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【4月20日】カルチャーサロン黒沢歩さん講演の全記録 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2014/04/20 日曜日 20:36:46 JST

 

  『ダンスシューズで雪のシベリアへ あるラトビア人家族の物語』の翻訳              

                                      黒沢 歩                                                          

             2014417 18:30-19:00  カルチャーサロン 

                於:在日ラトビア共和国大使館

 

 

 

はじめに

 

 今日は、このような場をご提供くださった日本ラトビア音楽協会とペンケ大使とラトビア大使館にお礼申しあげます。藤井大使には、著者の経歴についての紹介と、また本書の具体的なあらすじについても、すばらしい解説を寄せてくださいましたことに感謝申しあげます。  今日はここで内容を繰りかえすことはせず、翻訳にまつわるエピソードなどをお話しさせていただきます。

 

本書と著者のこと

  

 本題に入る前に、著者、サンドラ・カルニエテさんの、この他の著書をご紹介いたします。まず、 1989年には、彼女の大学でのご専門につながっている《ラトビアのテキスタイル》(Latvian Textiles) という本、それから2000年には Es lauzu, tu lauzi, mēs lauzām. Viņi lūza" (I broke, you broke, we broke. They fell apart) という、ラトビア独立運動について書いたものがあります。最近では、2012年に »Prjaņiks. Debesmannā. Tiramisū." (Gingerbread. Sweet-porridge. Tiramisu),  という、写真を多用した大変きれいな大型の料理のレシピ集を出版されています。 これらの著書を見ると、政党をひっぱる政治家としての堂々とした、たくましい面と、衣類や料理という日常の美を大切にする、細やかな女性らしい面とを併せ持ったカルニエテさんの人間性が伝わってくるようです。 

 

 さて、本書は、すでに12か国語への翻訳がある、ラトビア文学作品としてはもっとも幅広い言語で読める作品のひとつです。ちなみにラトビア語と日本語以外に、ほかに何語で翻訳されているかといいますと、フランス語、ロシア語、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、スウェーデン語、フィンランド語、オランダ語、チェコ語、アルバニア語、アラビア語となります。邦訳の出版にたどりつくまでには長い時間を要しました。本書の出版の意義を認めてくださった新評論の武市さんには、心から感謝しております。 

 

 

翻訳に至る経緯

 

 カルニエテさんから、直接にこの本の翻訳を依頼されたのは、たしか2004年のころ、私はリガにある日本大使館に勤務していたときです。当時、外務大臣から欧州委員となった彼女は、『運命の庭』プロジェクトの庭園設計のコンペティションに、ぜひ日本人の設計士に呼びかけてほしいという働きかけをしに、日本大使館にやってきたのです。  『運命の庭』プロジェクトというのは、本の末尾の訳者あとがきでも触れましたが、ラトヴィア東部のコァクネセというところに、過去の全体主義で犠牲になった人々を追悼するために、民間の寄付を募ってはじめられた、規模の大きい公園を造るプロジェクトです。  コンペティションの結果、横浜市の禅寺(健功寺)の僧侶であり、庭園設計士として世界的に活躍する枡野俊明さんのプランが選ばれました。  ただの荒れ地であったその場所は、それから設計に沿って徐々にきれいに整備され、いまではビジターセンターが建ち、記念品などが販売されています。ここには代々のラトビアの大統領が訪問するなどして、もはや国家的なプロジェクトとして、ラトビア建国百周年を迎える2018年の完成を目指しています。  このような縁でカルニエテさんと知り合い、この本の翻訳の依頼を受けることになりました。その後の打ち合わせにご自宅に伺いましたが、本に囲まれた居心地のよい部屋の印象が残っています。また、私がロシア語の響きの美しさに惹かれて、ロシア語を学んだと話しますと、ロシア語が美しいですか?と聞き返されたことを覚えています。

 

 

 

翻訳作業のこと

  

 

