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森川はるか卒論「ラトビィアにおける歌・合唱」 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2010/04/22 木曜日 17:34:23 JST
     2009年度 卒業論文   指導教員 栗田和明教授    『ラトヴィアにおける歌・合唱 ――祭典及び生活を通して――』       文学部史学科超域文化学専修  06AC208C   森川はるか
序章 研究テーマ選定理由と目的 研究テーマ選定理由 高校時代音楽部に所属していた私は合唱を3年間経験し、その中でもラトヴィアの合唱曲を多く歌ってきた。バルト三国の合唱曲に初めて出会ったのは高1の夏でコンクールに向けての曲選びの時であり、ラトヴィアやエストニアの国名をまず聞くことから始まった。それまで私にとって全く知らないロシアの隣国の小さな国々であったが、その合唱曲を聴いたり、自ら発表の場に向けて取り入れて歌っていったりしていくうちに、この独特の価値観に基づくバルト三国の合唱の魅力に気付いていくようになった。美しいハーモニーと柔らかな言葉の響き、そしてその歌の背景にある思いがその合唱を通して伝わってくることを感じ、次第に興味が湧くようになった私はいろいろと調べるようになっていった。バルト三国は「歌の国」「歌をもって独立した国」と呼ばれており、歌で民族が団結し独立した歴史があるからか合唱への取り組みが非常に盛んである。独立を願う思い、民謡から浮かぶ生活など様々な歌が合唱として今もなお歌い継がれている。また「歌う革命」「歌いながらの革命」と呼ばれる1980年代のバルト三国の独立運動から分かるように、歌を民族の団結のために用いて政治的行動に発展させていったことは、日本人にはない特別な歌の位置づけがあるのではないかと感じた。 大学2年の9月に私はバルト三国周遊の旅を自ら手配して友人を伴い、自分達だけで1週間旅することに成功した。このことは、いつか「歌の国」「歌をもって独立した国」をこの目で見てみたいという4年越しの夢を叶えたいと願っていた私にとって、非常に大きなことであった。リトアニアのヴィリニュス、ラトヴィアのリーガ、エストニアのタリンに滞在し、そこで現地の人々と知り合い共に行動して1週間の旅を楽しんだ。中でもリーガではラトヴィア人の青年と一緒に終日行動し、リーガ大聖堂での男声合唱団のコンサートを聴きに行ってCDを購入したことにより、ますますバルト三国における合唱音楽や人々の歌の位置づけについての興味を掻き立てることとなった。 このようにして私はバルト三国の合唱について長い間関心を払ってきた。特にラトヴィアはバルト三国周遊の旅の際に一番長く滞在した国であり、また高校時代にこの国の合唱曲を多く歌ってきてある程度の知識もあるため、主な研究対象のフィールドとして選定することにした。

