【9月25日】好評連載「日本・ラトヴィア関係史(4)」
作者 webmaster   
2011/09/25 日曜日 12:07:41 JST

  日本・ラトヴィア関係史(第4回)  

 公使館設置への道のり その2 

  切れ者外交官=重光葵の「深慮遠望」

                外務省外交史料館 白石仁章  

「戦前期における日本とラトヴィアの歴史は、単なる二国間関係史の枠には収まらないのではないか?」。最近、筆者はそのようなことを考えている。いささか大げさな表現かもしれないが、少なくとも日本外交史を専攻し、外務省記録を研究してきた者の一人として、日本・ラトヴィア関係史は、そのまま戦間期日本の対外政策を検討する上で多くの示唆を与えてくれるという思いが日々強まっていく一方なのだ。その意味で、リーガに公使館を設置するまでの道のりを追っていくと、2つの非常に興味深い側面が見えてくる。

 第1の側面は、これはいささか専門的な話にもなるが、外務省としては前回紹介した石井大使の「先見の明」に象徴されるようにラトヴィアの重要性を理解し、公使館を開設したいとの意向は有していた。しかし、実現まで時間がかかった原因として、第一次世界大戦後、欧州に新たな独立国が多数生まれ、新規に在外公館開設の必要性が同時に複数生じたことが大きかったと思われる。他方1920年代の日本は、関東大震災による被害(1923年)、金融恐慌(1927年)、世界大恐慌(1929年)といった経済的苦境が続き、新規在外公館開設が財政面から困難であったことは、容易に推測し得る。換言すれば、ラトヴィア公使館開設への道程は、当該期日本外交の一側面を反映していると言えば過言であろうか。

 第2の側面は、そのような困難さが存在したにもかかわらず、対ラトヴィア関係を拡充していこうという「強い意志」が存在した点である。その結果、最初は在ポーランド公使館から書記官をリーガに出張という形で常駐させ、やがて駐ドイツ大使がラトヴィア公使を兼任、臨時代理公使の常駐、正式な公使館に昇格し駐ラトヴィア公使がエストニアおよびリトアニアを兼任するに至るのである。その背景には、ラトヴィアがおかれた地理的環境が大きく影響したのであった。

 そのような「流れ」の中心となった人物は誰か?もちろん、石井大使など多くの人物がかかわったことは言うまでもないが、継続的にラトヴィアの重要性を意識していた人物として、筆者は重光葵の存在を重視している。重光葵の名前は、会員の皆様は既によくご存じだとは思うが、駐中国公使(上海事変の停戦交渉に活躍し、天長節の記念式における爆弾テロにより片脚を失ったことは有名であろう)、外務次官、駐ソ連大使、駐イギリス大使などを歴任し、戦中および戦後度々外務大臣を務め、いわゆる「東京裁判」でA級戦犯の一人として裁かれた人物である。彼は、駐ソ連大使時代に非常に強い姿勢でソ連当局と交渉した「対ソ警戒論者」であり(A級戦犯に指名されたのも、ソ連がある種の「意趣返し」として、強引に重光を加えたと言われている)、また、情報収集の重要性をよく理解していた外交官でもあった。

 重光は、リーガに外交官を常駐させる話が生じた際、その人選に関与したと後年語っている。彼はラトヴィアの首都リーガを、ソ連を観察するポストとして非常に重要な街であることを看破し、当時の外務省でも「ロシア通」にして「反ソ主義者」で有名であった人物、上田仙太郎の派遣を強く主張した。上田仙太郎の活躍と日本・ラトヴィア親善関係への貢献については、次回詳述することとさせていただくこととしたいのだが、前回の石井、今回の重光と戦前の外務省を代表する重要人物がラトヴィアに注目していたことは特筆に値するのではなかろうか。 

樺太で抑留された日本兵士がラトヴィア出身の軍医に贈った感謝の日の丸の旗(リーガの軍事博物館に展示・連載第1回参照)

 

  (編集室から)白石氏は925日のサンテープロジェクト(テレビ朝日)に、反骨の人「信念を貫いた杉原千畝」のコメンタテーターとして出演されました。   

最終更新日 ( 2011/09/25 日曜日 12:25:15 JST )