 原作を読んでみると、原文は短い文章が淡々とつづき、大変読みやすくわかりやすいのですが、いざ、そのまま日本語に置き換えてみますと、原文のようにはスラスラと読めないことがわかりました。英訳のように、まるで翻訳機にかけたようには、欧文はとても日本語にはなりません。  まずはじめの難しさは、父方の祖母や母方の祖父といった家族関係を指す言葉が、ときには著者から見た関係であったり、著者の母から見た関係であったりというように、語り手が入り乱れることです。初めて訳した試作品を、私のいちばんの厳しい読者である母に読んでもらったときには、人物表記がこんがらがっていて、とても読めないと投げ出されてしまいました。  それから、ほぼ10年近くのあいだ、断続的にこの翻訳に携わってきました。この間に、2007年の天皇皇后両陛下のラトビアご訪問が決まったときには、カルニエテさんから私に電話があって、このご訪問に間に合うように翻訳して本にしてくれないか、と打診されたこともあります。とても間に合わないと答えると、がっかりされたことを覚えています。 それから、今からちょうど1年前くらいに、新評論の武市さんとの作業を通じて再読をはじめました。  この本を開いてくださった方は、まず冒頭のページに複雑な家系図があることから、これらの名前を覚えなくてはわからないのではないか?と、手強く感じる方があったと思いますが、本文の大筋に登場する人物名はその一部でしかありませんので、ぜひ家系図にこだわらずにお読みください。また、長い時間をかけて翻訳したわりには、丸二日で読んでしまった、という嬉しいようなあっけないようなお声をたくさん聞きますが、確かに複数のラトヴィアの人名とその関係性が頭に入っているうちに読みきってしまったほうが、読みやすいのだと思います。  すでにお読みくださった方はご存知のように、これは歴史書とも言えませんし、小説でもなく、半分は自伝であるのに、その半分は著者が父親と母親から聞いた回想を筋として、家族に残された手紙や書類などの記録と、同じような体験を経た人々への取材、さらには歴史書などを参考に書かれています。著者の主観を通じて3世代にわたる家族が、ラトビア近現代史のあらあらしい時期を乗り越えて生きた軌跡を描いています。ある平凡な家庭の記録は、ひとつの民族の歴史的な宿命を帯びて展開していきます。  これらの手紙の書き手たちがおもに女性であったことから、その文体は決定的に会話体です。なかでも、著者の母リギタの綴った手紙と日記が、この本の生き生きとした脈をなしています。別の言い方をすれば、複雑ですさまじい歴史を、主として女性の側から、会話体で書きなおした作品といってもいいかもしれません。  本文には難解な註が多く、歴史的な記述の部分では、まずは史実を自分で把握し、それをいかにわかりやすく訳して伝えるかに苦心しましたが、日記と手紙の部分を訳しているときは、スラスラと言葉がつながっていきました。これらの手紙を読むと、どんなに厳しい情況においても、あたたかい友情や節度ある思いやりが離ればなれになった家族を結びつけていることに気づき、読んでいてほっとさせられる部分となっています。  著者が生まれ育った家族の関係は、歴史的背景のなかに浮き彫りにされますが、シベリアでの飢えと寒さに苦しむ体験、また、ソビエト体制下の窮屈さについては、人生のうちでももっとも多感な時期をまさにそのような熾烈な体験をくぐりぬけた両親によって、それぞれ語られています。  翻訳するにあたって、強制収容所に収容されるということと、追放(流刑という言い方もありますが)の身分とその暮らしの情況の違いが、私には初め、まったくわかりませんでした。本文の中でも、それらの違いは自明のこととして、説明はなされません。  この仕事のおかげで、じっさい、これまで読んだこともない、または読もうと思ったこともない書物を何冊も読むことができましたし、ずっと昔に読んだ小説や詩を、当時は想像もつかなかった新しい視点から読みなおすこともできました。  たとえば、ソルジェーニツィンの『イワン・デニーソヴィッチの一日』をはじめ、アナトーリー・ルィバコフの『アルバート街の子どもたち』、ラトゥシンスカヤの『強制収容所へようこそ』、本書の参考文献でもあるアップルボームの『グラーグ、ソ連集中収容所の歴史』のほか、日本人のシベリア抑留の記録である辺見じゅんの『ラーゲリから来た遺書』など、おおいに参考になりました。これらを読むうちに、スターリン体制下のシベリアでの過酷な体験は、民族を隔てることなく、共通に被った苦しみであったことがわかってきました。バルト三国にはシベリア追放の憂き目にあった家族や親類、友人、知人がいない人はいないとさえ言われています。  ラトビアには、カルニエテさん以外にも多くの著名人が似たような境遇にあり、そうした自分や親の体験をドキュメンタリーに書き、独立回復以降に出版された書物はほかにもあります。