目的 この卒業論文を制作するにあたり、特にラトヴィアを事例にするものの、日本とはあまり交流がないバルト三国について触れて相互理解の一歩となるよう、また日本人とは異なる歌や合唱の位置づけを、明らかにすることを大きな目的としたい。我々は普段音楽として、歌は楽しむものとしておそらく接していると思うが、バルト三国の人々にとってはそれが独立に結びついたほど、大きなアイデンティティ形成において重要なものになっていったと捉えられてきたのである。「バルト三国の人々と歌や、伝統的な民俗文化の行事を通してどのように生活の一部として接し認識しているのか。その意義について、またバルト三国の人々を対象にした行事と他民族との関係などは一体どのようなものか。歴史的・文化的・民族意識的な視点などから、今日の生活の中でどのような位置づけで人々は接しているのか」というのを突き詰めて明らかにしていきたい。バルト三国全体という広い範囲に及ぶ上に、小国の民族社会が故に抱える深い問題にも接しなくてはならないので、歌に関する行事に見られる人々の歌の位置づけや自民族のアイデンティティを中心に、多言語・多民族国家であることを意識しながらまとめていきたい。エストニアではフィンランド、リトアニアではポーランド、ラトヴィアではロシアとの民族関係が、言語面やアイデンティティの面に関してとても重要な点になることもまた考慮に入れておきたい。エストニアやリトアニアの実際の事例も挙げながらもラトヴィアについて具体的な事例を詳述することで、ラトヴィアにおいての生活や文化、総括してバルト三国の伝統的な民俗文化や現代社会により触れたい。また、複雑な民族問題や情勢を持ちながらも小国としてまとまり、歌の祭典などの行事や伝統的な民俗文化を大切にするバルト三国の人々の民族性をより明らかにしていくことを目指す。第2章で国民的行事を通しての様子、第3章で伝統的な行事や普段の生活の様子を、フィールドワークでの調査をもとに言及していきたい。   
1章 バルト三国各国の概要と歴史 1節 ラトヴィアの概要と歴史  バルト三国はバルト海に面し、北から順にエストニア、ラトヴィア、リトアニアと並んでおりこの三つの国から成り立つ。バルト三国というまとまりを持っているとはいえ、三国共通して影響しあったことは意外にも少ない。エストニアはフィン・ウゴル語族に、インド・ヨーロッパ語族にラトヴィアとリトアニアは区分される。またポーランドの影響を受けながら公国として歩んできたリトアニア、ロシアや北欧やドイツの支配を常に受けながら似たような歴史を辿り、国民的行事である歌と踊りの祭典の開催がほぼ同時期だったエストニアとラトヴィアとも分けて見ることが出来る。エストニアはフィンランドと、ラトヴィアはロシアと、リトアニアはポーランドと絶えず関係し合いながら現代まで至っている。宗教においてもリトアニアはカトリックだが、エストニアとラトヴィアはプロテスタントもしくは自然崇拝が盛んである。このように様々な区分からこのバルト三国を見ることができるが、その中でもこの三国の共通点を挙げるとすれば、各国の人々が歌や踊りなどの民俗文化を常に大切にして自民族の文化を古くから守ってきたことであるといえる。まず第1節としてラトヴィアについて触れたい。国土面積は64,589㎢、首都はリーガである。1918年に建国、建国記念日は1118日となっており、2008年に独立90周年を迎えた。2009年のデータによると人口は2,261,294人で、2008年の時点ではラトヴィア人59.2%、ロシア人28%、ベラルーシ人3.7%、ウクライナ人2.5%、ポーランド人2.4%の人口比率となっている。公用語はラトヴィア語だが、ロシア語も多く通じ年配の人々は英語よりロシア語を解する。特にリーガにおいてはロシア系の人が半数であるからか、至るところでロシア語が聞かれる。実際ラトヴィア語、ロシア語、英語を多くの人々は使い分けて生活しており、他にもドイツ語なども話すことがある。また宗教はルター派が23.8%、カトリックが18.4%、ロシア正教が15%となっている。地域はラトガレ、ゼムガレ、クルゼメ、ヴィゼメに主に分かれており、政治形態は議会制民主主義である。歴史については以下の通りである。インド・ヨーロッパ語族のレット人(バルト語族)が今のラトヴィアの地に移住し始めたのは紀元前2000年ごろと言われている。紀元前1世紀頃リーヴ人(ウラル語族)が北シベリアから移住し定住した。それからこの地域は、リーヴ人の居住地ということでリヴォニアと呼ばれるようになる。長らく自然崇拝に基づく信仰を保ってきたが、13世紀のリヴォニア帯剣騎士団およびそれを併合したドイツ騎士団の東方植民で、徹底的なキリスト教化が推し進められ現在の首都リーガが建設された。この後リヴォニア帯剣騎士団と共にやって来たドイツ人達はラトヴィアに残り、20世紀までに少数派のバルト・ドイツ人を形成し、実行支配を行った。リーヴ人は騎士団のために激減し、以後ラトヴィア人がこの地の主要民族となった。16世紀にはバルト海の覇権をめぐってリトアニア、ポーランド、スウェーデン・ルト帝国の支配を受ける。この過程で国内は北部リヴォニアと南部クールラントに分裂し、北部はスウェーデンに、南部はポーランド、次いでロシア帝国の影響を受けるようになる。18世紀になると、大北方戦争などの煽りを受けてロシア帝国の支配下に置かれた。しかし19世紀にはロシアより早く農奴解放を行ったため、順調に資本主義経済と市民社会の形成がなされた。それが国内の知識人や民族主義者を生む背景となる。またバルト三国ともにバルト・ドイツ人による主要民族に対する啓蒙運動が興り、ロシアからの独立を望むきっかけとなっていった。20世紀にはラトヴィア独立の気運が高まり、第一次世界大戦後の19181118日に民族自決の原理に従って独立を宣言した。1919年ラトヴィア軍は1119日に独露統一軍を撃退し首都リーガを解放する。その後カールリス・ウルマニスを中心とする右派政府と赤軍の内戦を経て、民主主義体制での独立を確立したが、世界大恐慌からの経済立て直しのために1934年にウルマニス独裁政権が成立し、ソビエト連邦やドイツと不可侵条約を締結して政治的安定を図った。第二次世界大戦が始まると、1940年にソビエト連邦とナチス・ドイツの間で交わされた独ソ不可侵条約の秘密議定書によりソビエト連邦に併合され、実質ラトヴィア・ソビエト社会主義共和国が誕生する。翌年ドイツ軍が侵攻してくるものの、ラトヴィア人はこれを「解放軍」として歓迎したが、その後1944年にソビエト連邦に再征服される。この過程でバルト地方のバルト・ドイツ人はロシア人によって一掃され、民族構成は一変した。1980年代に、バルト三国の中で最も早くソビエト連邦からの独立運動が展開された。1988年にはラトヴィア独立戦線が結成されて独立運動が展開、1989823日にはバルト三国各首都を結ぶ「人間の鎖」(バルトの道)が行われた。19911月のリトアニアのテレビ塔の流血事件(血の日曜日事件)と同じく、ラトヴィアでもソビエト連邦内務省特殊部隊の襲撃事件を起こす。その後のソビエト連邦のクーデター失敗後、ラトヴィアは1991821日に独立を宣言した。199335日に通貨ラットを導入。またその後ラトヴィアを含めたバルト三国は、北欧資本の受け入れなどを積極的に行い、2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟している。しかし国内に多数を占めるロシア人との潜在的な対立は、ロシアとの外交的問題でもあり、今のラトヴィアの政治に影を落としている。また昨今の世界的経済不況により2008年からバルト三国の中でも失業率の上昇など特にその悪化が見られ、大きな問題となった。今後デフレが進むとされ、運送をアジア方面に開拓しようと交易国としての位置づけを確立させて、現在のラトヴィアの経済状況の建て直しを図ろうと試みている。  2節 エストニア  また第2節と第3節で隣国であるエストニアとリトアニアについても触れておく。エストニアは国土面積45,227㎢で、首都はタリンである。人口は135万人、エストニア人68%、ロシア人26%、その他6%とラトヴィアより安定した民族構成が見られている。公用語はエストニア語で、他にも人々は隣国のフィンランド語やロシア語、英語やスウェーデン語やドイツ語も話している。議会制民主主義を取っており、宗教はルター派が多数とされているが、国民の信仰は歴史上の問題からか比較的薄いとされている。歴史は以下の通りである。現在のエストニアにあたる土地には紀元前500年頃にはエストニア人(ウラル語族)と呼ばれる民族集団が居住していた。しかし東方から到来したスラブ人と混血し、更にはヴァイキングの襲来によってノルマン人とも混血が進み、10世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった。13世紀に入るとドイツ騎士団がバルト海沿岸に進出し、デンマーク王国の協力を得てこの地を征服し、エストニア人をキリスト教化した。デンマークの支配の下、タリンはハンザ同盟に加盟して海上交易で栄えた。その後はバルト海の要衝としてポーランド王国の支配を受けるが、更にスウェーデンがこれを退け、また新たに支配することとなった。1560年代から1711年までを「バルト帝国」時代と後年呼ばれるようになっており、1561年エストニア公国建国するものの、1721年のニスタット条約で解体となる。結局大北方戦争の結果、1712年にロシア帝国がこのエストニアを獲得する。以後、「南下政策」を標榜するロシアにとっては重要な「バルト海の窓」となった。19世紀にはアレクサンドル3世のもと「ロシア化」が推し進められる。それでもドイツ貴族は領地支配を継続し、ロシア帝国の支配下にありながらも首都のタリンはハンザ都市としての特権を持ち続けた。この頃になると民族意識が高まっていき、1862年にクロイツヴァルトによる国民抒情詩「カレヴィポエグ」(Kalevipoeg)が出版され、歌の祭典も開かれるようになる。1917年にロシア革命が勃発すると、エストニアは1918224日に独立を宣言。1920年にはレーニンの「5月テーゼ」に基づきソビエト連邦は独立を承認した。また第一次世界大戦後、自らが掲げた「民族自決」の原理に従い、国際社会もその独立を承認した。しかしソビエト連邦による独立承認後は政局が不安定で、Vaps運動が反政府活動を行い、国家の緊急事態が宣言されて弾圧された。1939年に第二次世界大戦が勃発すると、「独ソ不可侵条約」及びその「秘密議定書」に基づき、ドイツとソビエト連邦がポーランドに侵攻した。領土的野心のあったスターリンはエストニア、ラトヴィア、リトアニアのいわゆる「バルト三国」に食指を動かし、翌年6月に外相モロトフを派遣し、新政府樹立の最後通牒を突きつけた。ドイツからの支援も受けられないエストニアは他二国と共に1940617日にソ連軍の進駐及び新政府の樹立をもって編入され、多数の住民が逮捕あるいはシベリア送りにされた。独ソ戦に対しては進攻するドイツ軍を歓迎した者もおり、武装親衛隊の支援によるソビエト連邦へのゲリラ活動(森の兄弟)を行い、ソビエト連邦側もエストニア人部隊を送るなど代理戦争で混乱を極めた。19406月、エストニア共和国はソビエト連邦によって占領される。モロトフはバルト海の国々のソビエト連邦に対する陰謀を非難し、ソビエト連邦が承認する政府の設立を求めた最後通告をエストニアに届けた。エストニアは最後通告を受け入れ、617日エストニアにある赤軍の軍事基地から赤軍が出動した時に国家としてのエストニアは事実上存在しなくなった。翌日にはさらに約9万人の軍隊が国に入り、ソ連軍に支援された共産主義者のクーデターによりエストニア共和国の軍事占領は「正式」なものになり、続いて共産主義者寄り以外の候補者が非合法化された中で「議会選挙」が行われた。そのように選出された「議会」は1940721日エストニアを社会主義共和国と宣言し、エストニアがソビエト連邦に「加入」することを満場一致で要求した。86日にエストニアは正式に併合され、エストニア・ソビエト社会主義共和国に名称が変更される。エストニアの1940年の占領とソビエト連邦への併合はイギリス、アメリカ、及び他の西側民主主義国家にとっては違法であり、決して正式に承認されることはないものだった。ソビエト当局はエストニア全ての支配権を得て、直ちに恐怖の体制を強要した。ソビエト占領(19401941)の最初の年に、国の指導的政治家と将校のほとんどを含めた8000人が逮捕された。逮捕された内の2200人がエストニアで処刑され、他の大部分はロシアの収容所に移され、後にそこから生きて帰れたものはほとんどいなかった。1941614日にバルト三国で一斉に大規模な国外追放が行われ、約1万人のエストニア市民がシベリアなどのソ連国内の遠い土地に追放され、そこで彼らの半分近くは後に亡くなっている。1940年から1941年であった最初のソ連占領期には約500人のユダヤ人がシベリアに送られた。第二次世界大戦後はソビエト連邦に再併合され、15の共和国の一つとなる。 農村集団農場化政策が推進され、裕福な自作農や反体制派と見なされた人間が強制連行されてシベリアに追放されると共に、ロシア人などの非エストニア人が他の共和国から多数エストニアに流入した。ソビエト連邦にゴルバチョフが登場してペレストロイカ政策を推進すると、自由化の空気がエストニアにも及び、1988年には独立を目的とするエストニア人民戦線が設立される。更に「ベルリンの壁崩壊」に象徴される東欧の民主化の波はバルト三国にも波及し、1989823日にはタリン、リーガ、ヴィリニュスを「人間の鎖」(バルトの道)で結ぶ運動に100万人が参加し、独立回復への気運が高まった。翌1990512日にはタリンでバルト三国の首脳が集まり、三国はソビエト連邦編入前に存在した「3カ国会議」の復活を宣言する。事実上の独立回復宣言となるが、ゴルバチョフ大統領はそれを無効とした。しかし819日の共産党保守派のクーデターを原因としてソビエト連邦の体制が動揺し、直後の96日に独立回復が承認される。更に国連に加盟し、名実ともに独立した。なお820日に独立を宣言したことから、その日が「独立回復の日」とされている。1992620日に通貨クローンを導入。その後他二国と同じ年にNATOEU加盟を果たした。2011年にバルト三国の中で最も早い試みとなるユーロ導入を行う予定であり、また現在国内の経済状況としては三国の中で最も安定している。  3節 リトアニア リトアニアは国土面積65,300㎢、首都はヴィリニュスである。人口は348万人で、リトアニア人83.5%、ロシア人6.3%、ポーランド人6.7%、ベラルーシ人1.2%、その他(ユダヤ人含む)2.3%という割合になっている。議会制民主主義を取っており、また他二国と違い、宗教はカトリックが主流である。歴史は以下の通りである。リトアニア人は、バルト人(バルト語派)の一派で、ドイツ騎士団を初めとする北方十字軍との抗争の中で団結して行った。13世紀にキリスト教化を目論むドイツ騎士団に一時征服されたが、1236年の戦いで彼らの進出を食い止め、ミンダウカスのもと最初の統一を成し遂げリトアニア大公国を成立させた。14世紀にゲディミナスは東欧に勢力を伸ばし、現在のベラルーシ、ウクライナまで拡大していった。またヴィリニュスを建設し首都とした。1386にリトアニア大公ヨガイラはポーランド王国の女王ヤドヴィガと結婚し、ローマ・カトリックに改宗すると同時にポーランド王に迎えられた(ポーランド・リトアニア連合)。リトアニア大公国は、初期はポーランド王国と連合国家(同君連合)として対等な地位を築いた。1410年、ポーランド・リトアニア連合は一致してドイツ騎士団を破り(ジャルギリスの戦い)、両国は東欧の大国として君臨した。しかしリトアニア人貴族は次々と、母語をリトアニア語やベラルーシ語から自発的にポーランド語に変えてポーランド社会へと同化する。16世紀半ばに開始されたリヴォニア戦争においてルブリン合同が成立すると、リトアニアは自治権を放棄し(公国の消滅)、ポーランド「共和国」(あるいは「ポーランド貴族共和国」)の一地方となったが、この共和国はその勢力の最盛期を迎え、当時のヨーロッパ最強の国家となった。その後「共和国」の強大化に危機感を抱いた周辺国により「共和国」は弱体化させられ、リトアニアは18世紀初頭の大北方戦争によって一時スウェーデンの支配下に置かれたが、スウェーデンの敗北により、再び「共和国」の支配下に戻った。しかし「共和国」の衰弱は近隣諸国の介入を招き、ロシア帝国やプロイセン王国の影響力が高まって、1772年の第一次ポーランド分割の後、リトアニアもその分割の脅威にさらされる事となった。1795年のポーランド分割で国土の大部分はロシア帝国に組み込まれる。19世紀になると民族主義が高まり、「ポーランド共和国」の復活を目指してポーランド人とともに2回蜂起するが鎮圧される。第一次世界大戦が始まると、1915年ドイツ帝国に占領された。リトアニア人住民はドイツ軍に対し抵抗運動を展開したが、1917年ロシア革命が起こり、リトアニア人住民とドイツ軍、ソ連赤軍、ロシア白軍、更にはポーランド・リトアニア共和国の復活を望んだポーランド人住民が入り乱れて戦いが繰り広げられた。リトアニアはドイツ軍占領下の1918216日に独立を宣言、しかし民主的政権運営は長くは続かず、1926年に軍事クーデターが勃発した。アンターナス・スメトナの独裁政権が成立し、更に同年ヒトラーとスターリンの間で結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書で、ドイツはリトアニアをはじめバルト三国とフィンランドをソビエト連邦のものと認め、19399月にナチス・ドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦の3カ国がポーランドを侵略した。第二次世界大戦が始まると、1940年にソビエト連邦に併合される。3500人のリトアニア人がシベリアなどに追放され、数千人が殺された。1942年から1952年にかけて、スターリン政権下でリトアニア人のシベリア追放政策が再開される。公式統計によると、この時期に12万人以上が追放にあっている。ゴルバチョフがソ連共産党第一書記になりペレストロイカが始まると、1988年民族組織「サユディス」(「運動」の意)が組織され、ラトヴィア、エストニアなどと連携して独立運動を進める。独ソ不可侵条約50周年を迎えた1989年には600キロにわたる、「人間の鎖」(バルトの道)が形成され世界に独立を訴えた。この頃は旧ソ連下にあった中東欧諸国で独立運動の気質が高まっていたが、実質リトアニアがこの先頭に立った運動を見せた訳である。このことはソビエト連邦からの独立とベルリンの壁崩壊にもつながっていることでもあり、アメリカはこのリトアニアが最初に独立運動に活発に動き出していたことを指導的貢献とソビエト連邦崩壊に結びつけたと賞賛している。当時旧ソ連下にあった中東欧諸国の中で始めに独立運動を見せた小国のリトアニアの存在が大きかったことが分かる。19903月サユディスが選挙に圧勝すると、1990311日にソビエト連邦構成共和国の中でいち早く独立を宣言した。19911月ゴルバチョフ政権は武力を投入して放送局やテレビ塔を占拠、その際に非武装の市民14名が死亡し、700人が負傷した(1991年血の日曜日事件)。しかし8月クーデターが失敗すると各国が独立を承認し、96日についにソビエト連邦も正式に承認、実質的独立を達成した。ソビエト連邦はその年の12月崩壊した。

