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心底ラトビアという国に惚れ込んでしまいました
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藤 井 威(副会長)
(3月4日・キワニス例会講演抄録) |
3年間ストックホルムに住みスウェーデン大使でしたが、ラトビア大使兼務でした。ストックホルムからラトビアの首都リーガまで飛行機で45分ですが、これほど遠い国はありませんでした。ソ連の頚木の下で呻吟していた時代、バルト海はまさに鉄のカーテンでした。そういう状態から1991年に独立し、発展途上国ではありますが、その喜び方、自分達の文化を守り通したという自負は大変なものでした。心底ラトビアという国にほれ込んでしまいました。キワニスでも一度スウェーデンの話をさせていただきましたが、ラトビアの話を頼まれたのは初めてです。新興国の意気込み、活気、エネルギーを受け止めていただければ幸いです。エストニア、ラトビア、リトアニアがバルト三国です。1991年にソ連邦が解体し、この三カ国が独立を達成しました。三カ国の真ん中がエラトビアで、バルト海を挟んで対岸のロスラータ地方に大使公邸があります。ラトビアに関して読むに値する本は私の意見では2冊しかありません。それは私の「スウェーデン・スペシャル?ラトヴィアという国」と、スウェーデン大使だったときの私の部下の黒沢歩さんが書いた「木漏れ日のラトヴィア」の2冊です。彼女はラトビアと日本語の同時通訳が出来る唯一の日本人だと思います。
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ラトビアは紀元前20世紀頃、インド・ヨーロッパ語族に属するバルト語系の言語を持つバルト族が移住、バルト海沿岸に広く分布します。現在バルト語系を話す民族はラトビアとリトアニアの2つしかありません。その他のバルト語系の派生言語はありましたが、全部他のインド・ヨーロッパ語族、つまりゲルマン系のドイツ語、北欧系のスウェーデン語、スラブ語(ロシア語とポーランド語)に負けてしまいました。消えていった中でラトビア語とリトアニア語だけが生き残ったと考えられます。
ラトビアが歴史に登場するのは900年頃で、バルト地域全域に多数の部族国家が成立します。キリスト教渡来以前です。1201年にダウガヴァ河の河口、現在リーガがあるところにブレーメン司教アルベルトがキリスト教を布教するために上陸したことから本当の歴史が始まります。帯剣騎士団というドイツ系の騎士団を連れて来ました。一種のドイツ民族の植民です。結局、その後裔であるチュートン騎士団のバルト支配が始まります。
1282年に騎士団の本拠地であったリーガ市がハンザ同盟に加盟し、自由商業都市として発展します。田舎はドイツ騎士団の大地主の政治が行われ、ラトビア人は全部小作人、リーガ市はドイツ系の商人が支配する自由都市でした。1558年ロシア・イヴァン皇帝の侵攻、1629年スウェーデン・パーサ王朝の支配、1700年にロシアとスウェーデン間でバルトの覇権をめぐって戦争が始まり、スウェーデンが完敗します。この勝利によってロシアのピョートルは大帝になります。1915年第一次世界大戦、1917年ロシアで革命が起き、その混乱に乗じてラトビアは独立します。なんと1918年までラトビア人は国を作ったことがありません。一回も国を作ったことがないのにラトビア人であり、ラトビア語を保存しました。
しかし、この独立はわずか20年しか続きませんでした。1939年ヒトラーとスターリンの闇取引でラトビアから北はフィンランドに至るまでロシア領、ポーランドとリトアニアはドイツ領という分割協定が結ばれます。その後ヒトラーがポーランドに攻め込んで第二次世界大戦が始まります。ロシアはラトビア、エストニア、フィンランドに攻め込み、ラトビア、エストニアはロシアに占領されます。その後は悲劇としか言いようのない抑制と圧制の下で呻吟するという歴史です。1991年ソ連が崩壊して独立を遂げたときの気持ちは我々にはわかりません。当事者しかわからないほどひどい政治の下に置かれました。
リーガ市内聖ペーター寺院(13世紀創建)のタワー頂上の展望台から旧市内を俯瞰すると、ハンザ同盟都市の佇まいが偲ばれます。ダウガヴァ河の橋のたもとにドイツ騎士団が本拠地としたリーガ城があります。現在では大統領官邸になっています。1997年リーガ旧市街を中心とする歴史的地域がユネスコの世界遺産に指定されました。
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ラトビアはゼムガレ、クレゼメ、ラトガレ、ヴィゼメの4つの州で構成され、ラトビア語も少しずつ違います。1200?1900年の700年間一度も国を作れなかったため、4つの地方が別々の歴史をたどりました。例えば、ヴィゼメはスウェーデンの支配を受け、ラトガレはポーランドの支配を受けました。従って、クルゼメとラトガレの人々が同じ言語を話しているという認識はありませんでした。ラトビア族という民族としての意識が全然ない状態が延々と続きました。ラトビア語、リトアニア語はインド・ヨーロッパ語族と言われながら、ロシア語、ドイツ語、英語と全く違います。人口240万のうちラトビア人は現在60パーセントに過ぎず、ラトビア語を話す人は150万人です。その人達がこの言葉を700年間守り通しました。“我々は語学の天才だ”と何度も私に言いました。“ドイツ語、スラブ語などはインド・ヨーロッパ語の変化した姿であり、インド・ヨーロッパ語の最も古い形、本来の言葉に一番近いのは我々の言葉である”と言っていました。ラトビア語とリトアニア語はサンスクリット語に非常に類似しています。