ところが、ラトビア人でさえも、この分野は思い出したくない、触れたくない歴史として、あえて読むことを拒む人も少なくありません。実際、私の周囲のラトビア人にはカルニエテさんのこの本を読んだ人は、そう多くはいません。  この本を訳すにあたって、ひとつの疑問がありました。それは、ある時代のラトビアの政治の歴史とこれほど緊密につながった、しかも知名度が極端にひくい一作家の生涯というものが、はたしてどれだけの日本人に受けとめてもらえるかという点でした。  ふと自分に立ち返ってみますと、私は高校生の頃からハバロフスクに住む同世代のロシア人の女の子と文通をしていましたが、その間に立ってロシア語を訳してくれていた年配の知人は、シベリアに抑留されてロシア語を身につけた方でした。  最近では、私の祖父の、今年90歳になる弟が、やはりシベリアに3年近く抑留されていたことを、このお正月に初めて知りました。大叔父は、モスクワから遠く離れれば離れるほど、シベリアの寒村には知的で美しい人が多かった、あれは流刑者だったんだろう、と話したのです。この仕事を通して、あたかも自分とは無関係だと思っていた歴史がつながっていることを実感しています。  追放や流刑の身分というのは、柵の中に閉じ込められている行き場のない情況ではなく、居住すべき村を指定され、そこから出てはいけないこと、また定期的に決められた日に自己申告する義務があっただけで、その他の暮らしについては、住まいも生活の糧も自分で見つけ出すということなのだと把握しました。  本文中では、追放地を無断で離れるという、禁じられたリスクを、登場人物がなんどかおかしています。結果的には、その都度、人生を切り開く重大な運がかかっています。たとえば、リギタに一時期恋人ができ、その恋人が遠く離れたところにさらに強制移住させられてしまうと、その恋人をこっそりと追いかけていって、そこで数ヶ月暮らして帰ってきた、というような記述があり、それがそんなに簡単なことなのか?不思議に思いましたが、恐らく広大なシベリアでは監視の目にはムラがあったり、なんらかのごまかしも効いたのだろう、と捉えるしかありません。   本文中では、強いるという「強制」と、正すという「矯正」の二つの紛らわしい「きょうせい収容所」を使用しています。いくつかの参考文献にあたったところ、原語に忠実に訳せば正しくは「矯正」であるけれど、日本では「強制」という文字が音として一致し、また意味的にも矛盾しないことから定着したようです。そういうわけで、文中では主に「強いる」という文字の強制収容所という言葉を多様しています。  また、編集してくださった武市さんに要求されたのは、数多くでてくる地名を、原書にはない地図に記して作成し、その言語表記を示すことです。ラトヴィア語の地名は、おおよその検討がつきましたが、広大なロシア大陸とシベリアに点在する小さな村などの地名を探しだすのは一苦労でした。  本文でシベリアのつつましい暮らしを象徴する品々についての記述では、モスクワへの留学と長いラトビア暮らしの経験が、大いに役立ちました。たとえば、リギタが毛嫌いするシベリアの労働者の衣類であるプファイカというのがありますが、これは綿入りの粗雑な上着で、日本の「はんてん」のようなものです。  プリャニキというお菓子が登場しますが、これは糖蜜をかけたやや固めの丸い香辛料入りのパンで、旧ソ連の人々にとっては懐かしい味のお菓子であり、日本人にとって、甘食に黒砂糖をかけたようなものです。いまもよく売られています。  著者の祖母がシベリアで吸っていたという「ヤギの足」は、タバコの銘柄なのかどうか確信がもてず、著者に問い合わせたところ、手巻きタバコの通称だとのこと。作り方まで教えてくれました。わからないことの問い合わせるたびに、著者とのメールでのやりとりは、いつも敏速でスムーズで大変に助かりました。いま、最後に彼女に聞いてみたいことは、ダンスシューズは何色だったのか、ということです。  原書にはない参考写真についても、ラトビアの何人かの写真家の友人たちの助けを借りました。なかでもとりわけ貴重な写真は、245ページに掲載されている、1949325日当日に地方の駅に連結された追放者用の貨車の写真です。当時14歳だった少年は、今はもう亡くなっていますが、写真を撮ったことが見つかれば大変なことだったと、提供してくれたラトビア写真史の研究者である知人が教えてくれました。 今回、自分の日本語と歴史の知識の未熟さに果てしなく苦労しました。武市さんの忍耐強いご指導がなかったら、訳者はとっくのむかしにこれを投げだしていたかもしれません。ご清聴ありがとうございました。

 

最終更新日 ( 2014/04/20 日曜日 21:03:03 JST )
 
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