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【8月3日】人間の鎖から20年「壁があるところには道がある」 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2009/08/03 月曜日 21:21:35 JST

 今年はバルト諸国にとって、歴史に残る「バルトの道」から20周年を迎える記念すべき年。元駐米ラトビア大使で、現ラトビア・インスティトゥート局長、オヤルス・カルニンシュ氏の特別原稿を掲載します。これはラトビア大使館の提供によるものです。Latvija編集室】

 

「バルトの道」自由を求め、3国を超えてつながった人間の鎖

 オヤルス・カルニンシュ

(ラトビア・インスティトゥート局長・元駐米ラトビア共和国大使) 

  冷戦末期の1989年。世界にはひとつの壁と、ひとつの道があった。ひとつは取り壊され、ひとつは新たに生まれ、そして冷戦は終焉を迎えた。有刺鉄線とコンクリートで建設されたベルリンの壁は、冷戦時代のドイツを東西に分断した。その影響は地理的な側面にとどまらず、壁はチャーチルの「鉄のカーテン」(1946年)を正に象徴する存在でもあった。

 1987年に、ロナルド・レーガンはベルリンを訪れ、ゴルバチョフに壁の取り壊しを要求した。しかしゴルバチョフがその要求に応じる前に、1989年にドイツ市民自らの手で壁は取り壊された。1989年は世界情勢が著しく変化した年であったが、なかでもベルリンの壁崩壊は冷戦時代の終わりを象徴する大きな出来事であった。一方で、ベルリンの壁崩壊から2ヶ月遡った1989823日。分厚い鉄のカーテンに覆われた先では、200万人のラトビア人、リトアニア人、エストニア人が手をつなぎ3 国を結び、国家の独立を求めて大規模なデモンストレーションを展開していた。エストニア・タリンから、ラトビア・リガを通り、リトアニア・ヴィリニュスまで続く600km以上の人間の鎖は、「バルトの道」と呼ばれた。ベルリンの壁と同様に、このバルトの道はソビエト連邦の存続に重大な変化をもたらした。198911月に起きたベルリンの壁崩壊は、鉄のカーテンの終結を現実のものとした。そして、中央・東ヨーロッパ諸国に対するソ連の影響力は後退した。

 1968年を記憶している者にとって、1989年程、喜ばしい年はないであろう。ポーランドでは労働組合「連帯」が国政選挙で勝利を収め、ハンガリーは民主主義共和国として再宣言をし、東ドイツでは共産主義政権が退陣した。更にルーマニアでは独裁者ニコラエ・チャウシェスクが失脚し、チェコスロバキアではビロード革命の後、ヴァーツラフ・ハヴェルが大統領として選出された。これらの一連の出来事が全てたった1年の間に起こったのである。ベルリンの壁崩壊が、ヨーロッパにおけるソ連衛星国の終わりを告げるものであるとすれば、ラトビアリトアニア、エストニアで展開されたバルトの道は、ソ連圏内における同国支配の終焉の始まりを告げるものであった。当時、スターリンからゴルバチョフ政権に至るまで、ソ連に対する抵抗はいかなるものでも許されないと考えられていた。その考えは、19892月にグルジアのトビリシでソ連軍により20人のデモ参加者が殺されたことからも、間違っていないように思えた。しかしそれから半年後、200 万人のバルト人がソ連当局に楯突き、正式な許可を得ないまま、未だかつてない平和的デモンストレーションを展開した際、当局は実力行使に至らなかった。これには、非暴力主義者のガンディーも感心したことであろう。

 モスクワはバルト人による大規模なデモ行為を糾弾した。その後の2年間で、ソ連の実力行使により、ヴィリニュスとリガで死傷者を出したが、この時点で独立に向けた運動は誰にも止められないものとなっていた。19918月、歴史的なバルトの道からたった2 年後、バルト3 国は主権を取り戻し、独立国家として世間から認められた。本年は、この波乱の1989年から20周年にあたる。

 BBCCNN などあらゆるメディアや国際団体により、改めてこの激動の一年が振り返られることであろう。専門家は歴史の転換点について語り、歴史家は運命の皮肉さについて言及するかもしれない。バルトの道が展開された1989823日とは、独ソ不可侵条約の締結から50周年にあたる日であった。この条約にはスターリンとヒトラーによる、かの有名な秘密議定書が含まれており、後にラトビア、リトアニア、エストニアの併合およびヨーロッパを分断することになる、鉄のカーテンを引く青写真となった。19898月、バルトの人々は彼らを覆うソ連のカーテンを取り払うべく行動を起こした。続く11月、ドイツの人々は彼らの国を分断する壁を取り壊した。バルトの道は、ベルリンの壁崩壊に続く道としても役割を果たしたのだ。

 ベビーブーム時代に生まれ、冷戦時代を生きた私達の世代にとって、1989年に起こった一連の出来事とその結末は予想できないものであった。特にラトビアから離れ、ワシントン、ロンドン、ブリュッセルなどで勤務していた者にとってはそうであろう。しかし、リガ、プラハ、ブダペストあるいはベルリンなど現地で生活していた人々にとっては、既に変革の時であったのだ。冷戦とその終焉を体験した者は、それぞれ異なる記憶をもっているであろう。私の場合は、いまだ鮮烈なイメージが記憶に残っている。1989年、私達は壁があるところには、必ず道があると証明した。ラトビア、リトアニア、エストニアは、バルトの道をユネスコ世界記録遺産に登録すべく必要書類を提出している。全ての記録、資料はwww.balticway.net で閲覧可能である。 

最終更新日 ( 2009/08/15 土曜日 20:24:50 JST )
 
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