1991917日、バルト三国はそろって国連加盟を果たす。つまり1991年のリトアニアは精神的にも政治的にもソビエト連邦から脱しようと変革させて、1989年の動きに同じく他中東欧諸国の先に立ってその影響を広く与えたということである。19921025日に新憲法を承認、1993625日に通貨リタスを導入。その後、ロシアとは宥和を掲げながらも他二国と同じく2001WTOに加盟、2004年にはNATO及びEUに加盟した。現在EU加盟をしたことで原子力発電所の廃止を求められたため、エネルギー転換の問題を抱えており、世界経済の動向とともに大きな論点となっているのがリトアニアの現状である。


2章 祭の中での歌と合唱  第1節 2008年ラトヴィア 歌と踊りの祭典  去る200875日から12日まで、ラトヴィアはバルト三国の伝統的民族的行事である「歌と踊りの祭典」を開催した。歌の祭典は第24回、踊りの祭典は第14回目であり、「歌」と「踊り」の祭典それぞれの始まった時期の違うことが分かる。この祭典はエストニアとラトヴィアでは5年に一度、リトアニアでは4年に一度開催され、何万という歌い手と踊り手が屋外のステージに集って合唱やダンスの発表を繰り広げる。殊に近年オーケストラによる演目やポピュラー音楽の歌手を招いてのコラボレーションといった傾向も各国見られるようになった。この祭典での歌い手と踊り手はほとんどがアマチュアであり、オーディションで全国から選ばれる。聴衆も同じく何万という人で終日この祭典を祝うところを見ると、まさに「歌う民」であり、「歌の国」ならではの活気と伝統であり、国を挙げての音楽祭といえる。2003年にこのバルト三国の「歌と踊りの祭典」はユネスコの無形遺産に登録されている。また本祭の合間には規模が縮小するものの、青年による歌と踊りの祭典が行われ、2008年に歌と踊りの祭典が行われたラトヴィアでは2010年に「青年歌と踊りの祭典」が行われる予定となっている。こちらの祭典は年代が若いこともあり、学校での合唱団として出場したり現代的な合唱が歌われたりということが多く見られるという。歌の祭典は本来バルト三国だけにみられた伝統ではなく、オーストリアやスイスなど19世紀に広くヨーロッパで行われていた。合唱が民族全体を愛国心や民族運動に駆り立てる力ともなっていたからであろう。「歌と踊りの祭典」はラトヴィアでは1873年にリーガで第1回ラトヴィア人歌謡祭として行われる。この祭典(ラトヴィア語でDziesmu Svētki)は始め民謡を中心として合唱が行われ、人々が互いのアイデンティティを確かめて団結し、独立への気運を高めるために用いられた。そもそもこのバルト地域に住む人々が何故合唱という手段をこんなにも身近に取り入れたのか。歴史を遡ると、13世紀以降からドイツ人の支配によってもたらされたキリスト教(エストニアとラトヴィアではルター派プロテスタント教会)の普及のために歌を用いて信仰を深めていったことが挙げられる。この地域はドイツ人が長く入植していて支配をしていたがロシア帝国が農民を取り込む動きをし始めたため、ドイツ人は何らかの策で農民の心を掴もうとしていた。この「歌で人々の間のつながりを深め強めている」ことに着眼したドイツ人は合唱祭を行うことで、ドイツの啓蒙主義と現地農民の取り込みを行おうとしたのである。その結果民族意識がバルトの人々に生まれ、やがて「歌や自民族の民謡を歌う=自らの言語を発することでアイデンティティを共有しあう」ことにつながり、19世紀に世界各地で盛り上がっていった民族意識の高揚の一つとなっていく。以降、ソビエト連邦の支配下の時期や世界大戦中も継続され制限が加えられたりしたものの、人々は母国語を発し歌うことに自民族の文化を見出し、自民族のアイデンティティ形成を行っていった。またヘルダー(17741804)がバルトの人々から多くの民族歌謡や伝説を収集したことなどは、人々が自民族の文化を見出すことに大きな影響を与えた。またラトヴィアにおいてはクリシュヤーニス・バロンス(1835-1923)がラトヴィアの民謡を“Dainu Skapis”(ラトヴィア語で「民謡の戸棚」の意)に268,815篇収めたことなどが、自民族の文化を発展させるきっかけとなった。こうして人々が自民族の文化に関心を払って再発見し、かつバルトの人々が母国語を発することの意味が大きくなっていった。長い歴史の中絶えず他国に支配され続けてきたバルト三国にとって自民族の文化を見つめ直し、認識を深めていくことは極めて重要なことだったのである。以上の事柄から年月が経つにつれて歌謡祭が盛んになっていったのであろう。  ラトヴィア初、全国版の「歌と踊りの祭典」のポスターhttp://dziesmusvetki.lndb.lv/objekti/01-01.jpgより引用)  歌を用いたキリスト教の普及から「言葉を発しあうこと」に重きが置かれ、徐々にそれが自民族の言語や文化の普及へと結びついていった結果、自国言語の共有が盛んになり、識字率の上昇と共に文献などを通しての伝説や民話にも関心がいくようになる。こうして人々は自分の文化にアイデンティティを見出すようになっていき、そのアイデンティティを基盤としてやがて民族の結束が高まり、民族の団結と民族意識の高揚へと歩んでいったのである。1918年の始めの独立後から歌の祭典ではオーケストラや吹奏楽団のコンサートも並行して行われるようになって規模も大きくなるが、これは独立の自由を人々が謳歌していたからであろう。1940年代ソビエト連邦に併合された時もこの歌謡祭は行われたと先にも述べたが、その際ソビエトラトヴィア歌の祭典と称されるようになった。この頃は民衆の芸術活動は広く支持されていたため盛んに芸術活動や合唱活動が行われていたが、「ソビエトラトヴィア25周年記念歌の祭典(1965年)」「ラトヴィアにおけるソ連権力回復40周年記念ソビエトラトヴィア歌と踊りの祭典(1980年)」などと、ソビエトの政治的記念日と結びつけ、共産党の影響を人々へ潜在的に与えようと試みていたことが窺える。また開催する時の条件としてスターリン崇拝の歌の強要、自然を歌うもののみを許可、歌詞の検閲といった制限付きで行うというものであった。政治的なもの・独立を高揚させるような歌は禁止されてはいたが、実際には1曲目で「(ソビエト連邦、スターリン)万歳」と歌えば後はいろんな歌を歌っていた。これはロシア人がバルト三国の言語を理解できないということを承知の上で行っていたことだという。このようなソビエト連邦の支配下でも19597月ダウガワピルスで5000人の歌い手と7万人の聴衆が一堂に会したことも記録されており、自分の言語で民族に伝承されている歌を歌うことがアイデンティティの創出と共有に極めて大きな意味を持ち、またこの行為自体が非常に政治的であったことが分かる。

2008年の本祭では2万人の歌い手と15000人の踊り手が参加した。リーガ近郊の森林公園にある野外音楽堂に集まり、ステージ中央下にはオーケストラが位置した。野外音楽堂のステージとは反対側の芝生の側が観客席となり、7万人前後の人々がこのコンサートを楽しむ。同時にテレビ中継も行われ、たとえ会場で聴けなくても人々はテレビを通してこの祭典を体感することが出来る。民族衣装に身を包んだ歌い手や踊り手が集うこの祭典では民俗芸能のショーケースとも言えるだろう。国民的行事なので首相や副首相も当祭典に出席するのだが、その場合民族衣装を着て現れることが強く望まれている。「この祭典において首相や副首相が民族衣装を着るか、着ないか」というのはバルトの民族である以上とても重要な観点となる。自国の民族文化をいかに大事にしているか、というのが分かあろう。 

2008年に開催された「歌と踊りの祭典」のステージhttp://www.dziesmusvetki2008.lv/index.php?&72 より引用)

 

