日本ラトビア音楽協会の会長をお引き受けして

2004年9月25日
会長
熊 谷 直 博


 
ベルリンの壁が崩壊してソ連体制が崩壊し始めたのは1989年。バルト三国で「人間の鎖」と言う歴史的出来事があったのがその年の11月です。ソ連の桎梏からバルト三国が開放される時代の流れが始まっていました。1990年のリトアニアの独立に2年遅れて、1991年8月にはエストニア、ラトビアが相次いで独立を宣言しました。同年9月にはソ連が3国の独立を承認し、さらに3国の国連加盟が認められました。私が熱暑のナイロビから極寒のスウェーデンに転勤し、ラトビア大使を兼任する事となったのは、こんな時代の真っ只中の1991年11月の事でした。スウェーデン国王に御信任状の捧呈を済ませると直ぐ、ノーベル賞創設90周年の記念式典に遭遇しました。生存している全てのノーベル賞受賞者が世界中から参列しました(日本からは、福井謙一、江崎玲於奈、利根川進の3氏がご夫妻で参列)。国を挙げてのお祝いでした。新任の日本大使の出番もあり、夫妻で祝賀舞踏会などに参加しました。スウェーデンでこんなお祭り騒ぎの雰囲気にあった頃、海の向こうのラトビアでは、国の建て直しも去る事ながら、残留旧ソ連軍の撤退要求問題を始め、産みの苦しみの真っ最中でありました。首都リーガでの独立記念祝賀式典が催されたのは翌1992年の春で、雪解け間もない頃の事でした。天皇陛下の御信任状をウルマニス初代ラトビア大統領に対して提出し、初代日本大使としてこれに参列しました。

 私のラトビアとの繋がりは、大使在任中に何度かリーガでの行事に参列のため訪れ、独立のための努力を観察する事が主であり、大使として主たる任地だったスウェーデンで「日瑞議員連盟」を創設するなど、そちらの方により多くの精力を注いでいたように思います。2年半のスウェーデン在勤の終わり頃(1994年春)、東京の迎賓館長が倒れられ、その後任として私に白羽の矢が立ちました。急遽帰国、迎賓館長になった次第です。迎賓館長時代の4年間、世界各国から日本に訪れる国賓・公賓の接遇に忙しく立ち回りながら時が経過しラトビアの事を半ば忘れていたある日、早稲田大学グリークラブOBの「稲門グリークラブ」の加藤さんから、「ラトビアの女声合唱団ジンタルスの東京公演を迎える名誉会長になって呉れないか」とのお誘いがあったのです。私は大学時代と外務省時代に合唱グループに所属していて合唱には関わりがあった事もあり「良いですよ」と言ってお引き受けしたのです。その2年後、今度は「稲門グリークラブがラトビアの合唱祭に参加するので名誉団長を引き受けて呉れないか」と、同じ加藤さんのお話がありこれもお引き受けしたのです。70人の団員の方達とご一緒にウィーン、リーガでの合唱に私自身も参加させて頂き、本当に楽しい旅行をさせて貰ったのです。それが今回、私が、「合唱の力でソ連からの独立を成し遂げたと言う、言わば合唱の国ラトビアとの関わり合いを持てる事を無上の光栄に思います」と言う事で日本ラトビア音楽協会の会長をお引き受けする事となった発端と経緯のあらましです。

 さて、お引き受けする事となった以上、できる事があれば何でもしたいとの気持ちです。何ができるか判りませんが何でも致しますので、宜しくお引き回し下さい。




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