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【7月18日】最終回 写真で見るラトビアの歴史(17) PDF プリント メール
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2013/07/19 金曜日 10:33:21 JST

  ロシア帝国支配下のラトビア

                     日本ラトビア音楽協会 会長 藤井 威 

 北方大戦後において、ウクライナのポルタヴァでスウェーデンに決定的勝利を収めたロシア皇帝(ツァーリ)ピヨートル1世は、バルト東岸地帯の支配権を獲得します。ロシア支配の足取りを簡単に記しておきましょう。 

1710 現エストニアとラトビアの地域を支配、両者を合体させて治バルト州とし、エストニア地域をエストランド県、ラトビア地域をリーヴランド県として両県を統括する総督をリガ市に置いた(後にタリン市に移動)。 

1772 ラトガレをポーランドから獲得(第1次ポーランド分割) 

1793 リトアニアの一部をポーランドから獲得(第二次ポーランド分割)

 1795 リトアニア全土とクールランド公国獲得(第3次ポーランド分割・ポーランド滅亡)  ロシア支配は当初、バルト地域をロシア全土の西欧化のモデルとすること及び、バルト地域の商工業活動の振興を重視することの二点を基本において、従来からのバルト・ドイツ人の特権を尊重する方針がとられます。この方針は19世紀に入ると、ドイツ人の指導力が弱まってドイツ人口も減少しはじめ、徐々にではありますがラトビア人がその穴を埋めてゆく動きが生じます。

  クールランド公国については1726年、公爵位を世襲してきたケトラー家が断絶し、公国はロシアの保護下に入ります。公爵位もロシア皇帝に手中に帰しました。1795年の第3次ポーランド分割によりポーランドが滅亡した時点で、公国は正式にロシア領となります。

  19世紀後半になると、ロシアのバルト一元支配の下でロシア全地域を後背地として持ち、バルト海への不凍港を持つというハンザ同盟以来の絶好の地理的条件を生かして、順調な経済発展を示し、ロシア全域の経済的先進地域の地位を得てゆきます(注)。ただ、ロシア帝国統治の基本的方針の下で、強力な思想統制とロシア化の強制などの窮屈な政策を引き続き維持されたのです。

(注)旧クールランド公国の両端の不凍港リエバヤは、日露戦争時に編成された大規模ナバルチック艦隊が全ての装備を終えて出航する港となりました。そして1905527日、対馬海峡で日本連合艦隊と激突、日本側の大勝利となったのです。

  ロシア帝国のバルト支配を記念するクールラント公国の二つの大宮殿の写真を添付します。第1の写真はイエルガバ宮殿です。この宮殿はリガ市西南方約50キロに位置し、1783年、クーランド公爵の居城として、サンクトペテルブルクの冬宮を設計したラストレリの設計により建築された大宮殿です。現在ではラトビア農業大学、ラトビア農業博物館として利用されており、地下にはケトラー家の歴代公爵とその家族の棺が安置されています。第2の写真はルンダーレ宮殿です。この宮殿はリガ市南方約80キロの地点に位置し、本シリーズ第6回に掲載したバウスカ城や第11回に掲載したメゼトネ・マナーハウスにも近く、あと数キロでリトアニア国境という地点に位置しています。

  

①イエルガバ城 18~19世紀にかけてラトビア西部グルゼメ地方をロシア帝国の保護下に統治したクールランド公爵の居城であり、1783年、サンクトペテルスブルグの冬宮殿設計で知られるラストレリの設計により建設された。(1994年撮影)

   

  

 ②ルンダーレ城 (上)城門:ラトビア西部クルゼメ地方の貧乏貴族であったヨハン・ファン・ビロンはロシア女帝アンナ・イワノヴァの寵臣となり、クルゼメ地方を支配するクールランド公への昇格をもくろむ。1736年、ヨハンはアンナ女帝により小さなマナーハウスを拝領し、これを豪華な夏の宮殿に改築することを計画、ラストレリの設計で着工した。1737年には希望通りクールランド公に昇格したが、1740年アンナ女帝の死去とともに追放される。22年後、エカテリーナ女帝の時にクールランド公に復任し、夏の宮殿建設を続行、1768年に何とか完成にこぎつけた。結局、建築に32年を要したことになる。(下)ルンダーレ宮殿(バロック式宮殿) ラトビア最高の華やかなバロック式大宮殿はその後数奇な運命をたどることになる。1812年のナポレオン戦争時にナポレオン軍の兵舎となり、また第一次大戦時にもかなり損傷を受ける。第二次大戦後1981年まで寄宿学校に転用され、内装、美術品、備品などに甚大な被害が発生した。その後1991年のラトビア独立をはさんで復旧工事が行われた。現在は観光目的の他、国際会議などの国家的行事のエンターティンメント施設として利用されている。(2006年撮影) 

