【5月4日】ラトビア独立回復記念日
作者 webmaster   
2012/05/04 金曜日 20:28:23 JST

  ラトビアの独立回復記念日(54日)

       秋の建国記念日(1118日)と並ぶ国家の慶祝日 

ラトビアでは1118日の建国記念日(昨年93回)と並んで、54日の独立回復記念日を国を挙げて慶祝します。後者は1990年に、国民の手でソビエト連邦から独立を果した日を記念するもので春の祝典として知られています。皆さんにあまり知られていない祝日ですが、9091年の独立回復への大きなうねりと結末は、私たちも身近なニュースとして記憶に新しい極めて重要な歴史的事実です。この記念日の意義を述べた「ラトビアン・インスティチュート」のレポートを、恒松良一会員に翻訳を依頼しました。【Latvija編集室】

  

ラトビア回復記念日

             

              原文 Karina Petersone, Director, Latvian Instite

              

                翻訳 恒松良一(会員)

 

54日の独立回復の春の祝賀は、19181118日に国立劇場で国家評議会が独立国家を宣言した元来の独立記念日と比べ、より良い季節に訪れ、過半数のラトビア国民に自ら経験した出来事を思い出させます。

 

その日は晴天で、新たに選出された当時のラトビアのソビエト社会主義共和国最高会議がラトビア共和国の独立回復の宣言を票決せざるを得なかったのです。早朝から何千人もの人々が集まった国会(Saeima)議事堂の庭のシナノキの葉は既に青々と茂っていました。

 

そこにいた人々は人民戦線候補者に投票し、彼らの特別な行動を期待していました。人民戦線はソビエトの法律や規定に従い選出され機能していた国会でわずかに過半数を超えていました。50年間で初めて、二つの選挙名簿があり、それは共産党員の名簿と人民戦線の名簿でした。

 

それはすでに勝利でした。しかし国家は人民戦線に独立したラトビア国を刷新するという使命を与えました。その為には2/3を超える票が必要でした。建物の外にいた群衆は賛成の評決と考え、「自由を!自由を!」と繰り返し唱えていました。緊張した会議が長時間続き、独立を支持したメンバーは疲れてきましたが、その日の終わりには勝利し、ダウガヴァ川岸で群衆と一緒に独立を祝いました。

 

しかしながら、学校や大学を訪問し、199054日から1991821日の間のラトビア独立国家の回復についての出来事を話す時、多くの若い人たちにとって歴史教科書のできごとであることに気づきました。更に多くの若者たちは祖国について懐疑的な考えで育ってきています。

 

私は、よくラトビアと同時にEUに加盟したチェコ共和国、ポーランド、ハンガリーと比較して話します。そうです、私達は今までに多くの事を一緒に経験してきました。全体主義的社会主義社会から完全な民主主義、計画経済から市場経済への革命的変革を成し遂げました。しかし、南側隣国との比較において、バルト三国、特にラトビアはソビエト連邦の帝国からの離脱の大変な試練を克服しました。これはまた私たちが独立国家の必要条件を前もって持っていなかったことを意味します。

 

私たちは一から始めなくてはなりませんでした。ラトビア軍隊には何もありませんでした。ソビエトの兵士は1994年まで駐留していました。民兵は一部のみが忠誠でした。(悪名高いOMON(ソビエト内務省特殊部隊)の出来事がそれを証明しています。)国境もなく、税関も、貨幣も、銀行も、年金貯蓄もなく、全てが無かったのです。

 

ラトビア人の人種比率は非ラトビア人が50%弱でほぼ半々の状況でした。生産の大幅低下と過去の市場機能の喪失により社会は大変緊張していました。しかしそれでも我が国は無からの出発で、120日のOMONによる武力行使以外、市街地での暴動や衝突の暴力行為もなく再生しました。

 

それ以来、ラトビアは自国の法制度を成功裏につくり上げました。行政及び司法、法制度、検査官及び憲法裁判所。ラトビアは自国の軍隊、警察、社会保障制度、外交制度を持っています。東側の国境を画定し、更に北側及び南側隣国との国境線を引きました。

 

ラトビアは新しい通貨ラッツ(lats:ユーロと固定相場)を作り、金融危機や高インフレに対してもラッツを安定的に維持しており、2014年にユーロ通貨圏に繰りこまれようとしています。

 

ラトビアは国際情勢においても発言力を強めており、EUEuropean Union)やNATOへの加盟手続きが認められ、現在は国際的使命も担う確固たる責任ある加盟国となっています。

 

国民総生産(GDP)が25%下落し、失業率が4%から18%に増加した、2008年から2010年の金融経済危機の後に、ラトビアは、厳しい耐乏手段の導入を含む、不評の決断をしても、経済が回復できることを示しました。

 

多くの悪い予測にもかかわらず、ラトビアは経済を生産物輸出の方向に転換し。4四半期以上の期間にわたり安定的成長を続けました。信用格付けは上昇し、生産は年間9%増加、輸出は30%以上増加、外国から訪問する観光客の観光事業は過去二年間で20%増加しました。

 

大事なことは、南側隣国や西側隣国ではなく、1990年以前に同じ法制度の下で運命を共にしてきた東側隣国なのです。そしてこの視点から将来のラトビアの進展を考えるともっと驚くことがあります。

 

私が学生にこれを話すと、学生たちはしばらく当惑して、それから「卒業後は外国へ行くことを考えるべきでないかもしれない。」と沈んで言います。

最終更新日 ( 2012/05/04 金曜日 20:32:21 JST )