【6月5日】ペンケ大使の早稲田大学に於ける特別講義詳報
作者 webmaster   
2017/06/06 火曜日 19:27:10 JST


 

4年間の任期を終えて間もなく帰国されるペンケ大使は64日、ヨーロッパ近現代史研究、とりわけバルト地域研究の第一人者である早稲田大学小森宏美教授の教室で特別講義を行いました。帰国を控えたラストメッセージとも言える充実した興味深い内容で、お世話頂いた小森教授に当日の講義詳細を報告していだきました。全文を掲載します。同教授に厚くお礼申し上げます。(編集室)

 

 <自然、地理、人口>

 

大使は、まず、ラトヴィアの自然や地理、人口等について説明され、同国がヨーロッパの小国であると述べられました。その特徴として、首都リーガへの人口集中(リーガ都市部に全人口中34%)、そしてそれゆえに、リーガがバルト海沿岸のメトロポリスになっていることを指摘されました。さらに、リーガの旧市街がユネスコの世界遺産になっていること、また、アールヌーボー建築群が実は、その数(約300)で世界一であるということを捕捉されました。この建築群は、19世紀末から20世紀初めにかけてのラトヴィアの経済的繁栄をしめしているとのとでした。

 

 

<歴史>

 

続いて、ラトヴィアの歴史に触れられました(以下は話の内容という形でまとめます)。1201年に、十字軍(ドイツ騎士団)によってリーガが作られた後、ラトヴィアは、非常にロケーションが良かったために、交易で繫栄しました。しかしながら、ラトヴィア人は奉仕する人々で、繁栄していた貴族はドイツ人やスウェーデン人でした。他方で、こうした諸民族・交易の交差点にあったラトヴィアの人びとは、複数の言語を操り、また様々な技術を獲得します。また農民ながら教育水準の高かったラトヴィア人の中には、1819世紀になるとパリやサンクトペテルブルクに留学する者も出てきます。こうした者たちのうち、特に教師らを中心に民族運動が活発化し、独立が目指されるようになります。

こうしてラトヴィアは191811月に独立を宣言するわけですが、ラトヴィアの独立宣言は幸運に恵まれたからだとも言えます。第一次世界大戦やロシア革命などと同時期にラトヴィアが独立を目指したことは、タイミングとしてラトヴィアに利したと言えます。

他方、ラトヴィアの独立はすぐに諸外国に認められたわけではありません。ラトヴィアのような小国の独立に対し、大国は様子見の立場をとりました。ラトヴィアは、ロンドンやパリに外交使節を送り、独立承認を求めましたが、得られたのは、de facto(事実上)の独立承認でした。これはラトヴィア人の政府が一定の領域の統治を実現していたために与えられたものです。このことは、現在のウクライナ紛争を考える上で重要な観点になります。ちなみに、イギリス、フランス、日本などがラトヴィアの独立をde jure(法的)に認めたのは1921年のことでした。3年もかかったわけです。

その後、20年間は幸運な時代でしたが、1940年から、ソ連、ドイツ、そしてまたソ連と占領下に置かれました。ソ連は確かにナチス・ドイツからラトヴィアを解放しましたが、その後、事実上、ラトヴィアをソ連の構成共和国としました。これは、法的には占領であって、西側諸国はこれを認めませんでした。西側諸国では、ラトヴィアの独立に対する支援もありましたが、ラトヴィアでは誰も近い将来に独立を回復できるなどとは信じていませんでした。それでも、「いつ」かはわからなくとも、「いつか必ず」という希望はありました。ソ連からの解放について、少しずつ自由に発言できるようになるのは、1980年代に、主に経済的理由からペレストロイカが始まって以降です。

*****ここで、イギリスに預けていた金の話********

 ロシアによるクリミア併合も、de factode jureの観点から論じることができます。住民投票によるとはいえ(ラトヴィアでも1940年、議会選挙が行われ、ソ連への加盟を決議しました)、西側諸国はクリミア併合を認めていません。一方で、ロシアはクリミアが自国の一部であると主張しています。すなわち、クリミアは、事実上ロシアの一部になったけれども、法的にはウクライナに帰属しているということができます。ラトヴィアも独立を回復するまでに50年間もかかりました。クリミア問題の解決にどのくらいの時間がかかるかわかりませんが、重要なことは、西側諸国が国際法に則った原則を守り続けることです。

 

 

<安全保障、国際関係>

 

