【10月13日】藤井会長新連載 写真で見るラトビアの歴史
作者 webmaster   
2012/10/13 土曜日 14:42:30 JST

 

  写真で見るラトビアの歴史① 序章 

                   日本ラトビア音楽協会 会長 藤井 威写真も

  

皆さんこんにちは。日本ラトビア音楽協会会長藤井威よりご挨拶申し上げます。昨年の6月から10月まで、このサイトに10回にわたって「音楽立国ラトビア」と題したエッセイを掲載してきました。ラトビア語及びラトビア文化、芸術、伝統――とりわけダイナと呼ばれるこの国特有の民謡――を軸に、民族意識を培い、ついに悲願の独立に至る、涙と忍耐の歴史を詳しくお話いたしました。  私は、1997年から2000年までの3年間、スウェーデン大使に在勤した時、ラトビア共和国大使を兼任し、在任中、10回以上同国を訪問し、この国の歴史、政治、経済、社会、文化、などを実見する稀有の機会を得て、この小国のありようにすっかりほれ込んでしまいました。訪問のたびに、首都リガはもちろん、この国の地方都市や山村地帯で沢山の写真を撮影してまいりました。もう10年以上前の写真ではありますが、これらの写真を使って、この国の古代からの歴史を振り返るエッセイを少しずつ書き綴ってみたいと思います。私がなぜこの国にほれ込んだか、私のこの国への変わらぬ愛情をお汲み取りいただければ幸いです。

  今回はその序章として、現在のラトビア民族がこの地域に入りこみ、定住し始めた頃のお話をいたしましょう。

  バルト海の東岸一帯の地域――現在の国名で言えば、北からフィンランド、エストニア、ラトビア、及びリトアニアの一帯は、厚い氷河がほぼ溶け終わったBC1万年~9千年頃に、最初の住民の痕跡が認められています。BC3千年頃には、アジア系のウラル・アルタイ諸語の「フィン・ウゴール語族」に属する言語――バルト・フィン語系と呼ばれます――の祖系を持った人々の東方からの移住が徐々に進んだと言われています。現在のフィンランド語、エストニア語、及びラトビアの西北部海岸地帯に僅かに残る少数言語リーブ語の祖先です。 

 さらにBC2千年頃、インド・ユアラビアン語族(印欧語族)の中のバルト語系に属する言語の祖型を持った人々が、徐々にこの地方に拡散してまいります。印欧語族のふるさとは、現在の北ドイツあたりとするか、イラン北部一帯の南東ヨーロッパのどこかとするか、あるいはもう少し東のアジア北西部キルギスステップ一帯とするかなど、決め手がない状況ではありますが、何らかの理由でBC2500年前後から四方に拡散してゆき、南東に向かった一派は、ロシア平原地帯から欧州へ向かったと考えておきましょう。でも誤解しないでください。拡散は一気に発生したのではなく、長期にわたって種々のルートを少しずつ移動して行ったと想像してください。

  欧州へ向かった一派は、種々の語系に分裂して存在しますが、それぞれが、いつ頃、どこから来たのか全く歴史の闇の中にあるのです。主な語系としては、スラブ語系(ロシア語、南スラブ諸語、ポーランド語など)、ゲルマン語系(スウェーデン語、北欧諸語、ドイツ語、英語など)、ラテン語系(イタリア語、フランス語、スペイン語、ルーマニア語など)、ケルト語系(アイルランド語、ウェールズ語、スコットランド語など)、ギリシャ語系などがあるというのが常識と言えるでしょう。実はもう一つ、これらの語系と異なる独立の語系であるバルト語系があり、かつてバルト海の東岸一帯と南岸一帯に幅広く分布し、ラトビア語、リトアニア語、プロシャ語などの諸語に分散しています。そのうちプロシャ語は、強力な言語ドイツ語やポーランド語に駆逐されて消滅し、現在ではラトビア語(話者120万人程度)とリトアニア語(話者300万人程度)の二語だけが残っているのです。

  私たちは、ラトビア政府が作成し公表した2表(「バルト語系とサンスクリット語」「バルト語系とその他の語系との対比」)により、ラトビア語もリトアニア語も、ドイツ語や英語とはかなり大きく異なり、何と古代サンスクリット語によく似ていることに気付きます。バルト語系の言語を祖語とする人々が、どこから、どういう経路で移住してきたのか、そして何故、古代インドで話され多くの仏教経典が記された古代サンスクリット語に似ているのか、実は全く分かっていません。“似ていること自体、偶然の産物であり、大きな意味はない”という懐疑派の学者もおられます。でも、この表を作成したラトビア政府は、ラトビア語のこの特徴を熟知し、このことを世界に発信しているのです。何故でしょう。

