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【1月25日】写真で見るラトビアの歴史6 藤井威 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2013/01/25 金曜日 18:49:11 JST
 

写真で見るラトビアの歴史⑥

 

                     =リヴォニア騎士団領の形成=

                                            

              日本ラトビア音楽協会会長 藤 井 威 

 前回は1202年にアルベルト司教と帯剣騎士団が来訪し、リガ市を創設して司教座教会を設立、これを拠点としてリーヴ人の土地ルヴォニアにおいて、布教と武力による侵攻を精力的に進め、急速に勢力を拡大してゆく様子を説明しました。

  シグルダ城に拠点を置いた帯剣騎士団は北へ向かい、この方面のラトガレ族の拠点ツェーシス(リガ市北東約90キロ)に進攻し、1209年、ここに新しく騎士団の城を建造します(写真参照)。騎士団は引き続き武力による支配地の拡大をひたすら目指す方針に固執し、先住民のキリスト教化を比較的穏健な手法で推進しようとするアルベルト司教と次第に対立を深めつつ、さらに北方エストニアの大地に鉾先を向けてゆきます。

  

  ツェーシス古城廃墟とツェーシス古城公園  1236年頃、帯剣騎士団に代わってこの辺一帯(リヴォニア)の支配権を得たチュートン騎士団は、リヴォニア支配の拠点をリガからツェーシスに移し、1204年より築城の続くツェーシス城を強化した(19985月撮影)。

  この時期、エストニア北部にはデンマークの勢力が浸透しつつあり、帯剣騎士団の強硬方針はデンマーク及び隣国ロシアとの複雑な葛藤を招きますが、事態は帯剣騎士団の有利に展開し、エストニアの現在の首都サリンにあったデンマークの砦跡・トーンペアの丘に堅固な石造りの城塞を建造して前進拠点とします。この頃、帯剣騎士団の人員規模は2000人程度となり、かなりの戦闘力を持ったと言われていますが、それでもエストニア全土の支配を維持する力はなく、トーンベアの城塞を放棄し、結局現在のラトビアの北方一帯とエストニア南部を支配するリヴォニア騎士団領の形成に成功することとなります。1238年のバルト地域の状況を、原翔著「エストニア」の24ページに掲載されている地図を引用しますので参考にしてください。  今まで何回か指摘してきたように、この段階での勢力分布にも言葉の問題は全く表に出てきていないことに注意して下さい。

 (注)現在のエストニア首都タリンはトーンペアの丘を中心とする美しい町ですが、「タリン」という名称と「デーン人の要塞」という意味のエストニア語のなまったものと言われています。その後、ドイツ系の商人や植民者たちの影響力が強まるとともに、ドイツ風に「レヴァル」と呼ばれることになります。

  かくして帯剣騎士団領はリガ司教領を超える勢力を持ちますが、この騎士団の体質とも言うべき住民の搾取と破壊や略奪などの残虐な統治による悪評が高まってゆき、ローマ教皇からも、他の有名な大騎士団からも孤立するようになります。このような雰囲気の中で1236年、リトアニアの統一を推進しつつあった英主ミンダウガス公の率いるリトアニア軍が、現在のラトビアの領域に進攻してきます。帯剣騎士団はこれと闘い、ほぼ全域に近い大敗北を喫します。この闘いをもって帯剣騎士団の命数はつきたのです。

  この事態の収拾は、チュートン騎士団(ドイツ騎士団)が担うことになります。この騎士団はもともと聖地へ向かう十字軍とともに活動する大騎士団として設立されたものですが、12世紀中頃よりトイツの北東部に残っていた異教徒集団(バルト語族のプロシャ人や一部のポーランド人)の改宗を大義名文に掲げ、ドイツの過剰人口の殖民を企図する新たな十字軍への方向転換が行われ、13世紀中頃にはエルベ川とオーデル川に挟まれたバルト海南西部の沿岸地帯に広大なチャートン騎士団領を形成しつつありました。

  1236年、ザウレの闘いにおける帯剣騎士団の敗北後、その残存勢力は1237年、チュートン騎士団の傘下に入り、リヴォニア及び騎士団領の統治を委ねます。ここにプロイセンとリヴォニア及びエストニアの一部を包括的に支配する強大な騎士団領が成立したのです。最盛期には現在のポーランド領グダニス(かつてのダンツィヒ)からバルト海南岸及び東岸を覆い、現在のエストニア北部に至る広大な領域を支配したのです。その本部はマリエンブルグ(現在ポーランドのマルボルク)に置かれました。もとのリヴォニア騎士団領には高位の総長が派遣され、その本部は当初リガ市に、後にツェーシス市に移されます。

  チュートン騎士団傘下のリヴォニア騎士団は、引き続き現在のエストニア、ラトビアの全領域にわたって勢力拡大の闘いを継続し、先住部族の砦を支配下に収めつつ、要所に騎士団の活動拠点となる城砦を建設してゆきます。その主な遺跡について次回に説明いたします。

   

  

  古都ツェーシス  古きよき時代の町並を残すツェーシス市の住居地区である(19985月撮影)。
最終更新日 ( 2013/01/29 火曜日 00:38:03 JST )
 
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