【7月16日】ラトビアのメディアがガイスマを高く評価
作者 webmaster   
2018/07/16 月曜日 21:24:52 JST


 

以下は堀口大樹常務理事が訳した現地メディアの記事です。いずれも激賞しています。主に取材を受けた堀口さんは、今やラトビアで最もよく知られる日本人です。

それぞれのwebサイトと開くとガイスマの大きい写真が掲載されていますので是非ご覧ください。【編集室】

 

「地球をめぐるラトビアの鼓動」

Diena紙 別冊SestDiena

201876日  Anna Strapcāne

https://www.diena.lv/raksts/sestdiena/tema/latvijas-sirdspuksti-visapkart-zemeslodei-14200802

 

 

 日本の東京から来た混声合唱団は、8000キロ離れていても、ラトビアのことを好きになり、ラトビア語を短期間でマスターすらできることを証明している。ラトビア歌と踊りの祭典に参加をし、地元の人と同じように祭典を経験しようと、他の海外の国からもはるばる来ている団体がいる。

 

日本人の堀口大樹はSestDienaに明瞭なラトビア語で取材に応じる。Eメールアドレスには、ラトビア語のsirdspuksti「鼓動」の単語。東京にある日本ラトビア音楽協会が創設した合唱団ガイスマには、ラトビア人は一人もいないが、第26回全ラトビア歌の祭典のクロージングコンサートの全演目を習得し、今回のラトビア訪問は2回目となった。5年前にも全体合唱に参加をした彼らだが、大樹はラトビアで有名人となった。海外に住むラトビア人だけでなく、全く異なる文化を持った人たちが、歌と踊りの祭典に参加をしようと思い、準備をし、実際に参加する理由は何なのだろうか?

 

 

言葉に惹かれて

「今の時代、自分が何人なのか、どこの国に住んでいるのか、どんな血が流れているのかはそれほど重要に思われないかもしれないけれど、ラトビア人でいることがどんなに素敵なことなのか、自分の民族の伝統を意識することがどんなに重要なのか、ラトビア人に考えてほしい。歌の踊りの祭典は、唯一無二の現象」と日本人の大樹は、直接インタビューに応じてくれた際、SestDienaにそう語った。喫茶店で取材をしていると、隣の席に座っている人たちが私たちの会話を聞いているのを感じる。ラトビア語を話すと周りの人が驚くことに、大樹は慣れている。

 ラトビアのことを初めて聞いたのは、当時はまだ高校生だった2000年だったことをはっきり憶えている。海外に興味があり、ある時書店でバルト三国のガイドブックを手にした。当時リーガのある学校でラトビア人の子供が第一外国語として日本語を学んでいたことを知る。「日本からこんなに離れたところで、日本に興味が持たれていることに驚いた」と思い出す。その学校に日本語で手紙を書き、返事をもらった。文通は続き、大樹は少しずつラトビアや文化に興味が湧き、ラトビア語を勉強することになった。最初は独学で学んだ。その後半年ラトビア大学に留学し、東京でラトビア語の接頭辞に関する博士論文を執筆、日本人向けの初のラトビア語の教科書も出版した。

 ラトビア語は難しいが、ヨーロッパの言語を一つ知っていれば、次の言語は学びやすくなる。プロのレベルで現在知っている言語はラトビア語とロシア語で、人に教えているほか、通訳や翻訳も行う。このレベルでラトビア語を知っているのは、合唱団では大樹だけである。団員の中には、ラトビア語に関心を持った人もいるが、多くは歌に出てくる個別の単語を知っているくらいである。

 

 

唯一無二の現象

今年ラトビアを訪問するのは二回目の大樹だが、これまでの訪問歴は20回ほどに及ぶ。この歌と踊りの祭典は初めてではない。最初に観客として祭典を見たのが2008年、2013年には参加者として参加をした。このような行事は日本にはない。「本当にない!日本人には歌と踊りの祭典は、唯一無二の現象。こんな伝統を尊敬している」と大樹は言う。ラトビア人にとってどうして祭典が重要なのか、という質問に対して、つらい時代でも民族を団結させる大きな役割を果たしてきた、とし、「ラトビア人がラトビア人であることを確認し、それを守る機会」と付け加えた。

2009年の創設以来東京で活動する合唱団。ガイスマという名前は、合唱団がラトビア語で歌っていることがすぐにわかるように、とつけられた。定期的に歌っているのは様々な年齢の人約30名。現在大樹は東京から500キロ離れた町に住んでいるため、合唱団の練習に顔を出すことはできない。歌と踊りの祭典への準備でも、残念ながら練習に一度も参加できなかったが、インターネットのパート別の音源を聞いて家で自主練習をしていた。

合唱団に彼の助けは欠かせない。毎回新しい曲を練習する際には、何についての歌なのかを団員が理解するために、大樹は事前に訳す。その後で、団員は発音練習を入念に行う。一番難しいのは、二重母音のoieである。音符が長い場合は、二重母音のieがいつiからeに移行するのかわからない。

