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【2月15日】写真で見るラトビアの歴史⑦ 藤井威 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2013/02/15 金曜日 14:25:37 JST

  写真で見るラトビアの歴史⑦

~チュートン騎士団傘下のリヴォニア~

                                           日本ラトビア音楽協会 会長 藤  

                                                                                                                1236年、リヴォニア騎士団を支配する帯剣騎士団は、リトアニア王国軍とのザウレの闘いで決定的な大敗を喫し、リヴォニア騎士団領は、チュートン騎士団の傘下に併合されたことを説明しました。新しい支配者の下にリヴォニア師団領の拡大努力はその後も継続し、現在のエストニア、ラトビア全域にわたって、騎士団の拠点となる城砦が建設されてゆきます。その主なものについて、原翔著「ラトヴィア」p30掲載の地図を引用しますので参照して下さい。  

  私が大使在任中に訪問したヤウンピルス城、バウスカ城、コクネセ城、ヴェンツピルス城について写真を添付します。各城の簡単な説明は写真の下に記しますのでお楽しみください。 

 

 ヤウンピルス城(19594月撮影) 1301年、リヴォニア騎士団により築かれた。現在も城主が居住している。

 

 

  

 パウスカ城(20005月撮影) 15世紀半ばにロヴォニア騎士団により築かれ、1596年にクールランド公の居城として増改築される。18世紀初頭の北方大戦役で破壊された。所有者の手により、増改築部分の補修が行われているが、恣意的修復としか思えない出来である。

 

    

パウスカ城天守よりの眺望(20005月撮影) パウスカ城は二つの川の合流点にあり、リトアニアとの国境に近く、中世は貿易拠点として繁栄した。

 

  

 コクネセ城(20005月撮影) 13世紀、この地に砦を築いていたラトバレ族は帯剣騎士団に攻められ開城した。騎士団はその跡地に強固な城を築いたが、18世紀初頭、北方大戦役により廃墟となった。

 

 

   

 

 

 ヴェンツピルス城 ヴェンツピルスは、ラトビア三大港湾の一つであり、リガ湾ダウガヴァ川河口の近代的貿易港リガ港とクルゼメ西北部でバルト海に面するヴェンツピルス港、同じくクルゼメ西部ニアリヴェンツピルヅの南に位置するリエパヤ港とともに工業商業の基地としてラトビア経済発展に重要な役割を果たしている。ヴァンツピルツ市内にあるこの城は、リヴォニア騎士団が1244年に建造したものであるが、その後、何度も改築され、種々の用途も転用されて現在は会議や展示などのイベントに使われている。

   かくして、リヴォニアにおける支配の基礎を固めたチュートン騎士団支配化のリヴォニア騎士団は、一応の安定を見、総長は絶大な権限を持つことになります。しかし、騎士団領をめぐる外部環境は着実に変化しつつあり、騎士団領そのものの性格も次第に変化せざるを得ませんでした。  外部変化の第一は、リガ市の商業都市としての発展と上層富裕市民の存在感の上昇です。リガ市の発展拡大については次回詳しく説明したいと思いますが、13世紀末頃から、リガ市の上層市民団、リガ司教、騎士団の三者間での主導権争いが激化してゆきます。1254年には、リガ市は司教座都市から大司教座都市に昇格し、他方でリガ市は1282年に中世自由都市の大連合組織ハンザ同盟に加入するとともに、同盟内で極めて重要な取引拠点の地位を獲得してゆきます。バルト海ではリューベックとグダニスクに次ぐ3番目の大きな商業都市となり、西ヨーロッパとロシアを含む東ヨーロッパとの間の通商結節点として繁栄を謳歌します。このような状況下で大司教の政治的権威は著しく低下する一方、リガ市の上層市民団と騎士団との主導権争いは続きますが、騎士団の軍事力の相対的優位性の低下は避けがたく、騎士団そのものが経済力振興に力点を置かざるを得ず、ますます軍事力の低下に直面し、先住民族との闘いにもしばしば敗れる事態を生じます。同時に、騎士団の軍事力の主力を形成していた団員騎士達の貴族化、荘園地主化が進み、騎士団運営中核の官僚化も顕著になります。さらに少し先のことですが、1521年には、宗教改革の波がバルト地域にも到来し、このことが騎士団の弱体化を加速するのです。このような状況下で、中世末期の激動期を迎えます。

最終更新日 ( 2013/02/15 金曜日 14:39:54 JST )
 
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