【2月17日】サンドラ・カルニエテ欧州議会議員が大使館で講演
作者 webmaster   
2015/02/19 木曜日 13:17:28 JST


「ダンスシューズで雪のシベリアへ」の著者(日本版翻訳:黒沢歩) 

「ダンスシューズで雪のシベリアへ」の著書としてお馴染みのサンドラ・カルニエテさんが217日、ラトビア大使館で講演され、当協会から15名が招かれた。

著書に関しては、昨20144月に3回にわたってこのサイトにアップしました(文末に掲載)が、サンドラ・カルニエテ氏は1990年ラトビア独立宣言以前から政治活動に参加され、様々の要職を経て現在は欧州議会議員として活躍されている卓越した政治家である。

今回は2度目の訪日で、政府と国会、その他の要人との会談、大学等教育機関での講演、京都見学が目的で、その間を縫って大使館の講演に臨まれた。今回は初めて建築家であるご主人を同伴され、日本の建築物を見ることも大きな目的だという。

同署の日本版翻訳者で、当日通訳を務められた黒沢歩会員から講演要旨をお送りいただいた。【Latvija編集室】

  

「ダンスシューズで雪のシベリアへ」の著者サンドラ・カルニエテさんと日本叛翻訳者の黒沢歩さん

※カルエニエテさんは2月19日に関西学院でも講演され、その時の写真も掲載させていただきました。(下)

【講演要旨】

ラトビアの友人の皆さんへ

 この本を書いたことは私にとって、疑いなく最も重要なライフワークです。最初の一行を書きはじめたときには、他の国の人に読んでもらいたいと願っていましたが、その願いを遥かに超えて、ラトビア語で書かれた書物としては、最も多い12カ国語で翻訳されている書物となりました。その12番目の言語が日本語です。出版にご協力くださった皆さんに篤く御礼を申し上げます。まずは、株式会社新評論の武市一幸さん、東川町の松岡市郎町長、日本ラトビア音楽協会、ラトビア文化省、ラトビア文学協会、ラトビア文化財団、そして駐日ラトビア大使であるペンケ大使と前任者のヴァイヴァルス大使に。そして日本での私の声となる翻訳者で通訳者の黒沢歩さんに。

2000年にこの本を書きだす以前に、10年間構想を練っていました。最初は、ラトビアが如何に独立を回復したかという、ラトビアの革命の話を書くつもりでした。それが、結果的に自伝の形をとりました。本を書いたことによって、平面の写真でしかなかった、私は一度も会ったことのない、シベリアで亡くなった二人の祖父とひとりの祖母に、肉体と精神を蘇らせることができました。今では、ときどき夜ベッドの中で、自分の祖母や祖父たちと会話していることがあります。

執筆するに当たって、三つのことをしなければなりませんでした。つは、ラトビア語で書かれた全てのシベリア追放の書籍に目を通すこと。それらの書籍は、たいがい二つに分類されます。歴史研究所と個人の体験談です。それらを読むうちに、私は体中に重荷を背負い込んだような辛さを覚えました。二つ目は、自分の両親の体験をできるだけ詳細に聞き出すことです。それは彼らを辛い過去に引き戻すプロセスでもありました。父と母に質問をする私の心は冷静でしたが、後で再生テープを聴いたときには、あまりの悲惨さに身体が震え号泣しました。三つ目は古文書館でシベリア追放の書類を調べることでした。そこでショックだったのは、私の母と祖母は、祖父の付属物としてしか扱われていなかった事実です。祖父が亡くなったのは1941年のことですが、母がその事実を知ったのは1991年だったのです。 

今日は、全国戦後強制抑留補償要求推進協議会中央連合会会長の相沢英之氏にお目にかかることができ、会った瞬間に、シベリアの苦労を共有する者同士は言葉を交わさなくてもわかりあえることを確信しました。 

歴史は常に、どこにいようとなにをしようと自分に着いてきます。ですから、常に歴史の真実に向き合わねばなりません。政治が歴史を歪曲し、利用しようとすれば、必ず悲劇が起きます。私は歴史家ではなく政治家です。政治家は、歴史の研究者が真実の追求する可能性を妨げてはいけません。そして、二度とこのような悲劇が起きないことを願います。

次のページもご覧ください。

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最終更新日 ( 2015/02/27 金曜日 18:16:29 JST )