通常合唱団の練習は月二回だが、予選を控えていた祭典の前には、毎週練習があり、ラトビア旅行の前には週二回に増えた。祭典のレパートリーはすべて練習した。彼自身や合唱団のお気に入りの曲を聞かれ、「月並みだがMārtiņš BraunsSaule, Pērkons, Daugava」と大樹は言う。「催眠術にかかるよう」とコメント。「ラトビア人じゃなくても鳥肌が立つ」。

 

フェスティバルなんかじゃない

合唱団が初めて歌と踊りの祭典への準備をしていた時、ラトビアでどのように受け入れられるか、という問題があった。「歌と踊りの祭典は国際合唱フェスティバルではないことを、よく理解していた。ラトビア人にとってそれは神聖なもので、本当は外国人の居場所はなく、民族の祭典。でも温かい歓迎を受けてからは、機会がある限り参加を続けられればと思った」と大樹は語る。ラトビアに来られなかった団員もいるが、多くの団員にとって歌と踊りの祭典に参加をするのは、そもそもこの合唱団で歌う大きな理由になっている。「ラトビア人と一緒に歌うことはとても名誉なこと」と語る。

 演奏旅行は日本の文化団体が部分的に補助しているが、出費の多くは参加者が負担している。祭典期間中他の祭典の参加者と一緒に宿泊をしているのは、女性の団員1名のみで、他の団員はやはりホテルでの宿泊を選んだ。合唱団は、ラトビアの民族衣装を考えていたが、本格的に揃えるのは高くつくことを理解した。前回の祭典ではパレードの際も、コンサートの際も、合唱団の名前入りの法被を着ていたが、今回のクロージングコンサートでは、よりきっちりした西欧風の衣装を着ることにした。その衣装にはラトビア風の要素があり、男性には臙脂色のベスト、女性にはラトビアの民族模様のスカートである。ちなみに、そのスカートの素材はカーテン生地である。

 

 

やさしさに期待しなかった

日本の合唱団には一切の特例はなく、彼らも他の団体と同様に予選に参加しなければいけなかった。合唱団は歌を録音・録画して送ることが求められた。評価は良く、海外団体の中でも上位であったという。評価の上ではガイスマは海外ラトビア人の団体と同様にみなされたが、審査員のやさしさには誰も期待していなかった。その後審査員からは発音と演奏を褒められ、評価には満足した。

 今回の祭典に参加をするエストニアからの外国人団体とはメール上ですでにやり取りをしている。タルトゥ大学室内合唱団も森林公園の大ステージの全体合唱で歌う機会を勝ち取った。大樹によれば、この二つの合唱団はラトビア国立図書館を訪問し、その場所にちなんでヤーゼプス・ヴィートルスの「光の城」を歌う予定だという。

 

同じくらい控えめ

 大樹がSestdienaの取材に応じていた時、合唱団はルンダーレ宮殿に観光に行っていた。団にはまだラトビアに到着していない団員もいた。ラトビアを知らない人に、大樹は旧市街のことをよく話すとのこと。歌の祭典については、ラトビア人にとってそれがいかに重要なのかを強調する。大樹によれば、ラトビア人は日本人より愛国的。自民族の歴史を日本人よりよく知っていて、尊敬に値するとのこと。「ラトビア人は控えめで、そんなに自分の感情を見せない。日本人もかなりオープンではないので、この点で日本人とラトビア人は似ている。」と答える。

 ラトビア料理は日本料理よりかなり油が多いが、ラトビア料理は好きとのこと。中でも好きなのは、豆や蕎麦の実、ジャガイモ、様々な肉料理。よくわからないのは、大麻のバター。

 大樹が初めてラトビアに来たのは2005年で、当時はアジアからの観光客はまれだった。2010年でもラトビアの人は外国人に慣れていない様子だったという。通りを歩いているとジロジロ見られたり、振り向かれたりしたので、居心地が悪かった。今状況はかなり改善されている。観光客は冬でも多く、ラトビアの人にとって日本人は珍しい存在ではなくなった。ただ、公共の場所で流暢なラトビア語で話すと今でも驚かれるという。ラトビアでの居心地はよいが、あくまで家は日本だという大樹。今後は、自身がラトビア語で始めたことを続けてくれる誰かが見つかればいい、と話す。彼以外に現在ラトビア語をこのくらい高いレベルで話す日本人は一人しかいない。


 

日本の合唱団員石井さん、二度目の歌の祭典を経験:「皆さんは今自由。それは感じることができる。」

http://www.la.lv/japanu-korists-isii-piedzivo-otros-dziesmu-svetkus-tagad-esat-kluvusi-brivi-un-to-var-just/

Latvijas Avīze「ラトビア新聞」 Ģirts Vikmanis

201876

 

