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8月16日】好評連載「日本・ラトヴィア関係史」(2) PDF プリント メール
作者 webmaster   
2011/08/16 火曜日 18:30:54 JST

 日本・ラトヴィア関係史(第2回)

 ラトヴィアの独立と日本による国家承認      

                           外務省外交史料館 白石仁章  

  リーガのオールド・タウンを訪れた人ならば、誰でも市街中央部の巨大な自由記念碑に目を奪われるのではなかろうか。1918年のラトヴィアの独立を記念したモニュメントであるが、完成したのは1935年であった。しかし、ソ連に併合されていた時期は、民族精神を鼓舞する危険性がある同記念碑には近づくことも禁じられていた、一説では近づいた者はシベリア送りされるという噂されたそうだ。再度の独立により重要な観光スポットとなり、多くの人が訪れ、警護する兵士の顔には誇りが満ちあふれているように思えた。 

  ラトヴィアの独立への道は平坦なものではなかった。ラトヴィア民族としての国家を建設出来ないままに、様々な民族の支配下におかれ、18世紀末にロシア領に組み込まれた。第一次世界大戦中、ドイツ軍がラトヴィアに侵攻し、ドイツへの併合の危機に見舞われた。しかし、ドイツの敗北はラトヴィア独立の好機をもたらし、ラトヴィア人民族主義者グループがラトヴィア人民会議を発足させ、19181118日に独立を宣言したのであった。

  イギリス政府は直ちに、来るべき平和会議において、ラトヴィア民族が自由と幸福な新時代を迎えるための基礎を樹立するまでは、この国民会議を臨時政府と認める意向を示し、日本側に伝達してきた。珍田捨己駐イギリス大使は、イギリスに歩調を合わせることを意見具申し、内田康哉外務大臣の認可を得た。その結果翌年14日に仮承認に至った。その後、パリでイギリス、フランス、イタリア、ベルギー、日本を構成国とする聯合国最高会議が開催され、ラトヴィア、エストニアなどを正式な国家として法律上の承認を与えるかについても討議された。その結果、両国とも内政の基礎も固まりつつあるので、直ちに承認して差し支えなしと1921126日に認められた。日本政府も31日の閣議決定で追認し、ここに両国の本格的交流が始まったのであった。

   

リーガ市街中央部にある巨大な自由記念碑と警護する兵士

 

【8月1日】新連載「日本・ラトヴィア関係史」(1)

最終更新日 ( 2011/08/18 木曜日 21:58:58 JST )
 
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