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【7月16日】次号最終 写真でみるラトビアの歴史(16) PDF プリント メール
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2013/07/16 火曜日 17:23:35 JST

周辺強国によるバルト覇権争奪

                        日本ラトビア音楽協会 会長 藤井 威

   前回、16世紀中頃より現ラトビア及びエストニア地域の政治情勢に大きな変化が生じ、バルト中世を特徴付けたリヴォニア騎士団領が消滅するとともに、ドイツ人たちによるこの一帯の封建的な政治支配が崩壊過程に入ったことを説明しました。極めて単純化してこの現象を見れば、13世紀初頭から400年近く続いた中世期システムが地平線下に沈み、近世への胎動が始まったと言えるでしょう。リヴォニア騎士団領消滅時点でのバルト地域の政治的勢力分布図を、原翔著「エストニア」p37から引用します。

 1560年代中頃のバルト)「リヴォニア戦争を長期にわたって戦ったロシア帝国は得るところが殆んどなく、登る太陽スウェーデンと最盛期に入りつつあるポーランド・リトアニア連合が勢力を確保し、旧騎士団総長ケトラー家はポーランド・リトアニア連合の保護下で、クールラント公国の建国が認められました。」 実はこの分布状況は極めて不安定であり、長続きしません。その主な原因は、ロシア、ポーランド、スウェーデン、ドイツなどの周辺強国のバルトへの関わり方が強くなり、この地域がこれら強国の動きに振り回される程度が、格段に強まったことによると言えるのです。そして、これら周辺強国の中で、まずスウェーデンがバルトへのプレゼンスの強化に成功します。スウェーデンは16世紀初頭にカルマル連合によるデンマークの封建的支配から脱し、バーサ王朝が成立して軍事国家として北欧の覇権確保に邁進します。スウェーデン史上、16世紀は何度もデンマーク勢力をスカンジナビア半島から追い落とすことに成功します。そして、バルト東岸地域へのプレゼンスを着実に強め、17世紀にはドイツで勃発した30年戦争に介入し、バルト帝国時代とも呼ばれる北欧の軍事強国に成長するのです。   バルト地域の覇権を巡るスウェーデンとポーランド・リトアニア連合の争いは、1601年から1629年(アルトマルク条約)まで続きます。この間、1621年にはリガ市がスウェーデン支配下に入ります。この争いは、プロテスタントとカトリックの争いの一形態であり、欧州レベルの熾烈な戦いの一環であって、1618年から1648年まで続く30年戦争につながる戦いでした。バルトにおける両勢力に戦いが一応決着を見た1630年代の政治状況を、志摩園子著「物語バルト三国の歴史」p59より引用します。ただし、もう一度確認しておきます。これは政治権力の所在を示す区分であり、宗教、文化、商工業、農業の実権はドイツ系の人々に握られており、先住民たちの従属的立場に大きな変化はなかったのです。それでは、現在のラトビア地域、特にリガ市の政治権力がスウェーデンの手中にあった頃の記念となる写真を2件ご覧ください。第1の写真はリガ市旧市内の北寄りにあるスウェーデン門です。リガ市の北辺が、1650年に騎士団の新しい城(現在の大統領官邸・リガ城)の線まで拡大されますが、1698年、それまでの旧城壁を利用して住宅の建設が始まります。その際、新しい門が作られたのです。実はこの門の北側に、スウェーデン軍の駐屯部隊が住んでいたヤコブ兵舎があり、スウェーデン軍兵士がこの門を利用して市街地中心部と行き来していたので、スウェーデン門と名付けられたと言われます。この頃、リガの娘たちは外国人と会うことを禁止されていましたが、一人の娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門で密かに会うようになります。このことが露見して、この娘は門の内側に塗り込められてしまい、真夜中に娘のすすり泣きが聞えるという残酷な伝説が残っています。 2の写真は、かつてスウェーデン門につながっていた旧城壁です。旧城壁は住宅の一部として吸収されていたのですが、一部が復元されました。写真はその様子を示しています。 

    

①スウェーデン門 17世紀、リガを含むラトビアの大部分がバーサ王朝スウェーデンの支配下にあった頃、この門の向かい側にスウェーデン兵が駐屯していたと言う。(2006年撮影) 