41年前にリーガで歌の祭典に参加をした時、人生でこれが最初で最後の経験になると思っていたが、そうではなかった」と石井さんは語る。1977年に歌の祭典のパレードに参加をした時、レーニン像を見たのを覚えている。当時ソ連だったラトビアに彼が来たのは、神戸がリーガと姉妹都市だったからである。「皆さんは今自由。それは感じることができる」と日本の混声合唱団ガイスマの団員は言う。ラトビア語で歌う合唱団は、もうすぐ結成して10年になり、今年森林公園で行われる歌の祭典のクロージングコンサートにも参加する。

 

石井さんは、老人ホームでのコンサートが感動したと話す。「とても温かく迎えてもらった。これまでつらい時代を過ごしてきたお年寄りの方々に聞いていただいた。我々が演奏している時、彼らも感動の気持ちがあったと思う」と石井さん。

 

植木佐代さんは、ラトビアで日本の歌が歌われたことに喜ばしく思っている。植木さんがラトビアの合唱の伝統に興味を持ったのは2008年に歌と踊りの祭典を見学した時である。「2009年にガイスマが結成され、私はすぐに入団した。5年前に歌の祭典に初めて歌った」。植木さんが特に気に入っているのは、”Pūt, vējiņi”である。「今回はラトビアのコンサートで日本の歌も歌うので、両国の文化の懸け橋が作れてうれしい」と植木さんは付け加えた。

 

「ラトビア人が手を取りあい歌って独立の意志を示したことをある時知って、ラトビアの歌の文化に関心を持った」と語るのは団員の児玉昌久さん。以前から日本ラトビア音楽協会に入っており、ほぼ10年前の合唱団の結成前から、複数の合唱団で歌っていた。「日本でも地方のレベルで民謡が人を結びつけることはある。でもラトビアが特別なのは、歌うことが歌う民族を皆結びつけること。合唱団を見ていると、歌っている人が輝いている」と児玉さんは言った。歌の祭典前の最後の二か月は、月に6-7回の練習があったという。

 

合唱団指揮者は、エネルギッシュな佐藤拓さん。10年以上前に学生合唱団としてラトビアを訪問したことがある。「日本人にとって歌で一番難しいのは発音。ラトビア人の耳にも言葉がよく聞こえるように、練習しないといけない」と佐藤さんは語る。歌の祭典のクロージングコンサートの演目の中で、お気に入りの3つの歌はMārtiņš BraunsJānis Peters Mīla ir kā ugunsJānis LūsēnsRainisKaroga dziesmaPēteris PlakidisVizma BelševicaTavas saknes tavā zemē。「Mīla ir kā ugunsは内容的にラブソングのように聞こえるが、ここでの愛は単なる二人の間の愛よりも広く解釈できる。合唱団は歌のサビを本当に力強く歌う」と指揮者は付け加えた。

 

ラトビアで合唱団の通訳や事務を手伝っているのは、言語学者で合唱団のマネージャーでもある堀口大樹さん。博士論文はラトビア語の接頭辞について執筆。「ラトビア語を高いレベルで知っている日本人は2名のみ。自分にとってラトビア語は研究対象であり、生きがいでもある。高校生の時にラトビアのペンパルがいたのがきっかけ。ラトビア語を見つけることができてうれしく思っている。ラトビア語が自分を言語学者としても人としても形作ってくれたから」と堀口さんはまとめた。

 

 

 

「どうぞよろしく! ラトビア語でしか歌わない日本の合唱団」

Kas jauns

201877

http://jauns.lv/raksts/zinas/288105-iepazistieties-sis-japanu-koris-dzied-tikai-latviski

 

 

 歌の踊りの祭典の参加者の中に日本人がいることにも気づきましたか?日の出ずる遠い国の合唱団ガイスマはレパートリーを覚え、予選を勝ち抜き、パレードに参加をし、リーガで舞台にも乗ります。

 

「団員を結び付けているのは、歌への愛。ラトビア人にとって共に歌うことの大切さを理解しているけれど、日本にはそういう文脈はない」と、ラトビアラジオの番組「いかに生きるべきか」で話すのは、日本人の堀口大樹さん。

2008年に歌の祭典を訪れた後、翌年には日本ラトビア音楽協会によりラトビア語でしか歌わない合唱団ガイスマが結成された。彼らが感銘を受けたのは、歌うことに対するラトビア人の愛だ。

 

今年ガイスマは歌の祭典のクロージングコンサートに参加をするほか、73日にはVEF文化宮殿で他の合唱団と演奏会を行ったほか、74日にはアングリカン教会で単独演奏会も行った。

 

「参加の機会を与えられて光栄。これは国際的なフェスティバルではなく、ラトビア人の民族の祭典。そこに非ラトビア人として参加ができるから」と堀口さん。

 

 


最終更新日 ( 2018/07/17 火曜日 08:36:10 JST )