【8月17日】藤井会長「音楽立国ラトビア讃歌」6 |
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2011/08/17 水曜日 19:17:15 JST | |
音楽立国ラトビア讃歌(6) 日本ラトビア音楽協会会長 藤井 威 1985年のゴルバチョフ政権の登場とペレストロイカ、グラスノスチ政策の開始は、ラトビアにも影響が及び、民主化運動がゆるやかに着実に進行しはじめます。運動は次第に強力になり、社会の表面に飛び出してきます。1989年は、あの悪名高い領土分割協定を含む独ソ不可侵条約付属の秘密協定締結50周年に当たりました。そしてこの協定の違法性及びその後の歴史的経緯に関する論争に公然と火がつき、とりわけラトビアを含むバルト三国のソ連邦編入の違法性が主張されるまでに至ります。 1989年8月23日、あの秘密協定署名の記念の日、世界中を驚嘆させる出来事が起こります。バルト三国人民200万人が手をつないで「人間の鎖」を作り、三国の独立と自由を世界に訴えます。この鎖はエストニアの首都タリンからリガを経てリトアニアの首都ヴィリニウスまで600kmにわたって繫がったのです。この鎖に参加したあるラトビア人は、私にこう話してくれました。「人間の鎖どこからともなく、『神よ、ラトビアに恵みあれ』の歌声が沸き上がり、鎖をつたわって大合唱になりました。全ての人々が歌いながら泣いていました。歌はダイナからダイナへと引き継がれました」。 人類史上初めて、一小民族の民謡が独立を世界に訴え、そして人類史上初めて、民家の歌声が一民族の独立に導いたのです。この快挙から1991年8月に独立回復宣言に至るまでのラトビアの人々の努力と歴史的事件のつながりを詳しく述べる必要はもうないでしょう。一つだけ1991年1月のソ連内務省警察特殊部隊(黒ベレー部隊)が独立阻止のためラトビア内務省に突入した時、数人の死者を含む流血があったことを付け加えておきます。一民族の独立がこれだけの流血で成し遂げられたことは、まさに驚くべきことと言わねばなりません。「歌う革命」と、この国の人々は心から誇るのです。あのレーニン大通りは、はれて元の名前「自由大通り」に戻ります。 独立回復後、ラトビアが独立を喪失していた「失われた50年」をどう見ているかを象徴的に示す施設がリガ市にあります。同市の旧市街中心部に開設された「占領博物館」です。この博物館のパンフレットには次のように書かれています。「この博物館は、1940年より81年まで、ナチス及びソ連によってラトビア人に対してなされた『犯罪』を組織的に展示するために開設された」。 1998年11月、リガ市の誇る国立オペラ劇場の大ホールで内外の有力者を集めて「独立80周年」が催され、私は大使として出席いたしました。80周年ということに注目してください。占領時代は違法であったというラトビアの主張が、このことに明示されているのです。これは当然の行事でしょう。ふと気がつくと、私の周囲の人々は、大粒の涙を拭いもせず叫ぶように歌っていたのです。「神よ、ラトビアに恵みあれ」と。 ラトビア独立から、苦難と忍従、そして歓喜の独立回復、―その小民族が驚くべき経験を耐え忍んだ基調の調べこそ「音楽」であったことをご理解いただけたと思います。 リガ市民のユーモア リガ市オールドタウンの中央を東西に貫く「自由大通り」のなかほどにこの美しいフィルハーモニアス広場がある(写真上)。中央の白い建物は、大ギルド館であり写真中央のように小道をはさんで小ギルド館と並んでいる。大ギルド館と対峙するかのように「猫の館」があり、搭上に猫の像がある(写真下)。この館の主はギルドと敵対関係にあり、猫の尾を大ギルド館に向けて据え付けたが、後にギルド館はコンサートホールに転用され、音楽好きの猫は、自ら向きを変えたと言う。
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最終更新日 ( 2011/08/18 木曜日 21:59:33 JST ) |