【10月20日】ザトレルス元大統領がラトビア語教室訪問
作者 webmaster   
2013/10/20 日曜日 12:01:25 JST

             

                    中 井 遼(早稲田大学 政治経済学術院 助手) 

  去る109日,渋谷の駐日ラトヴィア大使館で開催されているラトヴィア語教室に,元ラトヴィア共和国大統領かつ現サエイマ(国会)議員のヴァルディス・ザトレルス博士(Dr. Valdis Zatlers)がゲストとして訪れた。これまでも同ラトヴィア語教室には,次官や大臣クラスの方々が,訪日に併せてゲストとしていらしたことがあるが,元大統領の肩書きを持つ氏の訪問は,本教室の開講以来,はじめてのことである。

     

 ザトレルス夫妻を囲んで記念撮影(109日 ラトビア大使館で) 

リリタ夫人(Lilita Zatlere)を同伴して訪れたザトレルス氏は,開口一番,日本でラトヴィア語教室が開かれていることの驚きと喜びを表し,自身の経歴について語られた。本人が直接語ったことも含め,はじめに氏のプロフィールを簡単に紹介しておこう。1955年にリーガで生を受けたザトレルス氏は,もともと政治家ではなく医者であった。ラトヴィアの独立回復運動時には人民戦線にも参加していたが,ラトヴィアの体制移行後も,もっぱら医者・病院運営者としての人生を歩んできた。彼が大統領としてラトヴィア政治の表舞台に現れたのは2007年である。ソ連併合以前から数えて7代目のラトヴィア共和国大統領として,20077月から20117月までの14年の職務を全うし,退職後は自身の名を冠した「ザトレルス改革党」を立ち上げた(現在は「改革党」に改名)。同20119月に行われた国会選挙にて当選して,現在は国会議員として勤務し,主に国防分野の仕事に従事している。

 

ラトヴィアの大統領は,アメリカやロシアの大統領のように直接国民から選挙で選ばれて政治活動を行うわけではなく,国会議員らの推薦と投票によって決められる存在であり,どちらかといえば国民統合の象徴や儀礼的な役割としての位置づけが強く,実際の政治に対しては本来あまり大きな権力を持たない。しかしザトレルス氏が大統領職にあった時期は,隣国ロシアとグルジアの紛争,ラトヴィア与信バブル崩壊とリーマンショックによる未曾有の経済危機,それによる強烈な政治不信など,ラトヴィアにとって非常に大きな困難と動乱の時期であった。紛争直後から欧州諸国やEUNATOと飛び回り,ロシアとも冷静な協議を続けた。危機の時代には国民や政権に対してメッセージを発し続けた。それゆえにザトレルス氏の存在感は,非常に大きなものであった。氏が受講者との質疑応答との中で吐露した「難しい時代だった。国が安泰であれば,政府が働いてくれるので大統領は何もしなくてもよいのだけれど…」という見解にも,それは良く現れている。

 

 質疑応答で最初に出された質問は,ラトヴィアが重視するパートナーに関するものであった。ザトレルス氏は,日本との関係深化について言及しつつも,基本的にはEUが最大のパートナーであり,安保面に関してはNATOとの協力関係も重要であるとした。特にEUとの関係では,来年1月よりラトヴィアでユーロの使用が開始されることに触れ,独自通貨が無くなるさみしさはあるものの,ユーロ圏に入ることによって「ラトヴィアは試験に合格した」ということを意味する旨を力強く強調した。ユーロ圏に入ることによる物価変動を不安視する受講者からの質問に対しても,「インフレはありえない」と自信をもって回答し,欧州統合に対するきわめて前向きな見解を示した(ちなみにザトレルス氏が大統領となる以前の2005年より,ラトヴィア・ラッツはユーロとの固定相場*1となっており,通貨の安定性や金融政策に関しては既にユーロ圏と一蓮托生となっている)

 

 もちろん,堅い話だけではない。大統領時代に経験した面白かった出来事として,国連でスピーチする機会があった際に原稿台の高さが事前準備と異なっていたため,テキストを読むのに難儀したことをあげ,ラトヴィアが経験した先述の「難しい時代」にかけて,その日は「難しい日(grūta diena)だった」と冗談めかして語ったり,日本とのかかわりについても多くを語ったりした。日本に来て早速食べた寿司はラトヴィアのものと味がまったく違うということを知り,魚の種類の多さに驚いたことや,今年の5月に日本大使館で行われた,琴とクォクレ(Kokle:ラトヴィアの民族弦楽器)の合奏コンサートを聞きに行き興味深かった,といったエピソードを楽しそうに話す姿からは,彼が厳めしいだけの人物ではないことが伝わってくる。今回がはじめての訪日とのことで,普通の観光客が行かないようなところに旅行して*2,日本にある様々な秘密を知っていきたいということであった。