 踊りの演目と合唱の演目、またオーケストラやバンドの演目を含め、この年は全34項目であった。この本祭の開催当初としては合唱が主で、民族意識の高揚に大きく関わっていった民謡の合唱編曲が多かったが、1991年の独立以降オーケストラやバンドの器楽演奏や現代のポピュラー音楽も歌われるようになってきている。必ずしも合唱団のみではなく、招聘された歌手のコラボレーションもあり、コンサートとして楽しめるものへと変化してきている。またこの祭典では3日間くらいに渡って行われるが、最終日のプログラムが夜で終わる予定としているものの、非公式で司会者が祭典の内容を延長して合唱を一晩中繰り広げるということも実は行われている。独立運動と戦争を見てきた高齢者の年代も、合唱を楽しみとして集う若年層も、こうして5年に一度の伝統的・国民的行事を楽しみ共有し合うのである。また世代だけではなく、音楽という性質上人々が普段の生活格差や民族の壁を越えて楽しむことができるという多くの声が上がっていることから、この祭典の持つ大きな意味を持つといえる。   第2節 2009年エストニア 歌と踊りの祭典・リトアニア 千年祭  エストニアの歌と踊りの祭典は1869年に、リトアニアの方はポーランドとの関係により1924年に歌謡祭として始まった。第一次世界大戦などの影響で一時中断されたものの、1960年代にはバルト三国それぞれで正式に再開された。この祭典は独立運動に結びつき、1965年にエストニアで行われたものでは、26000人の歌い手と12万人の聴衆がいる中で「わが祖国、わが愛」という第二の国歌が最後に歌われた。国歌を長く禁じられていたバルト三国にとって第二の国歌にあたる歌がそれぞれあり(ラトヴィアでは「風よ、そよげ」、リトアニアでは「リトアニア姫」が該当する)、現在でも非常に大切にされているが、これを歌うことは当時において非常に政治的な意味合いを帯びていた。1988年夏の時ではエストニアの歌の原(タリン郊外の野外ステージ)に2530万人の人が集い、伝統的な歌を歌って民主化要求と独立回復をスローガンと掲げて歌の祭典を開催したという。まさにこの祭典は政治的合唱祭という役目を担っていたのである。リトアニアはリトアニア大公国としての国家的基盤を築いた歴史があった一方で、エストニアとラトヴィアの二国は国家的基盤がなく、言語のみで人々はつながっていたという歴史を歩んできている。だからこそ独立を目指す民族運動に民謡や民話といった自民族の文化や言語が結びつき、それらが民族の団結に大きな役目を果たしていったのである。そして同じ言語や文化を共有し大勢の自民族の集う場として歌謡祭(歌と踊りの祭典)は、アイデンティティ形成の重要な場でもあり、また民族意識を高揚させる政治的な場でもあったため、まさにバルト三国の人々にとってかけがえのない機会だったといえる。エストニアで行われてきた歌と踊りの祭典は、18691923年までの全8回は歌の祭典(Laulupidu、英訳ではSong Festival)と呼ばれ、1928年以降は全エストニア人歌謡祭(Üldlaulupidu、英訳ではAll-Estonian Song Festival)と呼ばれていた。エストニアでは1980年代後半から民族意識発揚の歌が数多く人気歌手によって歌われ、「エストニア人である、エストニア人であり続けよう」という歌もヒットした。エストニアでは特に歌謡祭への盛り上がりを示し、挿絵画家であったヘインツ・ヴァルクによって名付けられた「歌う革命」「歌いながらの革命」(ラトヴィアでは近年「第三の覚醒」と呼ばれている)へと顕著に独立への運動を起こしている。この「歌う革命」は平和的な革命であり、大勢の割に混乱も何もなかったことから、「エストニア民族=理性的な人々」を定着させるものでもあった。実際に2006年にこの「歌う革命」はアメリカでドキュメンタリー映画として作られている。 またバルト三国国内のみにとどまらず、他国へ移住していったバルト三国の人々のコミュニティによる国外の歌の祭典も第二次世界大戦以降現在でも行われている。以上のことからバルト三国の人々が歌を通じて、そのアイデンティティを確かめ合っていることが分かる。

200972日から5日までエストニアでは歌と踊りの祭典が行われた。2009年のテーマは“To Breath as One”5年に一度の国民的伝統的行事であり、オーディションで選ばれた全国からの歌い手と踊り手が首都タリンに集まる。2日はFolklore Dayとして旧市街の広場の特設された屋外ステージで、民族衣装の子供達を中心とした人々がフォークソングや伝統的楽器を用いた民俗音楽の演奏を行っていた。カンドゥレやカンネルといったエストニアの伝統的な琴やバグパイプ、ホーンやバイオリンで演奏され、数時間に渡って民俗音楽が披露された。民俗音楽(フォークソング)は我々がよくアメリカの「ウエスタンミュージック」として聴くものに音楽的な構成が近いので耳馴染みがよく、またバイオリンやアコーディオンで演奏されるものが多い。ちなみにこのFolklore Dayとして伝統的な民俗音楽を演奏するコンサートを設けたのは今年が初めてであったという。 

Folklore Dayの発表の様子

 

 Dance Dayとして2回の踊りの演目も披露された。隣国であるラトヴィアやフィンランドなど他国からのダンサーも呼び、2万人近い踊り手がタリンのカレフスタジアムに集まり、民族衣装を身にまとって約2時間踊りが行われる。伝統的な踊りを基本とし、エストニアの歴史を辿るといったテーマで踊りが展開された。今年は「水」をメインとして、海での漁師を模した表現や波の表現などが多く見られ、男女のペアでの踊り・子供達だけ・男性のみまたは女性のみだけ・レースをまとった水を表す人達だけが踊る場面などもあり、2時間休みなく踊りが続く。

  Dance Dayの様子

 Song Dayとして3回の歌の演奏及びコンサートがあり、1回目はコンサート的、2回目は伝統的、3回目は総括的なものとしてそれぞれの性質を今年は各回に分けていた。歌のコンサートが野外ステージである「歌の原」で行われる1回目の前は、5時間以上に渡る歌い手達のパレードが旧市街から歌の原まで延々と続く。皆民族衣装をまとったり、団体名のプラカードを掲げて歌いながら、あるいは何かしらの団体アピールを叫んだりしながら歩いていく。マーチングバンドも交じり、華やかな行進が何万人という人々で構成される。あまりの人数の多さで、歌の原のステージに出演者全員が揃い並び終えるのに開始予定時刻より2時間近く遅れたほどであった。オーケストラがステージ中央下に位置し、エストニアの著名な作曲家ヴェリヨ・トルミスによって聖火が灯され、民謡や近年の曲の合唱が歌われ、オーケストラによるクラシック音楽の演奏もなされる。聴衆席の方も歌い手以上の何万という人々で埋め尽くされ、国歌を歌う際は全員が気持ちを一つにして立ち上がって歌う姿はとても印象的であった。

  

ステージに集合した歌い手である合唱団とオーケストラの様子

この発表が始まる前スタジアムや歌の原の周辺では民族衣装を着た関係者(そうではない人もいる)が楽器演奏していることもあれば、出店でエストニアのお土産を売る・スナックを売るところが多く見られた。歌の原に限っては子供向けアトラクションさえも揃っていて、人々はコンサートを聴きに行く・歌い手と一緒に合唱の時間を共有するというより、「祭典」「祭」である雰囲気や出店を回り騒ぎ楽しむことを中心としている面も多々あった。また一方で国内の方だけではなく、海外からの「観光」化を狙う面が大きいところも窺える。実際この祭典を見るためにオーストラリアや日本などからわざわざ来た観光客も大勢おり、また世界中でこの祭典を「観光」としてアピールをしてチケットを売っているのも事実であるので、まさに歌と踊りの祭典自体が「祭」化を遂げてきているとも指摘できよう。一方リトアニアでは今年が「リトアニア」という国名の表記があってから1000年が経った年として、「千年祭(ミレニアム、千年祭歌と踊りの祭典)」が73日から6日まで行われた。4年に一度の歌と踊りの祭典と同じように歌と踊りの発表が披露され、こちらは建国記念日の76日を挟んだことと1000年という長い歴史の中でのリトアニアを祝うことを含めたせいか、伝統的・国民的祭典である「歌と踊りの祭典」とは趣旨が少し異なり、現代的な演目でまとまっていた。例えばDance Dayでは電子音楽をベースとした現代的な音楽を流し、踊りも衣装も民俗的な要素から少し離れるものが見られた上に他国からのダンサーをより多く招いていた。またエストニアと同じように、Song Dayの歌のステージが行われるヴィンギオ公園へ旧市街の大聖堂から向うパレードも約2時間行われ、これは歌い手のみではなく4日に行われたFolklore Day(民族衣装に身を包み、伝統的な演奏や文化の披露が行われた)やDance Dayなどの参加者の有志も参加できるもので、エストニアのものより小規模であった。またSong Dayではポピュラー音楽の歌手を招き、合唱も民謡をベースとしたものは少なく、曲自体のアレンジも現代的なものが多かった。首相も民族衣装ではなくスーツ姿で登場し、聴衆も若年層の方が多く、「LietuvaLietuva!」(リトアニア語で「リトアニア」の意)とコールのように叫ぶ聴衆の熱気は熱狂的で「楽しい」ものがあり、外国人である私さえも分かりやすいものがあった。つまりエストニアでの歌と踊りの祭典で体感したような、自民族としてのまとまりから民俗文化や伝統的な祭典の形式を大事にするといった傾向が、今回のリトアニアの祭典ではあまり見られなかったことも対比していえよう。

Dance Day

 太陽の象徴を掲げてSong Dayの行われるヴィンギオ公園に向う参加者達のパレード   第3節 2009年ラトヴィア Baltica 200979日から12日までラトヴィアで広域のフォークロアフェスティバルであるBalticaが開催された。これはバルト三国に限らず、ベラルーシやウクライナやロシア等の周辺国、アメリカやイギリスの移民コミュニティ等様々な国の人々が交じり合い、毎年バルト三国を中心として民俗文化のための祭典を行っている。民族衣装を身にまとった各国の人々が、楽器演奏(バイオリンを用いたフォークソングが主)や歌を交えながら旧市街の広場から自由記念碑までのパレードが行われ、その前でオープニングセレモニーが催され、各国のダンサー達による踊りもその場で披露された。このBalticaは伝統的・国民的行事ではなく、民俗文化保存のための祭として位置づけられている。ここでは陸続きのヨーロッパだからこそ分かち合いが大事にされるのではないだろうか、と思われるような光景がいくつも見受けられた。例えば公園でこの祭の参加者が伝統的な遊びを披露する際に、その時の通行人も一緒に参加させてしまうような場面が多々あったのである。他にも皆で輪になって踊ったり、二人組みで踊ったりするものが多いところは、直接互いに触れ合うことで「一緒に分かち合う」ことを目指しているからこそ、そのようなものへと発展したのではないだろうか。バルト三国を含め、陸続きの国々の伝統的な踊りは二人組みで踊るものや大人数で手を取り合って踊るものが全体的に多い傾向を見ると、このように人と人が直に接する機会や場を作ることで、民族同士の交流を深めていったのではなかろうかという推測も出来る。ステージでのパフォーマンス発表が連日催されるこの祭を人々は楽しむが、歌と踊りの祭典ほどの盛り上がりはない。他にもコンサートが行われたり、民俗文化を示す映画の無料観覧が出来たり、また公園では食べ物や伝統的工芸品などを売るお店が立ち並んだりする。様々な民族が暮らす場である国の中でそれぞれの伝統文化や民俗文化を簡単に紹介し合い、理解を深め交流し合うことが主な目的であろう。合唱や歌という機会はこのBalticaにおいては少ないが、踊りにも欠かせない音楽という場を通しての人々の交流の場として、大切な祭の一つとして挙げても良いと思われる。バルト三国に限らず広域のフォークロアフェスティバルとしてこの祭典が各民族の文化の再発見と保存の重要性を促し、またそれぞれの民族のアイデンティティ形成に一役を担っているといえよう。歌と踊りの祭典には及ばないが、各民族にとって重要な行事であることは明白である。 
3章 生活の中での歌と合唱 1節 ラトヴィア 首都リーガ、現在の暮らし 首都のリーガはラトヴィアの中でも「鼓舞(インスピレーション)の街」として知られ、旧市街とアールヌーボー調の新市街との芸術に彩られたバルト三国最大の都市である。どの時代においてもリーガは常にバルトの政治、経済、文化の都市として大きな役割を果たしてきた。1918年の独立の際にリーガはラトヴィアの首都と定められた。ラトヴィアにおけるロシア人の割合は一般的に3割と言われているが、リーガでは5割と言われている。ラトヴィアにおけるラトヴィア語の保護・民族のアイデンティティを保つために国語庁の政策による国語法が適用されているため、メディアでもロシア語が用いられれば必ずラトヴィア語の字幕がつき、公共の場での表示はラトヴィア語が義務付けられている。たとえロシア人が多くともロシア語を見かけることはまずない。しかし首都であるリーガではロシア語を街のあちらこちらで聞き、また使わざるを得ない場面に何度も遭遇する。ソビエト連邦からの独立回復が1991年であったためか、ロシア人とラトヴィア人の関係の複雑さがまさにリーガで現在でも色濃く残っており、一つの大きな問題となっている。ラトヴィア国内に暮らすロシア人など、他民族の人々は市民権を得るためにラトヴィア語を含む試験を受けなくてはならない。リーガにおいてはこの動きやロシア人に対するラトヴィア人の固定観念や偏見が最も顕著であるといえよう。他民族が多く住んでいるラトヴィアを含むバルト三国において複雑な民族問題や多民族化の対応が深刻な状況であり、公共の場においてこの多民族・多言語・多文化性をどう扱うかが現在問われている。リーガを例に更にその生活を俯瞰してみると、「観光地としてのリーガ」と実際生活でのリーガが大きく異なることをまずは述べたい。観光名所としてリーガの旧市街と新市街は名高く、ツアーでは必ず案内され美しい「ドイツ的」建築群を人々は味わうことが出来る。その中でロシアの影響はあまり見られないが、旧市街や新市街から離れるとロシアとの歴史の傷跡がまざまざと見せ付けられる。郊外にはソビエト連邦占領下時代にシベリアへ強制送還されたことを示す碑や、「死ねば皆兄弟」の意味から取られた「兄弟墓地」と呼ばれる第一次世界大戦の戦没者を悼む場所などがある。このような歴史を示す記念碑などが多いところからはロシアとの関係に今も困難さを極めているラトヴィアの姿が窺え、リーガにおいてはそれが顕著であることが他の都市と比べて分かる。また自由記念碑は初めの独立である1935年に建てられたものであり、これは現在でも衛兵によって終日守られその下に置かれる花が毎日市民によって捧げられ絶えることがない。人々のロシア他の国からの独立という大きな出来事を守りまた忘れぬようにしている気質が、今もなお残っているといえよう。リーガでの生活からは特にロシアとの関係を感じられ、その重い歴史と隣り合わせで人々が暮らしているのが分かる。