   古い古い昔、印欧語族の祖型を示すサンスクリット語がその姿を経典に残したあと、話者が途絶えた後もバルト語系の言語の中に残してきたこと、しかも、周辺をスラブ語系やドイツ語系などの巨大語系に取り囲まれながら、話者の少ないこの少数言語を4千年以上も守り通いてきたこと――ラトビアの人々はこのことを心から誇りとし、この事実をラトビア民族意識高揚に中軸に置いているのです。私は、ラトビア人のこの意識に共感しており、先に述べた懐疑派学者の考え方には賛成できません。

    ラトビアの人々の苦難の歴史の背景は、一言で言えば、周辺をロシアやドイツ、スウェーデンなど政治的にも軍事的巨大な国家に囲まれ、民族としての独立は20世紀まで待たなけれねばならず、その上、ソ連とナチス・ドイツという歴史的の歪みとも言える巨大な専制国家のおかげで、人類が経験した最大の大戦に翻弄された点にあります。このことは前に連載した「音楽立国ラトビア」に詳細に書きました。その中で、ラトビアの人々の忍耐と不屈の魂の根源は、印欧語族の祖型に近いラトビア語という言語を誇りとする意識、及び、このラトビア語で古くから歌われてきた多数の民謡(ダイナ)を大事に歌い継ぐ意識にあったのです。

   ところで、当然のことですが民謡と言語の間には切っても切れない深い関連があります。我々は、日本語を話す日本人として我が国で歌われる多数の地方民謡について、これは疑いもなく日本民謡だ」と認識できます。どの民謡も、それが日本語の地方方言で歌われたとしても、日本語特有の調子、抑揚、リズム感の上に立って出来上がっているからです。現代の民謡と言うべき歌謡曲も同じ特徴を持っていると言えましょう。

   私の旧知の著名なジャズ歌手、敬子・ボルジェンソンさん(日本ラトビア音楽協会会員であり、ラトビアでの演奏活動も精力的に行っておられます)は、ある時、私にこう話しました。「藤井さん、私、ときどき、ダイナには仏教のお経の抑揚やリズム感を感じることがあるのよ……」。仏教のお経には特徴的な抑揚やリズムがありますね。日本仏教を代表する有力宗派である天台宗には「声明(しょうみょう)」という名の儀式が伝来しています。精通した僧侶が、ある種の舞台の上で、経典特有の音韻で朗々と唱えつつ、その真髄を身体全体の動きによって表現いたします。仏教版歌劇であり、綜合芸術とも言えるものです。私はこの儀式の中にサンスクリット語による仏教原典のフィーリングが表現されているのではないかと思います。日本の作曲家によるクラシック名曲「交響曲群馬」にも。お経の雰囲気が明らかに感じとれます。ジャズ歌手・敬子さんのポツンともらした言葉には、古いダイナにサンスクリット語のフィーリングが保存されている場合があることを、期せずして示したものではないでしょうか。

   去る917日に開催された日本ラトビア音楽協会創立8周年記念レセプションで、ソプラノ歌手の京島麗香さんと今千尋さんが、澄み切った声で3曲歌い上げて下さいました。その2曲目、ラトビア民謡「ライ麦にのぼる太陽」の中に、私は仏教的抑揚をはっきり感じとったのです。

   私の新しいエッセイの序章としては随分長いものになりましたが、私がラトビアという僅か220万程度、内ラトビア語を母語とするラトビア民族120万程度の小国に抱く気持ちを、筆のおもむくままに書き記してみました。次回からはもっと簡潔に、写真とともにラトビアの古代史から現代史まで楽しく記してみたいと思います。 

この序章ではラトビアの田園地帯に今も集る「こうのとり」と、教会での児童合唱団の練習風景の写真を添えてみます。次回以降もご期待下さい。

 

  

ラトビアの田園地帯で親鳥の帰巣を待つ巣立ち前のこうのとりの雛たち

 

   

この国では、こうのとりは幸せを運んでくる鳥として大切にされています。

 

    

  

  リガ近郊の教会で偶然出くわした児童合唱団の練習風景。合唱の練達レベルは驚くほど、まさに天使の声を聴く思いがします。ラトビアではどこの教会でもしばしばこのような風景に出くわします。

  この連載は月12回のペースで連載します。藤井会長の大変な力作です。ご期待ください。【Latvija編集室】     

最終更新日 ( 2012/10/13 土曜日 14:54:44 JST )