【6月30日】藤井会長連載 音楽立国ラトビア讃歌2
作者 webmaster   
2011/06/30 木曜日 14:06:13 JST

音楽立国ラトビア讃歌(2)

                               日本ラトビア音楽協会会長 藤井 威 

  

 ラトビア歌と踊りの祭典のために作られた讃歌「神よラトビアに讃えあれ」の歌唱が、強大な支配者ロシア帝国によって禁止されたことに対して、ラトビアの人々はどのように対応したでしょうか。 ラトビアの人々は、古くから歌われてきた代表的民謡(ダイナ)の一つ、「風よそよげ」を代わりに唱和しはじめたのです。その歌詞をじっくり味わってください。

   

風よそよげ 私の舟をクルゼメ地方まで運んでおくれ

クルゼメに住む夫人は 可愛い一人娘の婚約を決めた

いろいろの噂が夫人を惑わす 

その婚約について僕がお酒に 馬に 明け暮れているという

どこの飲み屋に行ったの? 誰の馬で走っているの?

僕は自分のお金で飲んで 自分の馬を 走らせている

風よそよげ 私の舟をクルゼメ地方まで運んでおくれ

(イルゼ・クズニケーヴィチャ訳)

 「この曲が国歌のかわり? どうして?」 そう思いませんか。どう読んでみてもこれは酔っ払いの不良青年の歌としか思えませんね。ロシア帝国当局も、この歌詞から見て帝国支配に有害とは到底思えなかったでしょうね。ところがです。この歌詞にはラトビア人しか分からぬ裏の意味があったのです。

  この裏の意味を理解するキーワードは「クルゼメ」にあります。現在のラトビア共和国は、リガ市の所在するゼムガレ州を中心に、北東にヴィゼメ州、東にラトガレ州、そして西にグルゼメ州の4州から構成されています。

  第1回でも少し触れましたが、歴史的に見るとこの4州はドイツ、ロシア、スウェーデン、ポーランドなど周辺の強国が次々に支配者になるなかで、一つの民族が別々の国の支配を受けるということを繰り返してきました。かつて、現在のエストニアとラトビア主要部を支配していたドイツ系のリヴォニア騎士団領は、16世紀半ば頃、ロシア帝国のツァーリ、イワン雷帝の侵攻を受け滅亡します。その際、騎士団長を世襲していたケトラー一家は、現在のクルゼメ州の地に、「クールランド公国」の創設を認められたのです。この公国は小さいながら有能な君主にも恵まれ、一時期かなり繁栄します。ラトビアの主要部分がロシアなどの強国の強権的支配の下で自由を失うという状況下で、西に自由の国クルゼメがある……ラトビアの人々はそう考えるようになったと言います。

  クールランド公国も19世紀には事実上ロシアの支配下に入り、自由の国という考え方は「神話」にすぎなかったのですが、ラトビア人の心の中にこの神話は根強く残っていたのであり、「風よそよげ 私の舟をクルゼメまで運んでおくれ」という歌詞は、自由を求めるラトビア人に琴線に触れる意味を持ったのです。  

  • 【6月18日】藤井会長がラトビア讃歌連載開始1
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    ハンザ同盟自由都市リガのオールドタウン

      

     リガ市は1201年ブレーメン司教アルベルトがこの地に上陸し、礎石を置いたことに始まる。ダウガヴァ川の河口からわずかに遡った右岸に位置し、西側に大河、東側は運河、南、北は城壁で囲まれた城塞型都市。リガ市創設後の13世紀にリガ大聖堂(写真中央)と聖ペーター寺院が創建されて現在に至る。19972月、この全域がユネスコの世界遺産に登録された。※この写真は聖ペーター寺院の塔上(高度72メートル)から撮影した。  

     

    藤井威(ふじい・たかし)

     1940年生まれ。東京大学法学部卒業後、大蔵省に入省。19年間を主計局で勤務し、国家予算編成事務に従事。大蔵省主計局次長、経済企画庁官房長、大蔵省理財局長を歴任し、財政投融資、国債管理、国有財産行政等の分野での事務方の責任者となる。1993年、内閣官房内閣内政審議室長。官邸にあって内政面での政策調整の事務方を務める。19972000年、駐スウェーデン特命全権大使兼ラトビア特命全権大使。退官後、地域振興整備公団総裁。現在仏教大学特任教授、みずほコーポレート銀行顧問。「福祉国家実現へ向けての戦略」(ミネルヴァ書房・新刊)、「スウェーデン・スペシャル(I~Ⅲ)」(新評論)など著書多い。    

    最終更新日 ( 2011/06/30 木曜日 14:43:52 JST )