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【8月28日】藤井会長「音楽立国ラトビア讃歌」7 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2011/08/28 日曜日 15:14:04 JST
 

音楽立国ラトビア讃歌(7)

              日本ラトビア音楽協会会長  藤井 威  

  これまで6回にわたり、このコラムを利用して、ラトビアという小民族の近代・現代の歴史をたどってきました。いかがでしたか。波乱万丈の歴史は、創作冒険小説よりはるかに起伏に満ち、信じられないほどの奇跡的な転換に富むものでしたね。そしてその基調として、その小民族の音楽への傾倒が、脈々と流れている事実がありましたね。将に、「歴史は小説より奇なり」。こんな感想をお持ちの方も多いと思います。

  これまでのコラムで、具体的な説明もなくラトビア民族、ラトビア語、ラトビア民謡(ダイナ)などという言葉を使ってきました。遅ればせながらこれらの用語を簡単に説明しておきましょう。 

 はるかな昔、多分イラン高原の東部の一角から、後にインド・ユアラピアン語系と呼ばれる言語を有する民族が、東西南北に拡散していったと考えられています。東南へ旅した人々は後にインド人となり、北方やヨーロッパに拡散していった人々は、スラブ、ゲルマン、ラテン、ケルト、バルトなどの語族に分かれてユーラシア大陸西部の広大な地域に住みついていったと考えられています。ここで恐らくもっとなじみのない語族が「バルト語族」ではないでしょうか。言語学上「印欧語系バルト語族」と呼ばれる言語を母語とする人々は、欧州北方バルト海沿岸地方に分布し、プロシャ語、ラトビア語、リトワニア語などの緒言語に分かれてゆきます。そのうちプロシャ語は、中世のドイツ民族の侵攻を受けて経済、文化ともにドイツ化し、言語自体も消滅しました。結局バルト語族は、ラトビア語、リトワニア語の二言語のみが現在まで生き残ったのです。

  ラトビア語を母語とするラトビア民族の形成したラトビア共和国の総人口は、現在、240万程度。そのうちロシア語などの他言語を母語とする人々を除くラトビア民族は、せいぜい130万人足らずに過ぎません。この小民族は、周囲を欧州の強国に囲まれ、長期にわたってこれら周辺国の支配下にありながら、固有の言語と文化を固く守り続けることに成功します。何と、ラトビア語は、印欧語系すべての言語の元祖に近い古代サンクスリット語の特徴を最もよく残しており、ラトビアの人々は、自分達の言語を「奇跡の言語」と呼んで誇りにしているのです。 

 ラトビア民族は長く周辺強国に分割して統治されたことは説明しましたが、19世紀半ば、ロシア帝国の強権支配の下で、4州に分かれて住む人々の民謡、ダイナに使われている用語がラトビア語という固有の体系を持つことに気付き、現在のラトビア全土からダイナの収集に乗り出した先覚者が現れます。クリシュヤーニス・バーカンス(18351923)がその人であり、約22万曲のダイナを収集し、そのテキストを「ダイナ・スカピスと呼ばれて手づくりのファイリング・キャビネットに収めます。この事業はラトビアの人々の民族意識の確立・高揚をもたらし、独立への悲願を作り出していったのです。

 

アーライシ湖の古代遺跡  13世紀以降のリヴォニア騎士団領の成立により、ドイツ人支配の中心地となった古都ツェーシスの南方6キロの地点に位置するアーライシ湖には、先史時代の元ラトビアの一部族が湖上に展開した集落(9世紀頃のもの)が発見された。集落防衛のために湖上にロクハウスが密集して建てられ、集団生活を営んでいた状況が復元されて公開さている。

   

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最終更新日 ( 2011/08/28 日曜日 15:20:19 JST )
 
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