一晩のうちに15424人が小さな貨物列車で送られ、その年で42125人の人が流刑となった。

 

兄弟墓地、右の白い新しい墓石には“NEZINĀMS”(「姓名不詳」の意)と彫られ、今でも墓石は増え続けている。 

では実際に現在バルト三国の人々は、歌とどのような関係性をもって生活しているのであろうか。教育の場ではラトヴィアに限らず、エストニアやリトアニアでもそうであったように、「音楽の授業でそれぞれの民謡を歌うことはまずない」ことが具体的に挙げられる。「歌の国」と言われるバルト三国の人々は合唱を身近に意識することは多いものの、特に強制させられることもなければ子供達全員が合唱に興味がある訳ではない。また多数の民族が暮らしている故、「ラトヴィアの民謡を歌いましょう」という授業はないという。しかしラトヴィア教育で各生徒は、小学に入学する時に学校附属の伝統舞踊団と合唱団のいずれかを選択し、中学校卒業までに必修科目として勉強しなくてはならないとされている。また放課後の活動として個人的に合唱のクラブや合唱団に参加する人もいるが、基本的には「個人の自由」として合唱は位置づけられている。特にロシア人との関係の難しさに直面しているリーガにおいて、ラトヴィア語自体のアイデンティティについて人々が懸念することは多いかもしれない。実際他のバルト三国の都市に比べて、店ではロシアのポピュラー音楽やロックのCDが数多く揃い、その棚も充実している。このような歴史と現在を背負う中では自国の言葉を発するということはとても民族的アイデンティティが強いものだが、ラトヴィアでの教育があるとはいえ、多民族という暮らしの中にある人々の混交する場ではなかなか「自国の言葉で自国の歌を皆で歌う」場が得にくいであろう。実際ロシア正教を除くキリスト系教会の礼拝は英語で行われていることがリーガではとても多かった。この場合、賛美歌ももちろん英語で歌われるのである。このように「歌をもって独立したバルト三国」と呼ばれ、「歌の国」の「歌う民」はこの複雑な多民族の行き交う場所での生活と歴史故に、合唱に対しての取り組みは人それぞれであり、幼い頃から皆興味を持つものではないことがよく分かる。ロシアとの関係の深いラトヴィア、特にリーガではこの状況が複雑故にこの傾向をとりがちであることが容易に予想できる。  2節 ラトヴィア 夏至祭  では「歌う民」である人々がその多民族の生活の状況の中で合唱する機会がそれほど多くないにも関わらず、何故「歌う民」として広く知られ、「歌の国」として世界に名高いのであろうか。行事の度に合唱がされ、歌のイベントでは他国に見られない盛り上がりを見せるアイデンティティはどこに依拠するのであろうか、触れていきたい。ラトヴィアの民謡は年中行事や家庭の風習と切っても切り離せないほど、人間の一生や生活に深く関わっており、またよく歌われている。これはバロンスによって収集されて「ダイナス」としてまとめられ、ラトヴィア音楽・文学・芸術に結びつき、民俗文化の礎ともなった。今でも収集が続いており、民俗アーカイブには120万もの民謡があるという。私はフィールドワークの際、現地の友人の従兄弟の家での夏至祭に参加した。夏至祭は623日と24日の夜を通して行われ、23日はラトヴィアでは「Līgo(リーグォ、女性の名前にあたる。LĪGOT、共に体を揺らすという意味に由来)の日」とされている。翌日の24日は「Jānis(ヤーニス、男性の名前で日本の「太郎」にあたる大衆的な名前である)の日」とされており、それぞれ家族や隣人や友人と共に田舎に集まって一年で最も昼の時間の長い日を盛大に祝う。ラトヴィアの民俗文化を知るには夏至祭に参加するのが一番良いと言われるほど、象徴的で代表的なものである。人々はJānisという名前の人の家に集まり(その日に集まる客である人々は、「Jāniの子供達」の意味であるJāņa bērniヤーニャ・ベールニと呼ばれる)、「この日に摘む花は全て良い花」とされる野の花々を摘み集める。女性はそれらで花冠を編んでかぶり、Jānisという名の男性は男性の象徴である樫の木の葉で編んだ冠をかぶる。また男女ともに先祖代々受け継がれている各地域の民族衣装を着て、チーメニュ・スィエルス(Ķīmeņu Siers、キャラウェイ入りチーズ)といった多くの種類のチーズやパン、ペストリーなどのご馳走をビールなどの酒とともに飲食し、歌い、伝統的な遊びを一晩中眠らずに行う。この夏の昼の一番長い日に眠ることはいけないこととされ、夜は焚き火をして最後に自分の花冠と樫の葉の冠を火に投げ入れる。夏至祭に焚かれる火は太陽に呼応し、太陽を長く引き留めることで人々を災いから守る願いの意味があるという。23時過ぎに沈み4時前に昇る太陽の再生を祝い、干草を集めて丸めて作った「太陽の象徴」に火をつけて川に流すという儀礼を行う。この際人々はその光景を見ながら歌っていた。またラジオでも「Līgoの日」にちなんで、「Līgo, Līgo!(この日の祝いの言葉で会う度に人々はこう掛け合う)」と歌う夏至祭の歌が終夜流される。

