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【12月25日】藤井威会長の好評新連載⑤ PDF プリント メール
作者 webmaster   
2012/12/25 火曜日 18:04:13 JST
 

写真で見るラトビアの歴史⑤ 

   ~リガ司教と帯剣騎士団の活動~   

                     日本ラトビア音楽協会 会長 藤     

  13世紀前半、現在のリガ市を建設し、その周辺地域をリヴォニアと呼んで支配下においた後、騎士団はさらに周辺のリーヴ人の生活集団を各個撃破し、着実に精力範囲を拡大してゆきます。それにしても、時代の変化に決定的に立ち遅れたリーヴ人の抵抗は、驚くほど脆いものだったと言わざるを得ないでしょう。この辺り一帯を統治していた小部族国家の王カウボは、騎士団の武力に立ち向かうことの無益を悟り、1203年、自らキリスト教に改宗して騎士団との共存共栄を図ります。騎士団は、土地の確保と殖民とを進攻の目的とする以上、王のキリスト教改宗――一応布教の成功ですが――で満足する筈がありません。カウポ王はリガ市の東方約50キロ、現シクルダ市の西側ツライダに本拠を据え、木棚程度の城塞を構えましたが、騎士団の攻撃に開城を余儀なくされます。この木造城塞は騎士団の手により破壊され、1212年、アルベルト司教は現在に残る石造りの」強固な城塞ツライダ城を建設します(写真参照)。 

ツライダ城 13世紀初め、フレーメン司教アルベルトとともに、現在のリガの地に上陸した帯剣騎士団は、周辺に居住するリーヴ人の王カウボを攻め、居城ツライダを破壊した。リガ市の支配権を固めつつあったリガ大司教は、1212年、その跡地に現在の城を築き、周辺に睨みをきかせたと言う。

ツライダ城天守タワーよりの眺望 ツライダ城周辺は、ガウヤ川両岸に広がるガウヤ国立公園であり、ツライダ城はガウヤ川の両岸(リガ市側)にあり、リガ大司教の勢力誇示の絶好の拠点となった。

   

この頃、リガ司教と騎士団との指導権争い本格化し、騎士団側はツライダ城に対抗して、同城の東側を流れるガウヤ川の対岸に、現在、廃墟として残るシグルダ城を建造し(12071226)、これはリガ市の外に建てられた最初の騎士団城塞となります(写真参照)。

 シグルダ古城廃墟12061226築城) リガ大司教がガウヤ川両岸ツライダ城を固めつつあう頃、帯剣騎士団はこれに対抗して、ガウヤ川東岸、現在のシグルダ市にシグルダ城を築き、司教勢力と対抗したと言う。この城は度重なる戦乱に損傷を受けたが、18世紀初頭のスウェーデントロシアの北方大戦役の過程で完全に廃墟となった。

 

 

ここで二つほど少々脱線気味のお話をお許し下さい。

 第一に、ラトビア救国の英雄アチプレシスの神話です。この神話では、ラチプレシスが神より受けた超人的能力をフルに発揮し、騎士団に強力な戦いを挑みますが、侵略者はラチプレシスの力の源泉が、熊である母から受け継いだ、耳にあることを魔術師から聞き出し、両耳を切断した上、川に投げ込んでしまいます。人々はラチプレシス人民のためにその身を滅ぼしたことを悼み、今は安らかに眠っているけれど、ラトビアに厳しい危急が迫ることがあれば、人民の祈りに応じて再び帰ってくると信じたのです。この神話は、カウボ王の事績を背景にするものでしょうか。

 第二に、ハーメルンの笛吹き男の伝説です。ドイツ・ヴェーザー山地北麓の美しい中世都市に突然現れた笛吹き男は、市民の要請により笛を吹いて異常繁殖した鼠を退治しますが、報酬支払いに関する市民の背信に怒って、再び笛を吹いて130人の子供たちを引き連れて何処へともなく去ってしまいます。1284626日の出来事でした。  

この伝説のストーリーは如何にもおとぎ話のようですが、日付けが明確に指定されていること、町はや周辺の地理が正確であることなど特徴があり、何らかの現実の事件が伝説の背景にあるのではないかと思われ、いくつかの解釈が提示されています。  

その一つ、――伝説の笛吹き男は、騎士団で兵士や従卒などの募集を任務とする騎士団のリーダー、あるいはエージェントであり、東方で戦いに倒れるリスクはあるものの広大な土地を得て、地主貴族として豊かな暮らしに入る可能性も大きいと高らかに「笛を吹いた」宣伝文句に引かれ、130人の人々(町や周辺農村の次男三男など)が応募して笛吹き男とともに去って行った。それではどこへ? 当時の状況よりみて、ドイツ東方、バルト地域へ向かった可能性が高い。恐らく、その地でハーメルン集落を形成したのではないか――。  

皆様はこの伝説解釈をどう思いますか。う~ん、有り得るな! でも、文献等による確証は一切ありません。  

話を本筋に戻し、帯剣騎士団の活動を追ってみましょう。ここで一つ付け加えておきたいことがあります。この騎士団は既に述べたように、1202年にアルベルトによって創設されたものであり、聖地回復を目指した有名騎士団――テンプル、聖ヨハネ、チュートン(ドイツ)などの大騎士団のような豊富な戦闘経験を持たず、また所領を得ても荘園として有効に経営するノウハウもありませんでした。騎士団としても人員規模は小さく、12021204年頃の段階ではせいぜい500人程度であったと思われます。それだけにその活動は尖鋭であり、無慈悲な暴力的進攻を繰り返す性格の強いだったと思われます。この侵入者に、集中して対抗する考えの稀薄なリーヴ人の小さな生活集団は各個撃破され、カウパ王もなす術がなかったと言えるでしょう。 リガ司教アルベルトは帯剣騎士団が持つ体質的な弱点をよく承知していたと思われます。アルベルトはまず、しばしば出身地――ブレーメン、さらに広くとればザクセン公国――に帰り、騎士団員の増加に努力を傾注します。一方でこのような手段をとりながら、騎士団の活動をリガ周辺地域から東へ北へ、次々と拡大してゆきます。リーヴ人、さらに背後に土地に分布する印欧語族バルト語系の言語を持つ部族を各個撃破してゆく戦略は、スピードが勝負だったからです。

 1207年、騎士団は大河ダウガヴァ川をさかのぼり、東南方向へ向かい、現在のラトガレ州に進攻し、ラトガレ人(バルト語族の方言ラトガレ語を持つ人々)の拠点の砦を攻め破壊します。また、騎士団の拠点シグルダより北方へ向かい、ラトガレ人のこの方面の拠点ツェーシスに進攻します。スェーシス進攻は、司教アルベルト及び帯剣騎士団の将来に重要な意味を持つことになるのですが、それは次回に述べたいと思います(ここに登場した地名については、第3回に添付した地図を参照してください。 

(注)ラトガレの名はずっと後にラトビアという民族名、国名に引き継がれます。なお現在のラトビア共和国の国旗は、ツェーシス騎士団に敗れた当時のラトガレ部族の旗が王の血で白旗の両端がえんじ色に染まり、桂に乗った王の身体の部分が白く残ったことを紀元とすると伝えられています。  

最終更新日 ( 2012/12/25 火曜日 18:12:02 JST )
 
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