に引き継がれてゆきます。1955年から、歌の祭典に踊りの出し物が加わり、現在まで続く「踊りの祭典」が生まれます。19905月の独立回復移行期間入り宣言直後の第20回歌の祭典・第10回踊りの祭典では、ソ連治下で禁止されていた「神よ、ラトビアに讃えあれ」の歌声も復活したと言います。

  リーガ市は、その中心の旧市街地地域に、中世に繁栄したハンザ同盟の一大中心都市としての面影を残し、また、東方に発展した外延新市街地にユーゲント・シュティル方式の魅力あふれる町並を有していますが、ソ連治下でもその全てをまたとない文化遺産として守り抜き、独立回復後も、一部の被った相当深刻な荒廃部分の復興・美化に努めます。このようなラトビア及びリーガ市当局の努力が評価され、1997年、「旧市街地域とユーゲント・シュティル地域」がUNESCOの「世界文化遺産」に指定され、さらに2003年、「歌と踊りの祭典」が同じくUNESCOの「人類の口承無形文化遺産」に指定されました。

 そして今年201375日及び76日には、ダウガヴァ・スタディアムで「第15回踊りの祭典」が、77日夕刻からグランド・ステージ・メザパークス(森林公園大ステージ)で「第25回歌の祭典」が挙行されました。同日昼には、祭典参加者が、ラトビア各地の民族衣装も華やかにリーガ市内をねり歩く大パレードも、沿道を埋める民衆の歓呼の中で挙行されました。

  音楽立国ラトビアの歴史とラトビアの言語と文化や伝統とを苦難と忍耐の中で守り抜いた民族意識に深い共感を有する我々ラトビア大好き人間が集う日本ラトビア音楽協会は、20049月の創立以来、両国の音楽、その他文化一般の交流、さらには両国親善の増進に微力をつくし、2007年には、「ラトビア語教室」を開講、2009年にはラトビア語でラトビア音楽を歌うアマチュアコーラスグループ「ガイスマ」を創設し、少人数ながら楽しい練習に励んできました。既に、ラトビア音楽を東京で聴いていただく「ラトビア音楽祭」も3回にわたって開催してきました。そしてそのような活動の一環として、本年の「歌と踊りの祭典」への参加を企画したのです。 最終的に参加者数は次のようになりました。

参加者総数 72  

   25曲を大コーラスの中に入って歌う人たち 22 

  最後の締めの大合唱に3曲だけ歌う人たち  18  

  その他、合唱に参加せず祭典を楽しむ人たち 26  

  日本側旅行業者添乗員           6 

  これだけの人数をリーガ市に送り込むのです。スケジュールの調整・確定、チケットの手配、宿泊先の手配と割り振り、パレード参加衣装の決定・発注あんどなど、当音楽協会と日本側旅行業者だけで処理するには手に余ります。駐日ラトビア大使館及びラトビア外務省等の政府機関、ラトビア国内の対日親善団体の他、ラトビア側の祭典組織委員会の全面的な協力と支援が不可欠でした。もちろん、ガイスマ団員などコーラスの事前練習は大変です。祭典のコーラス団体の主任指揮者の大任を背負うイェヴァ・ベルジニャさんには、わざわざ日本に来ていただき、ガイスマなどの指導をしていただきました。

  そして本番です。駐ラトビア日本大使館の全面協力の下で、大使公邸で私たち訪問団とラトビア側のお世話になった方々との感謝の集いも成功裡に挙行され、また、藤井夫妻と、音楽協会の加藤専務理事とは、リンケビッチ・ラトビア外務大臣の招待パーティにも招いていただきました。

  参加者全員がまず「踊りの祭典」の華麗なマス・ゲームに感激し、夕方から深更に及ぶ多くのグループの高度に訓練された集団の動きに時間を忘れました。そして、参加者の大パレードと沿道を埋める大観衆の歓呼、我々70人の集団の日本式はっぴ姿に、「ヤパーナー」「ヤパーナー」の歓声が沸き起こります。

 そしてお目当ての「第25回歌の祭典」です。388のコーラス団体が参加する大集団の歌声が、森の公園の大ステージに、指揮者の勢をつくした指導の下に響きわたります。我々の25曲歌う参加者もどこかで歌っているはずですが、大コ-ラスの熱気と高揚の中で、どこで歌っているのか全く識別はできません。しかし、森に囲まれた大ステージの持つ音響効果の素晴らしさと、その中に響く高度に訓練された参加グループの完全に調整のとれた歌声には驚くばかりです。最後のステージには、3曲の参加だけを許された我々のグループが向かって右端最前列に現われます。この人たちの「晴れ舞台」の興奮ぶりが、観客席の我々の心にも響きます。

  さすがに音楽立国ラトビアが5年に1度、満を持して企画し訓練し、自由と独立の歓びを歌い上げる姿に、私たちもただ時間を忘れました。参加人員総数46,000人、他にボランティア400人、世界に散っているラトビア人の帰国参加は72ヶ国に及び、チケットの販売枚数は76,580枚、踊りの祭典参加団体は603、歌の祭典参加団体は388、全体としてUNESCOの無形文化遺産に相応しい一大祭典だったと思います。5年後にまたくるよ! 参加者一同共通の感想でした。日本ラトビア音楽協会もより多くの賛同者を集め、さらにボランティア活動を広げてゆきたい、あらためてそう強く思いました。(20131219日 記)

最終更新日 ( 2013/12/20 金曜日 20:46:39 JST )
 
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