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【12月2日】写真で見るラトビアの歴史③=藤井威 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2012/12/02 日曜日 13:40:04 JST

 写真で見るラトビアの歴史③

  =ヨーロッパとの接触のはじまり=                                        

                                            日本ラトビア音楽協会 会長 藤井 威 

 前回は、紀元前後に至るまでの時期のバルト地域の先史時代の状況を取り上げました。原始的な自然崇拝、多神教の宗教の下で、多数の部族国家的な生活集団が分立、併存していた状況を説明しました。このような原始的な地域も、ぼつぼつとヨーロッパ先進地帯の記録に登場してまいります。最初の歴史的記録は、ローマの歴史家タキトウス(AD55頃~120)の記述の中に簡単に言及されています。紀元前後のこの頃、ギリシャ・ローマの先進文明が光り輝き、ローマ帝国が最盛期を迎えていました。先史時代の闇の中にあったバルト地域の人々も、この頃既に先進的地中海地域との間に、ある程度の交渉を持っており、各種物品の通商も行われていたでしょう。

  ローマ帝国を東西に貫く道路は、絹の道や、イタリアからフランス、スペインに至る道のように、人々の行き来、文化の伝播、物品の通商道路には南北に貫く道路もまた、ヨーロッパという地域の形成史の上で重要な役割を担ったのです。 

   

  ちょっと地図をご覧になって下さい。ラトビアの首都リガからまっすぐ南へ下りて下さい。リトアニアに入り、かつての首都カウナスに至ります(カウナスは第2次大戦中、ヒトラーの追害に苦しむユダヤ人に命のビザを発給した杉原千畝領事代理の日本領事館があった小さいけれど美しい町です)。そこからさらに南へ、ポーランドとの国境を越えて、ワルシャワからクラクフへ進み、ここまでくればスロバキアとの国境はすぐですね。この国を過ぎればハンガリーのブダペストに至り、さらに南下すればセルビアのベオグラードに到達します。ここはもう地中海文明圏、古代ローマ帝国の中心的領域であり、さらに南下すればアテネへ、西へ向かえばイタリアはすぐであり、次いでローマに至るのです。ヨーロッパ東部の要衛を南北に貫くこの道路は、ローマ帝国では「琥珀の道」と呼ばれていました。

  ヨーロッパの北の果て、バルト海周辺地域は、古代から神秘の宝玉「琥珀」の産地として知られ、地中海文明圏の貴族や豪族にとって、各種宝石よりもさらに価値ある宝物だったのです。琥珀の道は、一般の生活物品とともに、この貴重な宝玉の行き来する重要な道路だったのです。

  10年以上前、私が大使としてラトビアをしばしば訪問していた頃も、琥珀は、大量に、しかも比較的安価に入手可能でした。独立回復(1991年)後数年を経て、琥珀の加工技術も進歩し、高級品も簡単に入手できましたし、安いものなら、市内のいくつもの露店でたくさん並べて売られていました。その当時の写真を添付します。私の妻も琥珀屋さんに入り浸り、迷いに迷って、そっと一つ二つ買ってみる――そんなこともリガ訪問の楽しみの一つだったのです。(最近では、ラトビアのEU加盟や経済発展も顕著で、琥珀の価格もヨーロッパ一般の水準に近づいているそうです。) 

 リガ市オールドタウンの高級琥珀店

 

 

 電気スタンドの傘も琥珀で出来ている。これももちろん売り物です。

 

 街頭の安物琥珀売り場。10年後の現在はもう見られない。

  ヨーロッパでローマ帝国が滅亡し、中世も最盛期に入る頃、北欧バイキングが活動を始めます。AD8世紀から12世紀頃、ヨーロッパ史上バイキング時代と言われる時期がやってきます。当時の北欧諸国は、次第に統合が進み、現在の北欧諸国、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの原型が出来上がりつつありました。AD8~9世紀頃、これらの三国のバイキングがそれぞれ動き出します。デンマーク・バイキングは南へ、イギリス・フランスさらにはイタリアへ雄飛し、王国や公国を作ります。ノルウェー・バイキングは西へ進み、アイスランドから遂にはアメリカ大陸に到達します。そしてスウェーデン・バイキングはバルト海を渡り、バルト海を渡り、バルト東岸地域を経てロシアへ向かいます。ラトビアの首都リガ市は、同国を東から西へ流れる大河ダウガヴァ川(私の高校時代の地理の授業では西ドヴィナ川ろ呼ばれていました)の河口は15キロほどさかのぼった地点近くにありますが、この大河をさかのぼって現在のベラルーシを越えて行けば、ロシアの大平原に到達できます。実はスヴェーデンの日本大使公邸は、ストックホルム市東郊の住宅都市ユーシュホルムに所在し、このあたり一帯は古来、ロスラーク地方と呼ばれていました。バルト海を渡ったスウェーデン・バイキングは、このロスラーク地方から出発し、集団の一部はダウガヴァ川をさかのぼるルートを通ってロシア大平原に至ったと考えられています。そしてまず北に向かってノヴゴロドに王朝を樹立し、ついでさらに大河ドニエブル川を南下してキエフ王朝を樹立します。当時のロシア大平原も、バルト地域と同じく部族国家的な生活集団が併存する原始的状況にあり、ロシアに国家らしい国家を初めて作ったのはスウェーデン・バイキングだったのです。ちなみに大使公邸のあったロスラーク地方の人々は、「ロシア」の語源は「ロスラーク」にありと信じて疑いません。そしてバルト地域は、スウェーデン・バイキングとロシアの結節点として脚光を浴びることになったのです。

  この頃(AD900年頃)、バルト地域全般に形成された多数の部族国家は、単なる生活集団から小王国の色彩を持つようになり、その過程を現在のラトヴィア地域には四つの部族文化圏が区別できるようになります。西部バルト海沿岸地域のクルゼメ、中央部のゼムガレとその南東部のセーリ、北東部から東部に広がる地域のラトガレです。その内最小のセーリは後にゼムガレに吸収され、他方リーヴ居住地域の縮小等により北東部にヴィゼメ州が出来て結局現在の四州になります。ラトガレ以外の三地域の沿岸部には、フィン・ウブール語系の言語を持つリーヴ人が居住していましたが、言語の差が文化圏の形成には影響していない状況を確認して下さい。

  実はラトビア通史として見る上で厄介な点は、これらの地域が周辺の諸大国の強力な干渉を受けて、ほぼ別の歴史を歩んだことであり、各地域に方言的差異はあるものの、印欧語族バルト語系の言語を持ち、高度の音楽への嗜好を持つという共通の感性を持ちながら、同一民族という自覚を長く持ち得なかったのです。現在のラトビア四州の概略図を添付するので参考にしてください。

 連載の12回は下記をクリック

1013日】藤井会長新連載 写真で見るラトビアの歴史  

115日】写真でみるラトビアの歴史=藤井威

最終更新日 ( 2012/12/02 日曜日 13:46:50 JST )
 
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