 

 筆者にとって印象的だった話は,大統領時代に経験したもっとも興味深い出来事は何かという受講者からの質問に対し,2011年の国会解散レファレンダム(国民投票)の発議をあげたことである。筆者自身も,当時この出来事を興味深く見ていたことを良く覚えている。ラトヴィアの政治の仕組みでは,大統領に与えられたわずかな憲法上の権限として,国会の解散を問う国民投票の呼びかけを行うことができる。ただし,もし国民が国会を解散する必要がないと判断した場合には,大統領はその職を辞さなければならない。ラトヴィア共和国憲法第48条に記されたこの大権は,1918年のラトヴィア独立以降一度も使われたことのない*3「抜かずの宝刀」であったが,ザトレルス氏はそれを初めて用いた大統領であったことを質疑応答の中でも明かしていた。

 

 この出来事は,ラトヴィアが直面する最重要課題は何かという質問に対して,ザトレルス氏が汚職・政治腐敗の存在を挙げたことともかかわっている。汚職・政治腐敗はラトヴィアにとって長年の課題であったが*4,ザトレルス氏はこの問題に正面から取り組んだ。2011年の初頭,ザトレルス氏が同年7月大統領選出で再選されることが濃厚視されていた頃にも,国会内では一部議員や政党による汚職問題が燃え上がっていた。大統領として再選してもらうためには議会の支持が必要であったが,ザトレルス氏は議会と対立することを恐れず,汚職勢力の一掃を目指して議会の解散を発議した。これは議員全員を一度クビにする提案と同義であり,結果として多くの議員がザトレルス氏への支持表明を撤回し,7月の大統領選出では別の大統領が選出された。ザトレルス氏は野に下ったが,ラトヴィア国民の多くは彼が残した提案に賛意を示し,同年9月に解散総選挙が実施された。この選挙で,ザトレルス氏は議員として国政復帰を果たす一方,かねてから政治腐敗に深く関与しているとされながら当選を続けていた数名の大物議員は全員落選し,彼らの政党も全ての議席を失った。

 

ザトレルス氏は教室内の質疑応答でも「汚職はいつも闘わなければならない問題」と語った。彼自身も過去に汚職の嫌疑を掛けられたことが何度かあるが,これはラトヴィア政界という魑魅魍魎の世界で政敵を攻撃するための常套手段であり,捜査結果は全てシロであった。大統領という職務について「勇気がなければできない仕事だ。だけれど面白い。難しいけれど世界の見方が変わる」とも語ったザトレルス氏は現在,自身の属する政党とともに2014年の総選挙に挑む用意を進めている。かつて2011年解散総選挙時に見られた,彼に対する熱狂的支持はすでになく,ラトヴィアの国民がどのような判断を下すかが注目される。

 

筆者の心残りは,かつて医者としてキャリアを重ね大病院の経営陣にまで上り詰めたザトレルス氏が,なぜ政界に転身したのか,その本当の動機を聞き出せなかったことである。ただ,もしも汚職・政治腐敗が国家の病であり,ラトヴィアにとっての宿痾だったのであれば,大統領という身分を捨てる覚悟でその「治療」に挑んだ彼は,医者としての原点から一歩もぶれてはいなかったのかもしれない。

 

 

 

 

   ザトレルス博士と筆者(筆者の中井遼氏は第1回ラトビア語スピーチコンテスト優勝者) 

 

*1 いわゆる「ユーロペッグ」。1ユーロ0.703ラッツを固定基準とするが,プラスマイナス15%の変動が許容されており,厳密には若干の相場変動があった。実際の変動幅はプラスマイナス1%程度である。

*2 今回の訪日は公務ではなく完全にプライベートとのことである。

*3 現行のラトヴィア憲法は,1918年に独立したあとの憲法をそのまま踏襲している。

*4 トランスペアレンシーインターナショナルが毎年発行する「汚職認識指数(CPI)」というものがあるが,ラトヴィアには1998年にEU加盟候補の中東欧諸国内で最低の指数を出した不名誉な記録がある。その後徐々に状況は改善され,現在は中東欧10ヶ国の中で真ん中あたりのランクにあるが,隣国のエストニアやリトアニアよりも悪い状況にある。

 
最終更新日 ( 2013/10/20 日曜日 12:07:39 JST )