民族衣装をまといJānisの家に集った夏至祭の人々

ガウヤ川に流される干草で作られた「太陽の象徴」

この623日と24日は国民の休日とされており、夏至祭の日としてラトヴィア人は家族や友人達で伝統的に祝うという、非常に民族的で民俗的であるこの行事を今もなお大切にしているのである。隣国のエストニアやリトアニアでも夏至祭は行われるが、ラトヴィアの夏至祭は特に大きいとされている。エストニアやリトアニアでも家族や友人で田舎に集まって終夜焚き火をする。そして民謡を歌い、また合唱をする。一人が口ずさめば自然とハーモニーとして別のパートを周囲が歌いだす。これは学校などで昔から習ったのではなく、このような夏至祭など伝統的な行事を通し、家族や友人達の間で自然と歌われてきたものを幼い頃から接することで覚え、やがてそれが別のパートをハーモニーとして合唱できるようになるという。もちろん街中では民謡集が売られているが、実際に人々は楽譜を読んで覚えたというよりも、行事を通して集って口承で歌い継がれている方がはるかに現在も強く残っていることが窺える。「どこでこの歌は覚えたのか」という問いに「自然に覚えた」という人々の答えしか返ってこなかったことも、当然の回答なのである。このように「歌の国」の「歌う民」は伝統的な行事を家族や隣人や友人と分かち合うことで歌い合唱し、内輪同士だからこそ出来る民族のアイデンティティ共有の機会を得ている。普段の生活を多民族で分かち合ことからすればそれはごく自然なことである。だからこそ現在に至るまで行事や文化をとても大事に受け継がれ、またこれらがバルト三国の各々の民族アイデンティティ形成の機会となり、人々が歌を共有する場になっていくのだ。一方この日はバルト三国以外の人々にとってはどのような日となるのだろうか。市内は閑散とし、誰もいない寂しい都市となってしまうのだが、例えばロシア人は同じように夏至を祝う機会にするという。他国の人もラトヴィア人などの友人がいれば共に祝う機会も中にはあるようだが、ロシア人はロシア人で集まってシャシリク(肉の串焼き)を食しパーティのように振舞う、あるいはラトヴィア式を真似て取り入れることも中にはあるようである。反対に近年ラトヴィア人もシャシリクを作るなど、伝統的な要素に他国の食や要素が入り混じるようになってきているという指摘もある。東洋人である私が参加して歓迎される雰囲気はもちろん「Jāniの子供達」として受け入れる人々の寛容さにも由来していると考えられるが、他国の要素も取り入れて現代的なアレンジが加えられるようになった、もしくは他国文化に柔軟になった面があることも否めないであろう。  3節 エストニア・リトアニアの生活 ラトヴィアがバルト三国の中で最も民族問題を抱えているとすればリトアニアが一番落ち着いており、またエストニアではそれらに対する「慣れ」が生じてきているのではないかという印象を受ける。エストニアでは多様な民族の行き来がなされ、それは観光化が進んでいる影響と言っても過言ではない。もっともこのバルト三国はここ数年で急速に観光地化が進んできており、ガイドや英語表示の充実化が顕著であり、観光デスクも対応に慌ただしく、人々はかつてロシア語に慣れていたが今では英語にとって代わられているのが現状ではある。エストニアは三国の中で最も衛生的で観光地化が進んでおり、多くの人に向けてのサービスが良いという印象を受けた。多くの人々が様々な言語を流暢に話せるようになってきており、北欧や東欧からの人の流れに慣れているからか一昔に見られた人種差別的(特に東洋系への偏見があったという)な姿勢はなくなり、「迎える」側としてその生活は大きく変わっている。都市化も進み、また旅行産業もバルト海の島々を利用したエコツーリズムの影響もあって発達が大きいと思われる。今年の歌と踊りの祭典で世界中から観光客を集めたという経済効果もあったことであろう。まだ公共機関の人々の英語の不慣れさは残るものの、ホテルやお土産店などの充実化には目覚ましいものがある。IT立国エストニア」の異称も持ち併せているところから、おそらくますますIT産業の発達と人々の生活の豊かさが上がっていくことが窺える。Skype等といった世界で有名なIT機能を開発したのもエストニア人であり、現在それらの技術を用いたe-learning(オンデマンド授業)の充実化することで国外からの留学生を対象として人的・知的交流に一層活発化させる動きもここ近年の傾向として強いものがある。エストニアの国土45,227㎢の中に既に1,200箇所のWi-Fiの地点を設置しており、またeDemocracy(直接政府などに一般市民や利益団体の意思決定プロセスに参加するシステム)やe-tax (納税申告システム)、医療情報をIT化することでの管理体制もよく整えられている。情報化については公的行政サービスばかりではなく、またエストニア国民一人一人に対することに至っても行き届いていることが挙げられる。例えば国民一人一人に公的な電子メールアドレスが配布されているばかりではなく、エストニアの国民は誕生と共に個人識別の国民ID番号・国民IDカードを持つことになっている。エストニア国民以外の在留外国人にも、外国人専用の電子化された身分証明書の発行と携行が推奨されている。選挙ではこれらのIDカードを利用して投票が行えるようになっており、eVoting(インターネット投票)により国外からの投票が可能である。まさに市民・企業・公務員向けサービスや公共システムのIT化がとても充実しており、生活上のシステム全てにおいて電子化・情報化がかなり進んでいる国といえよう。これに関しては2013年までに国民75%がインターネット利用をすることを目指すビジョンが立てられており、IT立国としての勢いを見せている。エストニアはこれまで先頭に立って文学や音楽を生み出しバルト三国の中でも最も際立っていたが、現在では「ITの最先端を生み出す」国としてその位置づけを世界に発信していることが分かる。しかしながらこのような先進的な生活の中でも、エストニアの人々の伝統文化に対する意識は高いものがある。特に芸術に敏感な気質を古くから持ち続け、現代に至るまでバルト三国の中での音楽と文学の最先端にいたのはそのほとんどがエストニアであった。歌の革命もエストニアのタルトゥから始まったことを思えば、とても文化的な歴史をこれまで歩んできたのが窺える。そして現在も美術館や博物館の多様さは他のEU諸国に劣らず、またロシアなどの占領下の歴史を物語る展示物の多さや国史博物館を他二国に比べて多いことから、エストニアとしての文化を守りたい人々の気持ちがあるのであろう。歌の革命自体がタルトゥ大学の人々から起こったこともあり、「歌と踊りの祭典博物館」があるばかりではなく、多くの記念碑もタルトゥには築かれている。また歌のための野外音楽堂のステージ(歌の原)が首都タリンとタルトゥの2か所にあるのも他二国と比して印象的だが、これらからエストニア人にとって歌と共に歩んできた歴史が今でも大切にされているといえよう。エストニアの人々は伝統的な民俗文化に誇りを持ち「博物」という形で多く展示をしながらその文化を守っており、またその一方で観光地化とIT化の目覚ましい発展を受けながら現代的な生活を送っていることが推測できる。リトアニアではユダヤ系やポーランド人が少数交じるものの、カトリックという宗教が他二国と異なって広まっているからか、あるいは地理的・国の位置的なところからなのか、民族問題なども他二国に比べてあまり表面的ではない。2009年には「ヨーロッパの首都」としてリトアニアの首都ヴィリニュスが選ばれ、一年間を通じて様々な芸術的行事がなされており、街が活気付いている。リトアニアは第2章で取り上げたように千年祭も行われたので、更に人の交流が活発化しているのが顕著であった。リトアニアでも同じように観光地化は進んでいるものの、まだ人々の英語に対する不慣れな面がある。しかしながら中華料理店が多く開かれたりといういわゆる東洋的要素を受け入れたり、「ヨーロッパの首都」というイベントを受けて様々な世界中の芸術の展示など、日本を含めて行うなど他国の受け入れの多様性に富んできている。公衆衛生の体制が行き届いておらず、自殺率が世界で一番高いとマイナスの面もあるものの、民族問題がそれほど表面化していないからか、他二国ほど伝統文化を観光産業の一つとして(もしくは「観光資源」の一種として)、広く展示するような動きはあまり見られていない。エストニアとラトヴィアでは「広く伝統文化を知ってもらいたい」という意識からか、自国の文化を紹介する本が様々な言語で翻訳され、楽譜や歌集がよく書店に売られているが、リトアニアではこのようなことがほとんど見られない。これは民族のアイデンティティが低いのではなく、おそらく「カトリック」の国というキリスト教に基づく「他者の受け入れの広さ」から、それほど自国の文化を主張したがらないせいなのかもしれない。エストニアとラトヴィアではプロテスタントが浸透しているものの、古くからの自然崇拝も同数くらいを占めているが、リトアニアではおおよそカトリックが広まっているため、様々な文化に柔軟な一面もあるのであろう。とはいえ、博物館や美術館はとても充実しており、特にユダヤ人の歴史を重んじている面が強い。外交官としての杉原千畝の記念館など日本や東洋に向ける眼差しが広いことも、他二国に比べてあるのも確かである。このようなエストニアやリトアニアではどのように生活の中で歌が取り入れられているのか。これはラトヴィアに似ており、教育の場の「授業として」民謡を特に取り上げて歌うことは少なく、興味のある人は放課後に行われる合唱団に参加したりするといった具合で、これは小国という以上どの地域にも見られるようである。歌と踊りの祭典はとても大切にされ、このイベントに対しての人々の関心が高いのは第2章で述べたとおりであるが、それぞれの国の中でも「歌が盛んな地域」というものがしばしば見られる。しかし一般的に言われている「歌が盛んな地域」とはいえ、ごく一部の人による歌や合唱へのまとまりや関心が高いものであることが指摘されている。エストニアでのある島は歌や伝統文化に対する動きが活発なことで有名だが、地元の人に聞くと「実はそれほど歌に関心はない」という態度も多く見られるという。かつてアイデンティティ形成と再発見に役立った歌や合唱というものは独立後、その意味を大きく変えて人々の関心もまた変わり、「音楽を楽しむもの」としての位置づけに移行しているといえる。これはエストニアやラトヴィア、リトアニアに共通していることであり、この三国の歌と生活の接点においては大差がない。NHKの『ファーストジャパニーズ』で放映されたタルトゥの様子では人々が集って歌の練習している風景が多くあるとしていたが、人々の話からして果たしてそうなのか、大会やコンサート前だからこそ少し行われた程度でそれほど活発な流れではないのだろうか、疑問が残る。しかしながら人が集まるイベントにおいて歌が積極的に歌われる風景は、他国と異なって顕著にその一種の文化として生きている。それは第2章で述べた歌と踊りの祭典や夏至祭、千年祭といったイベントの最中もしくは後で、人々がいくつか集まって伝統的な歌を歌い、自然と合唱へとなっていく様子があちらこちらで多く見られたからである。人が集まれば民謡を歌い、もしくは何か合唱をする。歌うという文化がやはり浸透しており、自然な流れで人々が行う様子は今も昔も変わらない良き文化の一面といえよう。歌への関心が変わっていく中で、人が集まれば歌を共有する文化があることはバルト三国においての一つの特徴的な面であるかもしれない。現代生活の中でも、多かれ少なかれ人々は伝統的な文化を何らかの形で受け継いでいるのである。バルト三国は概して観光地化の流れが急速にあり、EUとして経済不況に見舞われながらも柔軟に人や文化の移動を受け入れ、その行き来に積極的になろうとしている。特に母国語やロシア語だけではもはや仕事に就けず、英語やその他ドイツ語やフランス語いったEU圏の言語や、中国語や日本語まで学習し、その就業機会を更に広げることに人々が努力していることもここ数年から10年くらいの大きな新しい流れともいえる。これによりロシア語しか話せない年配層の仕事がなくなり、英語世代である若年層が仕事やスキルを得るために留学や国外での就業を目指し、国民の流出という問題もまた大きくなってきている。反対に他国からの流入もあるため、その中で小国の文化をいかに守り、今の生活を良くしていくかということがバルト三国の現状である。 