  

 ②再建旧城壁 リガ創設当時の最初の城壁を、後に復元したもの。スウェーデン門の横にある。(2006年撮影)

  スウェーデンの支配は、ラトビアの人々、特に先住民の人々の評判は良かったと言われます。スウェーデン・バーサ王朝は、本国でも横暴な貴族支配を認めず、かなりの程度に住民の意思を尊重した、当時としては比較的リベラルな支配を行っていましたが、バルト地域にもこのやり方を踏襲したからです。例えば、ドイツ系貴族の封建的特権を限定的にしか認めず、また一部の農民にスウェーデン王への直訴の権限を認めるなどの特権が採られました。また、小作人の子弟たちの学校が設けられ、聖書のラトビア語訳の印刷も行われています。ラトビアの人々は、この後に続くロシア帝国の専制支配に苦しんだこととの対比もあって、「良きスウェーデン時代」とよんで懐かしむ空気が今に残っています。

  グルゼメを支配するクールランド公国も、世襲公爵ケトラー家もヤコブ公爵(在位16421682)が善政を行い、経済活動も活発化してトバゴ島はアフリカ・ガンビアに植民地を持つまでに至りました。この時期、スウェーデンではバルト海を囲む地域全域にわたって、一部とびとびではありますが支配地を広げ、バルト帝国の名にふさわしく北欧の覇権を握る軍事大国になっており、英雄カールチ2世(在位16971718)の治世が始まっていました。ロシア皇帝ピヨートル1世(在位1682~1725)は、1700年デンマーク王フレデリク四世及びザクセン公兼ポーランド王アウクスト2世(強王)と北方同盟を結び、スウェーデンの覇権に挑戦します。ヨーロッパ史上名高い北方大戦役の勃発です。大戦役の初期、カールナ二世指揮下のスウェーデン軍1万は、ピヨートル一世軍3万5千人の大軍と、エストニア、ロシアの国境町ナルヴァで対決し、カール12世の大勝利に終わります。その後もカール軍は優勢裡に進軍を続け、ポーランドが支配権を行使していたラトガレや現ラトビア内部の城塞を一つ一つ破壊してゆき、遂にロシア領内に侵攻してゆきます。(中世リヴォニア騎士団時代に現ラトビアの地域に建築された、その後も軍事基地として利用されてきた城砦が、北方大戦後の過程で廃墟となった幾つかの事例は、本シリーズ第6回に掲載しています)  1709年、ウクライナのポルタヴァまで攻め込んだカール12世の軍勢14千人は、ピヨートル1世軍4万5千人と対決し、全滅に近い大敗北を喫します。カール12世に協力を誓っていたコサックの領袖マゼッパの来援がなかったことが、決定的な敗因となったと言われています。本国から遠く離れたポルタヴァで軍団を失ったカール12世は、オスマントルコの首都コンスタンチノーブルに逃げ込まざるを得ない事態になります。この時点でバルト帝国は崩壊し、フィンランドを除くバルト東南岸地域の領土を全て失い、ロシアとポーランドが代わって支配権を獲得します。

  ピヨ-トル1世は北方大戦役の勝利で、ピヨ-トル大帝の称号を得ることになります。西方バルト海沿岸に広大な領土を得て、欧州中心部へ進む強力な足がかりを獲得し、フィンランド湾の奥に新都ザンクトペテルブルグの建設に乗り出します。さらに、イタリアの有名な建築家フランチェスコ・バルトロメオ・ラストレリの設計により冬宮(後ノエルミタージュ美術館)を建設し、ツァーリの居城をモスクワからここに移します。これ以降ロシアは、常に強大国として欧州史ひいては世界史に重大な影響力を行使する地位に立つことになったのです。そしてカール12世は、大軍を率いてロシアの大平原に攻め込み、致命的な敗北を喫した近代3名の将軍(カール12世、ナポレオン1世、ヒトラー)の、最初の一人となったのです。しかし、カール12世は、他の2人と異なり、スウェーデンという国を中立国家、更には民主福祉国家へと導く最初の一歩を、結果として切り開いたと言うことも出来るかも知れませんね。 

最終更新日 ( 2013/07/16 火曜日 17:27:03 JST )
 
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