  この城は、ロシア皇帝アンナ・イワノヴァ女帝(在位1730~1740)が大のお気に入りだったヨハン・ファン・ビロンに与えたマナーハウスが基になっています。ヨハンはもともとクールランド公国の貧乏貴族でしたが、アンナ女帝の愛顧の下でクールランド公爵への任命を望んでいました。1746年、ヨハンはこのマナーハウスを豪華な夏の宮殿に改築する計画をたて、ラストレリの設計で実行に移します。1737年、屋根の設計に至った時点で希望通りクールランド公に就任しました。1740年、アンナ女帝死去の直前には構造上の主要部分の建築だけは完成していましたが、ヨハンは結局その直後に追放されます。それから22年後、エカテリーナ2世(在位17621796)の恩赦でラストレリを引き連れて公国に復帰します。館の改修・修繕工事の後、1768年より内装工事に着手、イタリアの2人の画家、フランチェスコ・マルティニ及びカルロ・ズッキが天井画と壁画を担当し、ベルリンの芸術家ヨハン・ミカエル・グラーフが石膏装飾を担当します。結局、ヨハン・フォン・ビロンはこの年の夏、ようやくこの夏の宮殿に居住可能となったのです。その後、総面積60ヘクタール、総部屋数138に及ぶこのラトビア第一の大規模なバロック型宮殿は、数奇な運命に翻弄されます。ナポレオン戦争及び第一次世界大戦中にかなりの損傷を受け、第二次大戦中にはソ連軍司令部が設置されたりします。その後は1981年まで寄宿学校として利用され、この間に多くの文化財が消滅し、壁画なども著しく損傷します。1981年には復旧工事が開始されますが、ソ連当局に熱意が欠け、工事そのものも困難を極めます。1997年、私は大使としてこの宮殿を視察しましたが、工事はまだ完成しておらず、公開は一部にとどまっていました。1999年にはヴァイラ・ヴィチェ・フレイベルが新大統領の就任式に内外の招待客を集めて、改装工事の終了したこの宮殿で開催され、私も出席しました。現在、政府式典、音楽会、国際会議など各種イベントに利用されています。屋根の煙突には、コウノトリが巣を作るなど、来訪客の人気を集める大宮殿です。 

 19世紀も半ばを過ぎる頃、バルト三国にようやく独自の言語、音楽、特に民謡に対する独特の傾倒などの伝統文化に裏打ちされた民族意識が芽生え、民族国家形成による自由と独立への強い思いが高まります。そして20世紀に入ってやっと手にした独立、そしてその後の信じられないほどの苦難の数々…、これらの涙と忍従の物語は、2011年に「音楽立国ラトビア」で10回にわたって連載いたしました。詳しくはそちらをご覧いただくとして、今回は主な項目の列挙にとどめ、「付」とご覧に供したいと思います。 

付(終わりに) 

  それにしても、人口220万そこそこの小国ラトビアが、周辺を強国に取り囲まれ、20世紀に入るまで民族の統一国家設立の経験も持たず、他国、他民族の分割支配化に置かれ、20世紀にやっと自由と独立を手にしても、ひどい嵐の中で翻弄された苦難と忍従の歴史の中で、独自の文化、伝統を保持し続け、歴史の遺産を大切に保存する感性には驚嘆するしかありません。私のラトビアとのお付き合いはたった3年の大使職在任だけ、それもスウェーデン大使兼務であり、10数回のラトビア訪問で40日余りを過したに過ぎませんが、それでもラトビアという民族の、ラトビアという国の、ラトビア独特の文化の、大ファンになった私の気持をこのシリーズで分かっていただけたでしょうか。ラトビア大好き人間の集りであるこの日本ラトビア音楽協会に、より多くの人々が参加され、共にラトビアとの友好親善の道を楽しんでいただきたいと心から願っております。 