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ラトビア語は独特の旋律、リズム、フィーリングを持っています。それがラトビアの各地にダイナという民謡を生んだ最大の理由です。4つの地方が別々の歴史を辿りましたが、ダイナという民謡だけがこの4つの地方にありました。これが19世紀に入り、民族運動に結びつく一つの大きな要因でした。それを最初に主導した人はクリッシュ・ヤーニス・バーロンスという人で、1800年代の終わりにラトビア全土からダイナの収集を始め、20万曲のダイナを集め、科学アカデミーに自分で作った手作りのキャビネットの中に保存しました。現在は120万曲に増えています。現代作曲家が作ったダイナを含めると、400万曲あると言われています。音楽という一つの芸術に民族の誇りをかけ、民族統合のシンボルになっていきました。1873年に第1回歌と踊りの祭典がリーガ市の郊外で開かれました。民族衣装を着て、それぞれのダイナを持って合唱団が集まりました。その時提示されたのが「神よラトビアを讃えたまえ」です。これが1918年に独立したときに国家になります。しかし、モスクワのツァー政府はこの歌を禁止します。その代わりにラトビア人が歌ったのが「風よ吹け」という歌です。これは飲んだくれの歌です。何で飲んだくれの歌が国家の代りになったかわからないと、ラトビアという国はわかりません。これは圧制と抑制から抜け出したいという希望の歌です。酔っ払いの歌とは似ても似つかない荘重な叙情的な歌です。
1991年に独立した後、有力政治家のライモンズ・パウルズが作詞・作曲した「マーラーが与えた人生」は、薄幸をものともせずに力強く前向きに生きよとする娘の歌です。マーラは豊穣の女神です。これを加藤登紀子は「百万本のバラ」という題に変えてしまいました。全く意味が違います。
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民族としてこれほどの不幸は珍しいと言われる時代を経て、1985年ゴルバチョフが登場して少し明かりが見えてきます。1989年8月23日、バルト三国をソ連占領に導いたモロトフ・ルッペルドロップ協定署名50周年記念日に、運命に対する世界の注目を集めることを目的として、バルト三国人民200万人が手をつないで「人間の鎖」を作り、この鎖はタリン(エストニアの首都)からリーガへ、そしてヴィリニウス(リトアニアの首都)へ500キロメートルにわたってつながった。この鎖は、バルト三国独立の願望を象徴的に示したのである。
この鎖に参加したあるラトビア人は私に次のように語った。「600キロメートルの人間の鎖がつながったとき、どこからともなく『神よ、ラトビアに恵みあれ』(ラトビア独立時代の国歌)の歌声が沸き起こった。全ての人々が歌いながら泣いていた。歌声は途切れることなく、ダイナからダイナへと引き継がれた。人類史上初めて一民族の民謡が独立を世界に訴え、そして人類史上初めて民衆の歌声が一民族を独立に導いたのである。この時点で、“風が吹いた、歌声が風を吹かせた”と彼は言っているのです。結局、歌う革命になりました。
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1991年に独立し、1993年に第22回歌と踊りの祭典が行われます。その時はまだソ連の支配の名残りが色濃く残っていました。このときに北海道合唱団が参加しています。これはまさに独立と自由を謳歌する歓びの祭典であったと言われています。5年後の1998年に歌と踊りの祭典が開かれ、早稲田大学グリークラブOBでつくる稲門グリークラブが参加しました。4万人の大合唱がリーガ郊外の森に響きました。各地から集まったダイナの合唱団がそれぞれ自慢の民族衣装に身を包み、リーガ市内を大行進します。これは一見の価値があります。やはり自由は良いなと痛感します。
ラトビアは音楽をシンボル化するという世界で例のない民族だと思います。ラトビアの音楽の特徴は天才的なほど音程がしっかりしています。リズム感が素晴らしく、声が透明です。ダイナの合唱曲を聴くとあまりにも清潔すぎて面白味がないが、じっくり聴くとこれほど音楽的に高度の技術を駆使している合唱団はそうはいません。それが認められえて、ラトビア音楽はずいぶん日本に上陸しています。
1997年に北海道東川町ラトビア交流協会はスクリデ・ファミリーを招聘しています。その中のバイバ・スクリデはベルギー・エリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝し、日本音楽財団からストラディヴァリウス(バギンス1708年製)を賞与されています。その関係でバイバ・スクリデはピアノのラウマを連れて日本に終始来ています。
稲門グリークラブは1993年にリーガ市大ギルト館で女声合唱段のジンタルスと協演しています。ジンタルスはラトビアを代表する女声合唱団で非常に透明な声を出します。
その後数回来日しています。
リーガ大聖堂少年合唱団はウィーン少年合唱団と似た組織で、音楽の才能ある少年達を集めて学校で音楽を教えながら、合唱団として訓練しています。3回来日しています。
けいこ・マクナマラはジャズのピアニストで、ラトビアで慈善活動をしています。彼女は「ラトビアのメロディの中に“お経”のフィーリングを感じました」と言っていました。サンスクリット語ですから、音楽家の耳にはそういう痕跡が残ったのだと思います。
日本ラトビア音楽協会は先ほどご紹介がありましたように2004年に発足しました。会長は私の二代前のラトビア大使の熊谷さんです。副会長は私とオペラの重鎮・岡村さんです。ラトビア大好き男達、音楽が大好きな人達、ラトビアと関係のある芸術家達が年間5000円ずつ払って集まっています。ラトビア音楽をもっと聴いてみたいという方がいらしたら、ぜひ日本ラトビア音楽協会にご参加ください。
(ふじい・たけし=前・駐スウェーデン・ラトビア大使)
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