ラトヴィアの安全保障にとって最も重要なことはNATO加盟でしたが、これはロシアと隣接しているという地政学的要因から容易ではありませんでした。また、長い間ソヴィエト体制の下にあったため、様々な分野で改革が必要とされました。1991年から2004年はこの改革の期間です。ラトヴィアのNATO加盟の障害として、軍事能力や予算の問題もあります。ある意味で、トランプ大統領の指摘は正しいのです。NATO加盟国はGDPの2%を軍事予算にあてることになっていますが、ほとんどの国がこれを満たしていません。ラトヴィアも現在、1.74%です。しかしながら、2018年にはこれを満たす予定です。

NATOとは別にヨーロッパ軍を創設することについて、ラトヴィアは反対です。ヨーロッパの安全を保障できる唯一の組織がNATOであり、限られた資源を分けるべきではないからです。

ロシアはしばしば、バルト諸国やポーランドにNATO軍が展開していることを批判します。しかしこれは的外れです。NATOは創設時からロシアと境界を接しています。ノルウェーとロシアは国境を接しているのです。また、NATOの軍事演習などは、ロシアに公開されているものも少なくありません。他方で、ロシアの軍事演習は、こちら側には非公開のままです。NATOに対する見方は、ロシアと、われわれとでは大きく異なっているのです。

EUもラトヴィアにとって重要です。加盟までに多くの改革を行い、長い時間がかかりました。そのEUが現在、複数の挑戦に直面しています。効率化や民主主義の担保などです。イギリスの離脱問題もあります。これはイギリスに限らず、各国の個別主義が深まり、またポピュリストの運動が支持を拡大していることの現れです。こうした状況に対するラトヴィアの立場は、次のようなものです。すなわち、第二次世界大戦後、廃墟の中から相互理解と平和構築のための機関として作られたEUの理想はやはり素晴らしいものです。確かに、社会政策などでの違いは各国間でありますが、共通する部分も少なくありません。加盟国は毎月会合を開き議論を重ねています。そもそも、国際機関に完璧なモデルなどないのです。国際機関に良し悪しはない。国連ですら、各地で起こる諸問題を解決できないでいる。北朝鮮に対する制裁決議をしても、問題は解決していないのです。問題は、それぞれの国がどのようにふるまうかです。いかに妥協点をみつけるのか。個別の利益に走るのではなく、人類にとって何が良いかということを判断基準にすれば、妥協点を見つけることができるはずです。****ここで、米のパリ条約離脱決定は大きな過ちであるという話****

 

 

《メディア・ジャーナリズムの重要性》

 

 現代のグローバル化する社会においては、メディアの役割が極めて難しくなっています。情報は無限にあり、どれを引用・参照するかという問題は、全ての人々にとっての挑戦です。

そうした中で、情報戦はこれまでにないレベルにまでヒート・アップしています。

*******共同記者会見で、マクロンがロシアのメディアを批判した話*****

 ラトヴィアの話に戻りましょう。ラトヴィアは人口200万人の小国です。ではこの小民族が、幾多の多文化の影響を受けながら、どうして生き残ることができたのか。それは、文化の強い根、アイデンティティ、伝統があったためです。

******生活様式や思考方法が神道と似ているという話。夏至祭、クリスマスツリーの話*****

 1873年に始まる歌の祭典の伝統は、ソ連時代にも途切れることはありませんでした。もちろん、歌のレパートリーには共産主義やレーニンを賛美するものが多くなりましたが、その中に、こっそりと、ナショナリスティックな歌を混ぜ込みました。これが、占領下にあっても希望のきらめきであり続けたのです。

 

質疑応答の中から

 

・アメリカの役割のかつての重要性と現在の低下。しかし歴史を振り返れば、かつてもアメリカ不要論はあった。今日もまた、アメリカがなくてもやっていけるという声もあるが、世界の安定のためには、アメリカがヨーロッパにもっとかかわるほうが、関わりを減らすよりもいいことなのです。問題はより良いバランスをいかに見つけるかです。また、アメリカにとってもヨーロッパは必要な存在です。

 豊かな国だけが物事を決定するわけではありません。ラトヴィアも、そして日本も、安定した強い国であることが必要です。

・外交官として、多くで勤務し、自らの経験や知見を基に、複数の視点から比較を行うことができた。これは自らを豊かにすることにつながった。

 

 

 

講義終了後、傍聴した協会関係者がペンケ大使を囲んで会食

最終更新日 ( 2017/06/08 木曜日 10:07:48 JST )