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【11月5日】写真でみるラトビアの歴史②=藤井威 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2012/11/04 日曜日 21:30:08 JST
 

 

写真で見るラトビアの歴史②=先史時代=

 

 

                      日本ラトビア音楽協会 会長 藤井 威(写真も)  

 

  長い序章で詳しく述べたように、BC2000年頃、バルト族がこの地域へ拡散していきましたが、その後の先史時代の状況はどうなったでしょうか。実は考古学的遺跡も殆んどなく、もちろん歴史的文献も全くなく、殆んど何も分かっていないのですが、敢えて、考古学、言語学、歴史学の専門知識のない素人にすぎない私の推測を述べれば、次の3点が指摘されるでしょう。 

(1)紀元前1000年紀が終わって期限前後に至る頃のこの地域には、現在のエストニア一帯と現在のラトビアの西側にリーガ湾海岸沿いには、アジア系のフィン・ワコール語系の言語を持つ人々が分布し、ラトビアの東側の地域及びリトアニアとバルト海南側の海岸地帯一帯に印欧語族、バルト語系の言語を持つ人々が分布しておりました。これらの人々を統括する政治・軍事権力を有する統一体はまだ存在せず、「部族国家」の性格を持つ小規模な生活集団が中心集落の周辺に形成されつつある段階にあったと考えられます。これらの集団のリーダーは「王」と呼ばれましたが、実体は「族長」とか「酋長」という日本語が当てはまるような存在だったのでしょう。これらの多数の集団が分立し、相互に交流し、場合によっては対立して、時に戦いになで至ったこともあったでしょう。 

(2)彼等の宗教は、原始的な自然崇拝型多神教であり、各生活集団毎にそれぞれの主神を持っていたと考えられます。一神教をベースとし、偶像崇拝を基本的に否定するキリスト教など性格を異にする原始宗教だったのです。 

(3)各集団が自らのアイデンティティを主張する要員として、言語の差異は殆んど意味を持っていなかったと考えられます。各集団がどの語族に属する言語を有しているかは、各集団相互の関係に影響を与えることはなく、言語の差異による民族意識が各集団の行動に影響を与えることはありませんでした。

  このような先史時代の集落のあとが、古都ツェーシス(後に詳しくお話します)の南の小さな湖アーライン湖の水底で発見されました。ログハウスの集落が湖上に作られていたと思われ、復元されて公開されています(写真参照)。なぜ湖上に作られたのでしょう。皆様も先史時代のロマンを想像してみて下さい。例えば――

(1) 近隣に権力指向の指導者が勢力を拡大しつつあり、生活集団の自主性を保持するために集落を作り防衛力を強化しようとした。 

(2)近隣の集団との対立関係が厳しくなり、戦いを有利に進めるために湖上に集落を作った。

(3) 徘徊する盗賊や無法者の侵入を防いだ(特に夜間)。

(4) 近隣との交流等のための交通、輸送等の活動は小型の船によるのが効果的であり、集落も湖上にあった方が便利であった。 皆様はどんなロマンを思い浮かべていらっしゃいますか。 

連載第1回は【10月13日】藤井会長新連載 写真で見るラトビアの歴史

 

 古都ツェーシスの南 アーライシ湖の古代遺跡(復元)  先史時代の原ラトビアの一部族がアーライシ湖上にログハウスを密集させて集落を形成していた姿を復元した遺跡である。(19985月撮影)

  

 

 アーライシ湖の古代遺跡  13世紀以降のリヴォニア騎士団領の成立により、ドイツ人支配の中心地となった古都ツェーシスの南方6キロの地点に位置するアーライシ湖には、先史時代の原ラトビアに一部族が湖上に展開した集落が発見された。集落防衛のために湖上にロクハウスが密集して建てられ、集団生活を営んでいた状況が復元」されて公開されている。


    

最終更新日 ( 2012/11/05 月曜日 10:16:45 JST )
 
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