【6月18日】会長連載 写真で見るラトビアの歴史14
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2013/06/19 水曜日 10:58:06 JST

ラトビア中世から近世へ

                     日本ラトビア音楽協会 会長 藤 井 威 

 ラトビア中世史を、極めて単純化して述べれば、地方に勢力をはるリヴォニア騎士団領と、ハンザ同盟自由都市リガの主導するリガ大司教領の争いに、ロシア、ポーランドなどが介入してくる歴史と要約できるでしょう。ここで注目すべきは先住民の存在の影の薄さでしょう。

  そうなのです。ラトビア中世史の過程において、領国拡大とその経営などの軍事行政上の主導権は、ドイツ系の聖職者が担い、宗教、文化などの面での主導権は、ドイツ系のハンザ商人が担うという、この地域独特の社会構造が着実に成立してゆき、この体制の基本線は殆んど変わることなく、近世を経てそのまま19世紀に入る――このように考えられるのです。この体制の下での先住民の地位は、領国経営を担うドイツ系の大土地所有事地主貴族(在園領主)に雇われる小作人、宗教、文化面ではドイツ系聖職者の活動に従属する補助者、そして経済面では、ドイツ系大商人の番頭などの奉公人――単純すぎる要約かも知れませんが、この記述に近い社会構造が支配的であったと考えられます。

  なお、同じ印欧語族バルト語系のリトアニア語を持つ人々が居住する地域「リトアニア」は、エストニア、ラトビアとは大きく異なる歴史を展開してゆきます。リトアニア上層貴族は、隣国ポーランドの上層貴族との密接な接触の下で、自らリトアニア大公国を形成し、有能な大公たちの輩出もあって、大公国の拡大、繁栄に成功するのです。1386年にはポーランドと連合王国を形成し、バルト海から黒海に達する広大な地域を支配いたします。その支配体制は、ポーランド、リトアニア両封建制国歌の上層貴族の統合に特徴があり、リトアニア貴族もポーランド語を用い、ポーランド文化の濃密な影響下に国家を運営します。そこでは貴族層と被支配農民層の二重構造が顕著で、その限りにおいて、エストニアとラトビアの社会構造に似ていたと言えるかも知れません。リトアニア非支配層の言語リトアニア語が周辺の強力な言語、特にポーランド語の影響をあまり受けず、バルト語系の古い形をラトビア語以上に残してきたことの理由も支配者との隔絶の結果であると言われています。リトアニアはバルト三国と一括して呼ばれることも多いのですが、国家形成の歴史の上では相互に異なった歩みをたどったことに注意して下さい。

  本論に戻ります。ラトビアの中世的な政治体制が中世末から近世にかけての激動期にどのような歴史的変化を受けたかを簡略に見てみましょう。

  エストニア及びラトビアの中世的安定を揺るがす最初のショックは、1410年タンネンブルグで生じます。最盛期に入ったポーランド・リトアニア連合王国の国民的英雄ヴィトゥータス大公と対決したチュートン騎士団は、欧州中世史でも最大級と言われる戦いに大敗を喫します。この戦いは欧州北東部の中世的安定を根本から動揺させたと言ってよいでしょう。

  そしてこの戦いの後、北欧地域全般に次々と新しい動きが生じます。1397年スウェーデンの古都カルマルで成立したカルマル同盟(デンマークを盟主とするスウェーデン、ノルウェーの三君主連合)は結局安定せず、1523年、スウェーデンにヴァーサ王朝が成立し、昇る太陽の如く、北欧の覇権を求め始めます。また、東方の強国ロシアにイヴァン雷帝(四世・在位15331584)が現われ、ロシアを欧州地域中央部に進出させるべく、1558年、リヴォニアに侵攻します(リヴォニア戦争15581583)。この戦争が結局、チュートン騎士団支配化のリヴォニア騎士団領の崩壊をもたらすのです。 

 リヴォニア戦争後のエストニア、ラトビア地域の新しい勢力分布は、大略、次のようなものでした。

 (1)   この地域の中央部(ラトガレを含む)の大部分は、ポーランド、リトアニア連合支配下に入ります。

(2)   北部の現エストニア地域は、急速に力をつけてきたヴァーサ王朝の保護下に入り、スウェーデン史上バル帝国時代と呼ばれる軍事国家形成の第一歩が印されます。リヴォニア戦争を戦ったロシアは、長期の戦争継続にもかかわらず殆んど得るところなく終ったのです。

(3)   リヴォニア騎士団の総長を世襲していたケトラー家のヴヮトハルトは、ポーランドの保護の下に1562年、現ラトビアのクルゼメ地方を与えられ、クーランド公国の創設が認められます。

  この結果は、どう評価すべきでしょうか。リヴァニア騎士団領の崩壊は、表面上は、1201年にアルベルト司教がバルト地域に上陸し、リガ市に礎石を据えて300年以上続いたドイツ民族によるバルト支配は終了したように見えます。しかし、これは全く表面的な政治史上の出来事であって、文化、宗教の面でのドイツ系聖職者の主導体制や生産や流通などの経済面でのドイツ系ハンザ商人中心の体制、農業面でのドイツ系植民者による大土地所有体制はそのまま継続し、先住民は被支配者として小作や被使用者の地位にととまったままでした。そして、このような社会構造はその後400年余りも続くことになるのです。

  ラトビアの中世から近世にかけて、ドイツ系植民者たちがこの国に残した歴史遺産としては、広大な土地の領主貴族としての優雅な生活を現在に伝える多くのマナーハウス(荘園邸宅)が注目されます。現ラトビアは殆んど全土に多数分布して大事に保存されています。そのうちから私が訪問した2ヶ所の写真をご覧ください。 

ドイツ系大土地所有地主貴族の思い出(20005月撮影)

 

 

 

  

 

  1 メゼトネ・マナーハウス 地主貴族リーヴェン男爵の居館として、1797年にJG・ベルリックの設計により建造された。本館前面の広大な庭園には羊の群れのんびりと草をはみ、マナーハウスというより本格的な小ヴェルサイユ風宮殿と言える見事な建築物である。

 

  

 

  2 ストゥクマニ・マナーハウス 17世紀から18世紀にかけて建造された典型的なマナーハウスであって、居館のほか、内庭をとり囲んで、穀物倉庫、厩舎、馬車庫、時計塔などを備え、附属果実園もある。

  なお、ドイツ人を中心とする人々の侵入に英雄的に抵抗したフィン・ウゴール語族のリーヴ人は、それ以降、騎士団やバルト語系の言語を持つ人々に追い詰められ、次第に勢力を失い、「リヴォニア」の名称を歴史に残しながら現ラトビアの地から消えてゆきます。現在では、クルゼメの西北のはずれ、マジルベという小さな集落に純粋なリーヴ語を話す100人に満たない人々が残るだけとなっており、絶滅が心配されています。  

最終更新日 ( 2013/06/19 水曜日 11:04:54 JST )