(1)クリスヤーニス・バーロンスによるダイナ蒐集

  1870年頃、ラトビア全土に広がる民謡「ダイナ」蒐集に着手し、結局、約22万曲を《ダイナ・スカビス》と呼ばれる手作りにファイリング・キャビネットに収めた。蒐集は今も続いており、現在では120万曲に達するという。この業績がラトビアの民族意識高揚のきっかけになる。(ラトビアの人口は220万人、うちラトビア民族人口約120万という数字と比べて下さい。 

(2)ラトビア歌と踊りの祭典

  1873年、ラトビアの首都リガ市郊外で各地ダイナ合唱団を集めて、第1回歌と踊りの祭典が開かれた。この時、後のラトビア国歌「神よ、ラトビアに恵みあれ」が初演された。花咲く娘たちがいるラトビア、歌う若者たちはいるラトビア、我らの愛しい祖国! 

(3)19181118日ラトビア独立宣言

  第1次世界大戦の過程で、19173月及び11月にロシア革命が起こり、その混乱の中でバルト三国独立 

(4)ラトビア独立喪失、悲劇の現代史

19398月 独ソ不可侵条約、モロトフ・リッペントロップ秘密協定、領土分割協定(ドイツ、ポーランドの大部分、フィンランド、エストニア、ラトビア、後にリトアニアも) 9月 独軍:ポーランド侵入 第二次大戦勃発、ソ連:ソ連ラトビア相互援助条約強要 

19406月 ソ連進駐 ラトビア大統領カールリス・ウルマニス、ラトビア軍に軍事行動停止を命令、ラトビア傀儡政権、ラトビア・ソビエト共和国宣言、ラトビア独立喪失、大統領及びその家族を含む大量のラトビア人がシベリアへ送られる。 

19416月 ドイツ、ソ連と開戦、ドイツ軍、ラトビア占領、対ユダヤ人ホロコースト実行 

1944年  ソ連軍、ドイツ軍を排除、ラトビア再占領

※ラトビアは、ソ連軍―ナチ軍―ソ連軍の占領下で悲劇の歴史を刻む。 

(5)ラトビア独立回復

198911月 ベルリンの壁崩壊19911月(13日)リトアニア首都ヴィルウスで流血1月(20日)ラトビア首都リガでも流血(死者6人)8月 ソ連保守派クーデター失敗、ラトビア独立宣言、エリツィン・ロシア大統領がバルト三国独立承認9月 日本がラトビア独立承認 

19937月 カールリス・ウルマニス前大統領を大叔父に持つグンディオス・ウルマニスが大統領に就任(任期3年・憲法に2期まで)

※前大統領の家族はシベリア連行されたが、グンティス(19399月生まれ)だけが母親の抱かれて密かにラトビアへ帰還を果した。 

19997月 ヴァイラ・ヴィチェ・フレイベルガ大統領就任(任期42期まで)

193711月生まれ、1944年ラトビアよりドイツ・リューベックに逃れる、1949年モロッコ避難民キャンプへ、1954年カナダへ(ドイツ語、英語、スペイン語、フランス語堪能)、1979年モントリオール大学教授(専攻:心理学、社会学、民俗学)、1984年カナダ科学委員会副委員長、1998年ラトビアに帰国、ラトビア・インスティテュート所長 

20077月 バルディス・ザトレルス現大統領就任 

(6)ラトビア独立後の思い

自由と独立を謳歌 5年毎の歌と踊りの祭典で民族の歓びを爆発させる。2003年ユネスコ無形文化遺産に登録

ハンザ同盟自由都市の歴史を持つ首都リガ市の美化・保存 かつてのドイツ騎士団の本拠リガ城は現大統領官邸 

旧市庁舎とブラックヘッドギルド:ハンザ同盟都市リガのかつての中心広場(旧市庁舎広場)は、華麗なマニエリスム様式のブラックヘッドギルドと旧市庁舎が威容を誇っていた。第2次大戦中これらの建物はナチスの攻撃で破壊され、ソ連統制下では完全に撤去された。独立後のラトビア新政府はこの広場の再建を計画し、ブラックヘッドギルドは2000年に、旧市庁舎は2004年に完工した。なお「ブラックヘッド」とは、ハンザ商人たちのうち独身又は単身赴任の人々を言う。

リガ・オールドタウンなどは1997年にユネスコ文化遺産に登録。 (完)     

最終更新日 ( 2013/07/19 金曜日 10:44:21 JST )
 
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