4章 今後のラトヴィアの展望 1節 歌の祭典、合唱の行方 バルト三国では民謡が非常に盛んであり、国を愛し、自然を称える歌はラトヴィアとリトアニアだけでも50万曲に及び、またエストニアのタルトゥ大学の民俗音楽資料館には25万ページにのぼる民謡集が集成されている。フォークバンドが多く結成されており、ラトヴィアではSkyforgerという民謡や民族楽器を用いたフォークメタルバンドがいるほどである。他にも歌と踊りがよく暮らしに根付いており、夏になると毎日のようにコンサートなどがバルト三国内各地で行われている。まさにバルト三国は音楽と密接であり、また「歌の国」なのである。バルト三国において歌と踊りの祭典が盛んであり、伝統的・国民的行事であることは先に述べたとおりである。千年祭や青年によるものなどを含む歌の祭典は昔から活発に行われてきているが、これらの国民的行事のみが重視されて盛り上がっている訳ではない。その他夏至祭といった伝統的で全国的ではあるが、家族や友人単位で行われるものも多数あり(ただし博物館やレストランでイベントとして行われているものもある)、人々が民謡を分かち合う機会とその伝統的な文化が現代まで受け継がれている。戦争や独立期を経験した年配層には、自民族のアイデンティティを見出して団結する場として合唱の価値をよく知って自民族の民謡を大切にする気質があるが、独立後に生まれた世代である若年層では「歌は楽しむもの、祭典も音楽の交流として楽しむもの」として捉えてアイデンティティ形成に民謡を用いることや合唱すること自体が寄与しなくなってきており、興味の対象もまた人それぞれ大きく異なってきている。そもそも何故歌うことが行事化したり、伝統的文化としてこのバルト三国で発展したりしたのであろうか。かつてこの地域では、歌と踊りの祭典の歴史で触れたように、キリスト教信仰を深めるために人々が歌を用いていたというものがあった。他にも自民族の言語を発するという、自民族の文化を保つ方法の重要性に気付き、民族意識の高揚に結びつけたのは先に述べたとおりである。また、支配下生活という苦しい中で歌を用いて楽しみを見出し、互いにその生活の苦労を慰め合ったことも大きかったのではなかろうか。打楽器やクァクレといった日本の琴に似た楽器などはあるが、それほど楽器が独自で発展しなかった歴史を見ると「自らが楽器」となる歌が人々にとって欠かせないものになっていったのであろう。このように人々にとって大切なものであり関係の深い歌は、近代になってしばしば政治的な行為のため、あるいは民族意識高揚のために用いられることもあった。そして19世紀にはこれらが独立運動へと結びついていき、また国民的行事である歌と踊りの祭典へと発展していったのである。人々の歌の位置づけは現代では年齢層によって大きく違うが、政府関係者の間では経済的不況や小国としての政治体制維持のためか、歌と踊りの祭典の経済効果を狙う声も少なくない。多数の国民は反感を抱いているようだが、実際には子供向けアトラクションがわざわざ設置され、様々な食べ物・お土産の出店が多く敷地内に立ち並んでいる。こうした状態で多くの人々が実際にはそれらを利用して楽しんでおり、まさに「祭」としての歌と踊りの祭典に変質しつつある。そして国歌を歌い、2曲くらい聴くや否や人々の関心は「祭」の出店などに移ってしまうのであり、「歌の国」の「歌う民」の行動としてこのことは筆者にとってとても意外に思われた。このように「祭」化していることもあり、世界中からの観光客を呼び込んでツアーを多く組んでいるところを見ると、「観光」化させることで経済効果に期待をかけ、祭典の根底の意義を変える動きもあることが分かる。民俗的で国民的(民族的)な行事として民謡などを大切にしていくのか、様々な国籍・民族の聴衆が広く楽しめるようにパフォーマンス化させていくのか、現在では大きな議論の的にもなっているという。実際のところ合唱団やオーケストラのそれぞれの指揮者間でも多様な意見に分かれており、参加者全員が共通の気持ちでこの祭典に臨んでいるのではない。人々の合唱への取り組みに関しても同じことがいえ、国民全員が「歌う民」ではなく個々人の関心によって歌への取り組みが大きく分かれていることも指摘できる。また様々な民族が混在する生活であることもあって自民族の民謡などを歌う機会が限られており、またバルト三国に住む人々皆に必ずしも歌への愛着がある訳ではない。近年若年層に多くなってきているがこれがいわゆる「合唱離れ」である。占領下では独立という目標がバルト三国の民族の間で共有されていたがために合唱が大きく寄与し、また民謡などを収集・保存し、人々がそれらを知って歌うことが自民族の母国語を保つ大きな手段となっていた。複数の民族が混在する小国の中での生活で自民族のアイデンティティを保ち続ける事は人々にとって大事な事であったのである。しかし独立後のEU加盟などもあり、人の移動が激しくなってますますバルト三国は多くの民族を抱える国になった。そのような社会状況の中で自民族の文化を守るために歌の祭典を催していったが、「自民族のため、民族意識高揚のため」の行事ではなく、独立したからこそ「文化を守り、皆で音楽を楽しむため」の行事へと自然に移行していったのである。今まで自民族だけで共有していたこの歌の祭典が他民族にも開かれるようになったことで「祭」化し、そこで得られる収入や経済効果も関与するようになっていった。古き良き伝統である形式を保つばかりではなく、時代の流れにあったものも取り入れるべきだという見方もあり、ポピュラー音楽の歌手の出演や現代的な演出も好まれるようになった風潮も近年の傾向として挙げられている。このような歌や合唱への人々の概念の変化や時代の流れもあり、歌の祭典に関しても経済効果や観光化、パフォーマンス化を狙う動きに変わりつつあること、歌や合唱への関心の低下やいわゆる「合唱離れ」が増えていることに結びついているといえる。  2節 現代における言語と民族 1822年に初のラトヴィア語週刊紙「LATVIEŠU AVĪZES」が発行されたが、1885年にロシア帝国政府はラトヴィアでのロシア化政策を始め、公でのラトヴィア語を禁止した。これにより、校内などでラトヴィア語を使用した人に「今日私はラトヴィア語を話してしまった」とロシア語で書かれた「方言札」を掛けさせたこともあった。しかしその後ソビエト連邦に併合されていた中でもラトヴィアでは1988年にラトヴィア語を公用語と制定、その後には国語法が適用されるようになった。これにより自国の母国語であるラトヴィア語の保護と存続のために、公共の場ではラトヴィア語表記が義務化されたことは先に述べたとおりである。他民族の人々はラトヴィアにおける市民権を得るため、ラトヴィア語・歴史・憲法の勉強をして試験に合格しなくてはならず、そのための職業別のラトヴィア語教科書が書店に並んでいるほどである。エストニアやリトアニアではそのような光景は見られないが、公共機関と広告やテレビなどのメディアでは主にそれぞれの母国語で表示されている。最近では観光化が進んだ影響もあって時々観光客向けの英語表示が見受けられるが、小国においての自国の言語を守るべく、自民族の言語に対する人々の意識は高い。これまで指摘してきたように民謡を知ることや歌い合唱することは、自民族の文化とアイデンティティの共有の手段としてバルト三国の人々にとって大きな意義があった。しかしながらますます多様化する民族構成の中で、母国語はありながらも英語などの言語を重んじる傾向に現代は変わりつつある。英語やフランス語といった他の欧米言語や多くの言語を話せることは就労機会の多様化、生活向上の必須の条件となる。ラトヴィア人の友人の話に寄れば5ヶ国語話せるくらいではないと「生活できない、生きていけない」と話す。もはやロシア語だけで生活ができたソビエト連邦時代の名残は消え失せ、EU圏の一つの国として政治的にも経済的にも多く影響を受けているため、人々も新しい流れに対応していかねばならない。リトアニア人の友人の母親は、ロシア語しか話せないが故に教師の職を解雇されたという。このように多くの年配者が職を失い、社会主義体制のもとにあった「最低の生活の保障」がなくなったことが彼らにとって大きな打撃となっている。資本主義への移行による経済の影響やEUに加盟を受けての物価上昇が、年齢層問わず多くの人々を苦しめている。以上のことから多民族社会のバルト三国では、人々が生活を営むために苦労をしておりまた必死であることが分かる。生活の手段、職を得るスキルとしての言語の役目が大きくなり、留学や移住などを通じて母国語以外の言語習得を目指す活動が活発化している。またエストニアやリトアニアでも同じく他の言語をより多く習得することが生活向上の条件となっているのは変わらない。多言語・多民族社会におけるこれらの問題は、自国の文化・言語を守りたいが、生きる手段としての他言語習得が迫られている現状故に非常に深刻である。多様化する民族構成を受ける中で歌の祭典や夏至祭等といったバルト三国の民俗的・国民的行事を行うことにより、バルト三国の人々が他民族への差別感や、反対に他民族が感じ得る疎外感というのは多少否めないものがあるであろう。もちろん他民族もこの行事は知っており、それなりに「コンサート」「イベント」として楽しむかもしれないが、バルト三国の人々が持つアイデンティティに同調することはまずあり得ない。そして国民的行事に盛り上がる人々を見て「我々は違うから」といったスタンスがある。若年層でも、バルト三国の文化などに一歩距離を置いた姿勢や「我々は他民族の出身であるから、バルト三国の民族の行事は我々の文化ではないし、またバルト三国の民俗文化については詳しく知らない」と言って拒否をすることもあるという。実際にラトヴィアから派遣された訪日代表の若者達はロシア系の人々だったため、ラトヴィアの文化について質問したところ、「我々はロシア系だからラトヴィア文化や民謡についてはよく分からない」と話し彼らは回答をすることがなかった。現代における言語や民族の問題は、EU加盟国という性質上ますます人の移動が活発化した影響を受けてより複雑化していることがいえる。今後多民族の混交する小国の文化保護に対してどのように対処していくべきか、その難しさが表面化してきているのである。  3節 世界と「歌の国」  他の国々に比べて歌と踊りの祭典などの国民的な歌や合唱の行事が多くあり、民謡や合唱がバルト三国の人々の生活に根ざしているところなどから「歌の国」、またバルト三国民族の人々は「歌う民」として今では全世界で広く知られるようになった。このように合唱が盛んなバルト三国を代表する合唱団がラトヴィアではAVE SOLDzintars、エストニアではエレルヘイン女声合唱団などであり、現在世界中で活躍している。2003年にユネスコの無形遺産に歌と踊りの祭典が登録されたことも受けて、今後も「歌の国」として世界へ発信していく活動が活発化していくことであろう。 しかしながらこれまで述べてきたように、必ずしもバルト三国は歌と合唱に溢れた「歌の国」ではない。これは複雑化・多様化する民族構成を受け、現代の問題として民族と言語の問題が大きなものとなっていることはまず指摘したい。次に若年層の「合唱離れ」や合唱の取り組みに対しては個々人の関心に寄ってしまっていること、また歌の祭典が観光資源としてみなす動きさえも今ではあることを、我々は知らねばならないであろう。