【6月7日】大塚元ラトビア大使(当協会常務理事)、神戸新聞に随想連載
作者 webmaster   
2020/06/07 日曜日 22:54:24 JST

 

大塚清一郎元ラトビア大使(当協会常務理事)が神戸新聞夕刊「随想」欄に月2回素晴らしいコラム連載を始められました。神戸新聞文化部より「転載」を了解いただきましたので、当サイトご愛読の皆さんにご紹介します。大塚さんならではの素晴らしく蘊蓄に富んだ楽しい内容です。元新聞社編集委員だった編集子は、この時期にこんなユニークな連載を企画された神戸新聞に深く敬意を表したい気持ちです。一気に読めます。この時期に相応しいユーモアに溢れた玉筆です。(編集室)

 

《老宰相のユーモア》 5月27日付け夕刊      大塚清一郎 

かれこれ半世紀以上も前の実話。昭和41年外務省入省の同期生が大磯の吉田茂邸に昼食に招かれました。その大ニュースを耳にして、24人の若き「外交官の卵たち」は、期待に胸をときめかせたものです。

 6月某日。黒い羽織姿、手にステッキ、フチなしの丸メガネ、例の太い葉巻。86歳の元総理は、上機嫌でした。やがて邸内で昼食会。

 「総理、私はインドネシア語を勉強しております」 自己紹介で、同期生の一人が言うと、「そうかね。ワシはインドネシアに良い友人が一人いるよ。スカルノって名前だがね」と吉田さん。

スカルノ大統領訪日の際、戦争関連で対日賠償の問題を持ち出すかもしれない。吉田さんは作戦を練って、こう話したそうです。

 「大統領、この度のご訪日を心から歓迎致します。ところで、お国のインドネシアの方面から、毎年台風を送ってこられて大きな被害が出て困っております。今、被害総額を計算させておりますので、いずれ請求書をお回しすることになるかもしれません。その際は、どうぞよろしくお願い致します」 「そしたらね、君達、スカルノは、賠償のばの字も言わずに帰って行ったよ」爆笑の渦の中で、からからと笑う老宰相の笑顔がとても印象的でした。

 その日の午後、別れ際の玄関で、「君達、一宿一飯の恩義を忘れてはいけないよ。今度はワシが君達を訪ねて行く番だ。その時はよろしく頼むよ」。

 翌年、吉田さんは87歳で急逝されました。あれから54年の年月が流れて、私達は、まだ老宰相に対する「一宿一飯の恩義」を返せないままです。

 私は、吉田さんのユーモア精神を引き継ぎ、「ユーモア」で友達の輪を広げることで、「一宿一飯の恩義」を返せないかと日々を暮らしております。

 

《氷川丸の青春》 5月12日付け夕刊      大塚清一郎  

ぼーっと汽笛が鳴る・・・。

今から60年も前のお話です。高校3年生の私は、「氷川丸」で横浜から百人の仲間と共に米国留学の旅に出ました。まさに「青春のど真ん中」の出来事でしたね。

AFS(アメリカン・フィールド・サービス)交換留学制度のお陰です。

1960年、生まれて初めての強烈な異文化体験でした。中西部ミネソタ州の小さな田舎町ファーミントンでホームステイ、2人の兄弟(ジムとディック)と共に高校に通いました。案の定、英語では苦労の連続。ダブルデートでは冷や汗。しかし半年後には、英語で夢を見るほど上達しました。

授業で一番勉強になったのは「スピーチ」のクラス。話の起承転結、キーワードの重要さ、ユーモアの大切さを毎日徹底的に学びました。

 アメリカの草の根民主主義の基本は、ここにあると言っても過言ではありません。課外では冬はバスケ、春は野球(ショートで1番バッター)に夢中でした。

  当時の米国は、「世界のサンタクロース、警察官」を自認する威風堂々、「光り輝く超大国」でした。

 世界のGNPの約半分(日本はアメリカの16分の1)を占め、《象とネズミ》のような日米関係でしたが、その後の60年でがらりと様相が変わりました。

 翌年7月、留学生活の最後に、AFS留学生全員がホワイトハウスに招かれケネディ大統領に会う機会がありました。蜂の巣をつついたような騒ぎでした。若くハンサムで知的な大統領は世界55か国、約2千人の留学生を前にスピーチ。「皆さんは、アメリカの強さも弱さも学んだ筈です。皆さんの祖国とアメリカとの架け橋になって下さい」。

 私は、このケネディ大統領の言葉に背中を押されて《外交官への道》に進みました。

 

※3回目は《ニューヨークの芸能外交官》、4回目は《カティサークと短い下着》の予定です。

(写真)大磯の吉田茂邸で同期生24人が、吉田さんを囲んだ記念写真(1966年6月)です。吉田さんは、真ん中。白い矢印の先のイケメン?が大塚です。懐かしい黒白の写真です。大塚清一郎

(編集室)説明中の?は必要ありませんね。ダントツのイケメン!(小笑) 

 

最終更新日 ( 2020/06/08 月曜日 18:22:02 JST )