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【2月6日】加藤登紀子さん、47年ぶりにラトビア訪問 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2015/02/06 金曜日 17:29:53 JST


 

R.パウルスとも面談、「百万本のバラ」を弾いて下さり大感動!

加藤登紀子さんが1月19日から24(帰国)まで、幸子会長ほか一行5名でリエパーヤ、リガを訪問しました。6月のラトビア演奏会の打合せです。ラトビア外務省、リエパーヤ市、リガ市の要人に会い、連日大歓迎を受けたようです。ライモンズ・パウルスともインタヴューされました。写真を撮る時、「百万万本のバラ」を弾いてくれ、大感激されたとか。日本大使館では多賀大使から夕食の招待も受けました。

以下は登紀子さんのHPからの抄録です。編集室へ届いた写真の一部も掲載します。登紀子さんのラトビア訪問は47年ぶりで、いろいろな思いを綴っておられます。

余談ながら、編集子はNHK深夜便での加藤さんの薀蓄に富んだ楽しいお話のファンで昨夜も聴きました(最終回で残念!)。午前3時からの歌の特集1時間もとても素敵でした。【Latvija編集室】

 

TOKIKO NOW6月のコンサート本番がさらに楽しみになりました! 

ラトビアの旅から帰国しました。

留守の間にまた大変な事が起こって、世界情勢の不安定さに唖然とします。

ラトビアに出発する前に、ロシアと、旧ソ連から独立した国との関係など、念のため少し調べたりしましたが、ウクライナやロシアをめぐる紛争のような危機の気配は、現地のラトビアでは全く感じられませんでした。

古き良きヨーロッパの価値を十分に生かした街には夢のような香しさと落ち着きがあり、心身ともにふくよかさを受け止め、リフレッシュ出来ました。女性も男性も美しいですし、街の何処もかしこもオシャレで、清潔で、食事も抜群でした。

1968年、歌手としての初めての海外ツアーで首都のリガで歌ったのは真夏。47年ぶりのリガは、季節が違うだけじゃなく、本当に美しい街になっていて、昔はいったいどこを見たのだか、全く分からなかったくらいでした。

91年にソ連から独立、94年までは体制の移行期間で混乱したそうですが、その後、街の整備、インフラの整備、旧市街の復旧など、ラトビアらしい街を生み出すための奮闘があったのでしょう。

着いた日の夕方、ホテル近くのドーム広場はライトアップされて、石畳が本当に綺麗で思わず写真を撮りました。本当にこの写真、とっておいて良かったの。

翌日西へ3時間、リエパーヤという人口7万の町(この夏に日本に招くオーケストラの本拠地)を訪ね、ここにもうっとりするようなかわいい家や、石畳、カフェなど、絵になる場所がいっぱいでしたが、一晩で世界は一転。すっかり銀世界にかわってしまったのです。

ホテルの裏は運河に沿っていて、朝9時頃までは薄暗くて、街の明かりが残っていて、ムード満点の散歩道。ホテルの人は必死の雪かきで大変そうだったけど、私は雪を踏んでときめきました。寒さは多分零下45度でしょうか?長い時間でなければ気持ち良いくらい。

この日はこの夏日本に招聘するリエパーヤ・オーケストラの練習場を訪問。人口7万人の街にお抱えのオーケストラがあり、立派な自前のリハーサルのできるホールがあり、素敵なコンサートホールが他にも二つ三つある、と言うのですから、本当に驚きです。ホテルのロビー、朝食会場、レストラン、いたるところにグランドピアノがあるのも、凄いね。

47年前の時も、リガのホテルの部屋にグランドピアノがあり感激したのを忘れません。

当時はソ連支配の下で、言語の自由や、発言の自由、仕事の選択の自由もなくて、不満が鬱積していたといいますが、それでもあの頃も、この町には何かしら街の香しさがありました。本当にいい匂いだったの。ケーキを焼く匂い、料理の匂いがからだをつつんでくれるようで。

翌日リエパーヤからリガに戻ると、もちろんここも着いた晩とは別世界。広場の石畳も真っ白でした!

 百万本のバラの作曲者、ライモンズ・パウルスとは、このドーム広場に面した国営ラジオ局の中のライモンズさんのお部屋でじっくりと、お話が聞けました。もちろん此処にもグランドピアノがあり、写真を撮る時には、「百万本のバラ」を弾いて下さって大感激。

翌日はこの歌のもとの詩を書いたレオン・ブリエディスさんと、13世紀から残っている昔の大きな家でお会いしました。台所で火を炊くと、45階はある階上まで暖かくなる、という昔のままの構造。今はガラス工場とギャラリーがある素敵な場所でした。

彼は68年には学生で、その後反ソ的な詩を書いて大学を追放され、72年に亡命先のモルドバで結婚、その後もKGBに監視されながらの反骨の詩人。私より7歳くらい若いはずだけど、もう神様みたいで、本当にその純粋さに胸打たれました。私と夫との出会いが68年だったこと、結婚の年の偶然の一致など、驚きでした。

81年、ラトビアの国の哀しさを込めて彼の書いた「マーラの与えた人生」という詩が、82年にボズネセンスキーの「百万本のバラ」に翻訳され、アラ・プガチョアが歌って大ヒットソングになり、巡り巡って私が日本語に翻訳して歌って、日本で知られるようになった!その間にソ連という国はなくなり、新しい時代を迎えた。対立や諍いをも繋いでくれる歌の力、多くの違うアイデンティティーをこえて愛されたことで、この「百万本のバラ」が新しい時代のシンボルになった、と私は思いたい。

もとの歌に込められた願いは、十分遂げられたのではないか、とレオンさんに尋ねたかった。民族性のアイデンティティーが尊重され、それでいて決して争いのもとにならないことが、本当に大事な時代になりましたからね。

ラトビアが47年前よりずっといい街になっていたことで、すごく幸せな気持ちになったこの旅。6月のコンサート本番がさらに楽しみになりました!

登紀子

 

最終更新日 ( 2015/02/14 土曜日 11:26:11 JST )
 
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