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【3月16日】藤井会長 写真で見るラトビアの歴史⑧ PDF プリント メール
作者 webmaster   
2013/03/16 土曜日 09:02:02 JST

 写真で見るラトビアの歴史⑧ 

       ~リガ市の発展~                                             

                                          日本ラトビア音楽協会 会長 藤井 威 

  1202年、ブレーメン司教アルベルトが500人余りの帯剣騎士団を引き連れて来訪し、数件の貧相な魚師小屋が存在するに過ぎなかったこの地に、小さな教会を建て、殿堂の拠点として以来、リガ市の爆発的発展が始まり、トイツ系の人々を中心として多数の人々が夢と冒険を求めてこの地に集ってきます。彼らの思いをあえて分類すると、次の3種類に区分できるでしょう。 

(1)自然崇拝的古代宗教を保持する先住民を改宗させ、キリスト教の幅員を伝えようとする宗教的な情熱に燃える人々、……リーダーは言うまでもなく、リガに司教座を据え、初代リガ司教になったアーノルドその人であり、武力を伴い、その活用をためらうことはなかったものの、原則として穏健な伝道活動によって福音を伝えることを意図しました。 

(2)アーノルド司教の伝道に協力する形で進出した騎士団構成員の人々、……本国で志を得ず、権力と冨をこの地に求める思いが強い武力偏重の人々であり、騎士団というよく組織化された団体をベースに、最先端の装備とよく訓練された戦闘行動により、夢の実現に邁進しようとしばしば殺害、略奪などの残虐行為に走ります。 

(3)バルト海を挟んで位置する東西ヨーロッパの通商、交易によって巨満の冨の蓄積を求める中世的冒険商人とその追従者たち。

  この三種類の人々にとってリガ市は、東西に流れる大河ダウガヴァ川の河口から15km程度さかのぼった右岸という、まさに理想的な位置にあったと言えましょう。特に第3種類の冒険的商人達にとっては、この地がかつて、バイキング達がロシアの大平原に展開する結節点となったことと同様に、大規模な東西商業活動の拠点として、願ってもない位置を占めていたのです・  ヨーロッパの主要部は、12世紀頃から中世的システムの最盛期に入り、農業生産力の向上と各種の手工業者による商品生産の活発化が進み、生産力の集中した都市部の手工業者や商人層は、中世的な身分階層に縛られぬ自由な活動を強く指向し、領主権力から特許を受けて上層市民階級による都市自治を獲得する動きが拡大します。都市自治の実権は、商品の生産、流通を管理するギルドの手に帰し、さらに多くの自由都市の枠を越えた自由市民の連合体が誕生します。ハンザ同盟の誕生です。当初は、冒険商人達の個人的な組織として成立し、バルト海のほぼ中央に浮かぶゴットランド島の中心都市ヴィスビーなどに、多くの自由都市の冒険商人たちを組織化するギルドが成立します。商人ハンザの時代と呼ばれています。このような動きは次第に組織化の程度が進み、多くの自由都市が主体的にハンザ同盟にかかわるようになり、14世紀頃より都市ハンザの時代に入ります。同盟の盟主としてリューベック市が力をつけ、やがてハンザ同盟自体が自前の海軍を持つようになり、封建君主に対抗できる力をつけてくるのです。例えばデンマークなどは、バルト海交易路を巡ってハンザ同盟と制海権を争い、海戦に至るなどという事態も発生します。

  リガ市も多くの冒険商人たちの拠点都市として急速に力をつけ、1282年には、ハンザ同盟加入が認められ、同盟内の主要都市として多くのハンザ商船が入港し、重要物産の集散と大規模な取引の場としての特権が認められ、リガ市は繁栄を謳歌するのです。リガ市の上層市民たちは、このような経済力を背景にして、先に述べた2種類の勢力(リガ司教と騎士団)と、リガ市政及びバルト地域の活動の主導権争いを展開します。13世紀末には、まず、リガ大司教(1254年に司教座都市から大司教座都市に昇格しています)の権力が低下し、次いで騎士団も軍事力の相対的低下を食い止めることが出来ず、リガ市は最終的に、上級市民達の統治するハンザ同盟自由都市に成長するのです。

   リガ市繁栄の歴史的経緯は、細かい事件を詳細に追えばきりがありません。歴史の記述はこの程度にとどめ、ハンザ同盟都市としてのリガ市の現在に残る姿を多くの写真で楽しんで頂きたいと思います。1991年のラトビア独立回復時には、ソ連邦時代の後遺症があり、かなり荒廃が進んでいたのですが、待ちに待った独立回復の歓びの中で、政府市民の一致した修復努力が実行されました。1997年には、ハンザ同盟自由都市の面影が保存されているリガ市旧市街と、その東側新市街地に19世紀末より建築されたユーゲント・シュティル(アール・ヌーヴォー)様式の建造物が多数連なる街区とかユネスコの文化遺産の指定を得るまでに蘇ったのです。

  ハンザ同盟自由都市時代の旧市街地の概略図を先ずご覧ください。北方向に流れる大河ダウガヴァ川東岸に北側リガ城(現大統領邸)から南側リガ駅まで南北につながり、旧市街東西は自然と人工の堀に囲まれ、南北は城壁砦(現在は一部復元された旧城壁だけが残る)に囲まれた城郭都市の性格が読み取れるでしょう。この旧市街地の中央を東西に自由大通りが貫き、東側、旧市街地に入る直前に「祖国と自由」の文字を刻んだ自由記念碑がそびえます。 それでは次回から、ハンザ同盟自由都市リガ市の写真ショーを掲載します。お楽しみください。

 ユーザント・シュディル街区のある新市街地  

最終更新日 ( 2013/03/16 土曜日 09:06:09 JST )
 
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