【4月10日】堀口大樹のラトビア訪問記
作者 webmaster   
2011/04/11 月曜日 14:46:14 JST

 

大震災直後の23日に出発、言語学者の国際学会で研究発表 

多くの方からお見舞いの言葉いただきました

                                                                堀口 大樹

   2011323日から328日までラトビアを訪問してきました。今回の訪ラトの目的は、バルト海に面する地方都市のヴェンツピルス(Ventspils)で行われた若手言語学者の国際学会で研究発表をするためです。計画停電により、発表資料の作成をするためのパソコンが思うように使えませんでしたが、大震災の発生以前に大まかな発表内容を構成していたおかげで、準備自体への大きな影響は幸いにもありませんでした。不安定な交通機関で、成田空港までの道のりも険しいと予想されたため、前夜は空港近くのホテルに宿泊しました。ヘルシンキ経由のラトビア行きは、乗り継ぎ地までの飛行時間と乗り継ぎ時間の観点で、日本からラトビアへの最短・最速の道のりです。しかし、関東地方の燃料不足による燃料給油と、乗務員の交代で名古屋中部国際空港経由となったことから、当初の乗り継ぎ便に間に合わず、遅い夜の代替便をあてがわれました。時差などで頭が働かないことも理由でしたが、地震や余震を経験した多くの方同様、私も地震酔いが続いた上、ヘルシンキ空港の喫茶店のテーブルや椅子の不安定さすらも気になってしまいました。ヴェンツピルスは初めての訪問でしたが、バスターミナルからホテルに行くまで道案内をしてくださったご婦人、ホテルのレセプションの青年は、こちらが日本から来たことを知ると、お見舞いの言葉を掛けていただきました。また現地のニュースでも、放射能漏れを中心に毎日日本のことが報道されているため、気づけば結局日本のことを考えていました。学会には、地元ラトビアはもちろんのこと、ロシア、ポーランドからの博士課程の大学院生が参加をしました。ヴェンツピルスで国際学会が開催されるのは珍しいようで、地元紙「ヴェンタの声」(Ventas Balss)も取材に来ていました。地震や津波、放射能漏れという三重の危機に見舞われている日本から唯一参加しているということもあり、たくさんの方にお見舞いの言葉をかけていただきました。私事で大変恐縮ですが、325日付と3月31日付の同新聞では、それぞれ学会の様子、またインタビューを掲載していただきました。325日付の記事では、学会と開会式の概要のほか、ヴェンツピルス大学の学長Jānis Eglītis氏の開会式での言葉が取り上げられました。彼は国会議員時代、20093月にラトビア国会議長のDaudze氏が訪日をした際に同行をしており、協会主催のレセプションで実はお会いしています。2年ぶりの思いがけない再会となりましたが、「ラトビアの人々の心は、日本の方々とともにある」というお見舞いの言葉をいただきました。331日付の記事は、拙者のインタビューになっており、ラトビア語を始めたきっかけなどの個人的な質問から、現在の日本の状況、世界が注目する日本人の冷静さの背景などが質問されました。これから復興の道を歩まねばならない私たちにとって、希望の光を見出さないと先に進めません。海外からもすでに金銭的、技術的援助がありますが、精神的に支えられていると実感することも大事です。その点でインタビューのタイトルが「悲劇の中でも強き日本人たち」となっていることは、私たち日本人に対して復興への期待と信頼をしてくれているような表れのような気がします。残念なことに、325日の18時に首都リーガのドーム大聖堂で行われた日本の祈祷礼拝には間に合いませんでした。(詳しくはラトビア留学中の伊東えりかさんの投稿をご覧ください)翌朝にインターネットで知ったことですが、祈祷礼拝で演奏をしたラトビアの音楽家たちには、日本にゆかりのある方たちが名を連ねたほか、在ラトビア長内日本大使のラトビア語演説が取り上げられ、朝から目頭が熱くなってしまいました。

今回ほど「心ここにあらず」のラトビア訪問はなかったですが、遠いラトビアの地でもお見舞いの言葉を掛けてくださる方がいること、祈祷礼拝が行われたことは、世界中が報道するほどの事態が起こってしまったという深刻さを改めて実感させると同時に、私たちの悲しみを遠い国の人たちが分かち合ってくれることの温かさも感じました。(写真は新しくできたデパートの屋上から撮影。夜7時でもまだ明るい)

 

  

 

 
最終更新日 ( 2011/04/14 木曜日 17:58:20 JST )