EUNATOの加盟国として主眼をロシアから欧州へ体制を移行させ、また世界へとその活動範囲を広げているバルト三国は、観光などの手段を多く用いながら更に世界への認知度を上げようと現在必死に試みている途上なのだ。これは三国共通して見られた観光地として英語表示が一気に増えたことやお土産店の充実化が進んでいること、またラトヴィアやエストニアで見られた書店での自国文化紹介の様々な翻訳本の数々が出回るようになったことなどからも窺える。 近年バルト地域やアメリカではバルト研究(the Baltic Studies)という分野が開かれており、学術的な対象にもなっている。また日本でもバルト三国との交流事業や、今年初めて直行便が期間限定で運航するなどの観光事業が以前より活発になってきている。バルト三国の合唱団が世界で活躍するようになり、観光地としてバルト三国が知られていくようになっている今日だが、その分流入する他民族や流出する自国民の問題や、言語と自民族の伝統的な民俗文化の保護が更に大きな深刻な問題となりえてきている。歌と合唱の文化を自国の文化として守りながら発信していき、そして一方で増加している多様な人の流れにどう対応するのか、今後バルト三国は「歌の国」としてそれぞれ慎重に取り組んでいかねばならない。現在歌の祭典などが世界中からの聴衆や他民族にも分かち合えるようにパフォーマンス化していっている面や、経済効果の期待をかけて催し「観光」化させている面も近年の傾向としてある。しかしながらその中でも古くから基盤とされてきた民族アイデンティティ形成・共有の場としての歌の祭典を存続する動きや、民族アイデンティティそのものである伝統的行事である夏至祭などを受け継いでいく気質はまだあり続けているといえよう。これからもバルト三国の人々が「バルト三国民族」のアイデンティティや誇りとして、これらを守り続け受け継いでいって欲しいものである。
終章 まとめ
  この卒業論文ではバルト三国の人々が歌や合唱をすることにいかに接しているのか、特にラトヴィアでの生活や文化などを取り上げて言語や民族の問題などを考慮しながら現状を述べていった。バルト三国の人々にとってその歴史から、歌や合唱が民族のアイデンティティ形成に大きな役割を果たしていったことは明白な事実といえよう。独立後の現在ではこういった意味合いが薄れてきており、歌の祭典の経済効果を狙う動きや若年層の「合唱離れ」も見られるようになってきている。多民族が混交する場であるが故に自民族のみで集まって民謡を歌うような場を設けたり、あるいはそれを他の民族集団に誇示したりすることは控えられているが、夏至祭などの家族や友人、隣人の間で行われる伝統的・民俗文化的な行事を通して、その文化を大切に受け継いでいることは極めて重要である。人々は多民族・多言語の生活という面から社会的に複雑な問題を抱えている故、公共の場では人々の歌や合唱への動きを歌の祭典など以外に見かけることは少ない。しかし家族や友人などのコミュニティの中で先祖代々その文化は未だに継がれており、これは自民族の結束の強さや確固としたアイデンティティを象徴するものであることが分かる。これはラトヴィアをはじめ、エストニアやリトアニアでも見られる動きであった。その一方で、バルトの人々が歌の祭典や民俗的行事などで集い盛り上がる動きは、他民族に疎外感を感じさせ、他民族への差別意識を助長させてしまうこともある。今後の展望としてバルト三国の人々は、多民族・多言語の状態で人々が生活し人々が激しく移動している社会状況の下で、どのようにして自民族の文化を守っていくのかを模索する必要がある。これは観光資源化しつつある歌と踊りの祭典についても同様のことが指摘できる。しかしながら歌と踊りの祭典を通して、音楽という性質上「民族間の壁を越えることが出来る」、あるいは「普段における生活の格差から人々が解放されて楽しむことが出来る」という声も、実際には多く上がっていることも前に述べ挙げた。多民族の中で共有される歌と合唱があるということを、我々は覚えておかねばならない。以上がこの論文においての考察のまとめである。 私はラトヴィアの夏至祭、エストニアの歌と踊りの祭典、リトアニアの千年祭歌と踊りの祭典、ラトヴィアにて開催されたBalticaに参加したり見て回ったりした。またその歴史と現代を知るべく、博物館や記念物のある様々な施設や場所に行き、昔と現代の生活を見るように心がけた。このようにして24日間フィールドワークをしたが、この際現地の友人をはじめ、国内外多くの方々の協力を得た。特に現地の友人であるラトヴィア人のUģis Nastevičs、リトアニア人のVilmaには滞在期間ほとんど付きっきりで私に民俗文化や現代における生活を丁寧に教えてくれ、また多くの場所を案内してくれた。1年生の頃からバルト三国研究をしたいという私の気持ちに理解を示し指導してくださった栗田和明先生、現地の情報を提供してくださった昭和女子大学の志摩園子先生、在ラトヴィア大使館の菅野開史朗氏、またラトヴィアでの情報を得る機会を与えて下さった『ラトヴィアの蒼い風』他著者の黒沢歩さん、在日ラトヴィア大使館のOļegs Orlovs氏、日本ラトビア音楽協会、そして歌と踊りの祭典など多くの現地情報を翻訳とともに資料提供してくださった東京外国語大学後期博士課程の堀口大樹氏に重ねて感謝の意を示したい。 首都リーガ以外に中世の歴史を物語るルンダーレや港町リエパーヤ(以上ラトヴィア)、中世の城の残るトゥラカイ(リトアニア)なども訪ねたが、その文化と歴史に今回触れることが出来ず、また多くのことを学び体験した故に書ききれず、まとまりに欠いてしまったことがこの論文における反省点である。今回は歌と合唱に焦点を当てて書いたが、民族や言語といった社会状況も加味しなくてはならない大きな問題であったため、文化についてもう少し触れておきたかった。「文化人類学」としての視点から更に民俗文化と社会を多様に見ていきたいという今後の関心もあるため、これからの研究テーマとしてバルト三国の民俗文化と人々について、歌に限らず多く言及していきたい。バルト三国の人々は日本におけるアイヌ民族によく似た概念を持っており、自然との共生を考えた生活様式や模様などに重要な世界観を見出している。これらの影響からか現代でもそのデザインに優れ、また活きている点は非常に興味深い。この卒業論文ではそれらについては割愛してしまったため、これからフィールドワークを重ね、民俗文化について明らかにしていきたいと考える。今回英語と日本語でのやり取りがほとんどであったが、現地の母国語や第1外国語(現代では第2外国語かもしれないが)であるロシア語を用いることができるよう勉強して、より人々の多くの声を集められるよう努力したい。 
参考文献・参資料目録 <書籍>ヴァルダス=アダムクス著、村田郁夫訳『リトアニアわが運命―時代・事件・人物―』、未知谷、2002年。石戸谷滋『民族の運命―エストニア独ソ二大国のはざまで―』、草思社、1992年。伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』、出川出版社、1998年。G.=ヴェルナツキー著、松木栄三訳『東西ロシアの黎明―モスクワ公国とリトアニア公国―』、風行社、1991年。ユオザス=ウルブシス著、村田陽一訳『回想録リトアニア―厳しい試練の年月―』、新日本出版社、1991年。大中真『エストニア国家の形成』、彩流社、2003年。小野寺百合子『バルト海のほとりの人びと―心の交流をもとめて―』、新評論、1998年。外務省委託研究報告書『旧ソ連の地域別研究』、日本国際問題研究所、1993年。川野辺敏編『旧ソ連・東ヨーロッパ・北ヨーロッパ諸国の社会・教育・生活と文化』、エムティ出版、1994年。川端香男里 ほか監修『ロシアを知る事典』、平凡社、2004年。木村英亮訳『ロシア・北ユーラシア』、朝倉書店、1998年。黒沢歩『木漏れ日のラトヴィア』、新評論、2004年。   『ラトヴィアの蒼い風―清楚な魅力のあふれる国―』、新評論、2007年。小森宏美『エストニアの政治と歴史認識』、三元社、2009年。小森宏美・橋本伸也『バルト諸国の歴史と現在』、ユーラシア・ブックレットNO.37、東洋書店、2002年。佐藤優『自壊する帝国』、新潮社、2006年。志摩園子『物語バルト三国の歴史』、中公新書、中央公論新社、2004年。鈴木徹『バルト三国史』、東海大学出版会、2000年。地球の歩き方編集室『地球の歩き方0708 バルトの国々』、ダイヤモンド・ビック社、2007年。津村喬『歌いながらの革命―現地緊急報告 クレムリンを揺がす小国エストニアの闘い―』、 JICC出版局、1989年。西嶋有厚『切手でみるユーラシア諸国とその歴史』、東洋書店、2001年。野田正彰『国家に病む人びと:病理精神学者が見た北朝鮮、バルト、ガリシアほか』、中央公論新社、2000年。畑中幸子『リトアニア―小国はいかに生き抜いたか― NHKブックス』、日本放送出版会、1996年。畑中幸子・ヴィルギリウス=チェバイティス『リトアニア―民族の苦悩と栄光―』、中央公論新社、2006年。羽場久美子・小森田秋夫・田中素香編『ヨーロッパの東方拡大』、岩波書店、2006年。林忠行編『バルトとバルカンの地域認識の変容』、北海道大学スラブ研究センター、2006年。原翔『バルト三国歴史紀行 Ⅰエストニア』、彩流社、2007年。『バルト三国歴史紀行 Ⅱラトヴィア』、彩流社、2007年。『バルト三国歴史紀行 Ⅲリトアニア』、彩流社、2007年。ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編『ロシア・北/東ヨーロッパ』、同朋舎出版、1992年。芳賀日出男『ヨーロッパ古層の異人たち:祝祭と信仰』、東京書籍、2003年。マーラ=シリニャ著、黒沢歩訳『リーガ 数世紀をたどる旅』、Preses Nams2002年。前田陽二・内田道久『IT立国エストニア―バルトの新しい風―』、慧文社、2008年。麻里『琥珀の国から:リトアニア便り』、新風舎、1997年。百瀬宏・志摩園子・大島美穂『環バルト海―地域協力のゆくえ』、岩波新書、岩波書店、1995年。山本茂・松村智明・宮田省一『ヨーロッパ・旧ソ連』、大月書店、1994年。吉野悦夫『複数民族社会の微視的制度分析:リトアニアにおけるミクロストーリア研究』、北海道大学図書刊行会、2000年。パスカル=ロロ著、磯見辰典訳『バルト三国』、白水社、1991年。Dreifeids, J., Latvia in Transition, Cambridge Univ. 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Dievsētas ļaudis』、Lauska & Piemares draudze2007年。ĪSĀKĀS NAKTS DZIESMAS』、Plartforma Music2009年。LAULUPIDUDE AARDED』、FORTE RECORD COMPANY2005年。  <TV>『関口知宏のファーストジャパニーズ』NHK2008年。『世界遺産への招待状 リトアニア』NHK2009年。  <DVD>DZIESMA IR SPĒKS!』、BRAINSTORM RECORDS2008年。 『私のラトビア』、3212004年。  <その他>Uģis Nastevičs(ラトヴィア)、Vilma(リトアニア)、昭和女子大学の志摩園子先生、『ラトヴィアの蒼い風』他著者の黒沢歩さん、東京外国語大学後期博士課程の堀口大樹氏、在ラトヴィア大使館の菅野開史朗氏、在日ラトヴィア大使館のOļegs Orlovs氏、日本ラトビア音楽協会の協力と情報を得た。
 
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