写真で見るラトビアの歴史④ =宣教師と騎士団の到来= 日本ラトビア音楽協会 会長 藤 井 威 12世紀――ヨーロッパ中世の盛期――は十字軍の時代として知られています。その歴史上の背景としては、聖地巡礼を中心とする宗教的熱意及び社会全般の経済的発展と農村の飛躍的な人口増加による過剰人口の発生の2点が指摘されています。そして十字軍運動は聖地確保と巡礼者保護という当初の純粋宗教的熱情から、次第に、過剰人口の移住植民指向へと徐々に変化してゆくことも指摘されています。 このような背景の下で、古来の自然崇拝型原始宗教を保持し。多数の古代的な小規模部族国家の併存するバルト海沿岸地域への宣教キリスト教化運動と騎士団の軍事力による植民活動が実現してゆきます。そして、これらの活動は主としてドイツ系の騎士団によって担われることになります。この動きの中で、バルト東岸区域はいや応なく、ヨーロッパ中世史の展開の中にくみ入れられてゆくのです。 1186年、アウグスチノ修道会マインハルト司教が、ラトビアのダウカヴァ川河口付近のリーヴ人の小集落に上陸したことが、まず記録の上にあらわれます。しかし、この宣教活動はリーヴ人の抵抗にあってうまくゆかず、その後継者シトー会のベルトルドは、リーヴ人の頭領の一人イマンツによって殺害されたと言います。 次いで1159年ブレーメン司教アルベルトが、同じくダウガヴァ川河口付近に上陸し、翌年には500人の十字軍とともに再度やってきます。このあたり一帯は以後、リーヴ人の名をとってリヴォニアと呼ばれるようになります。1201年には、ダウガヴァ川の河口より15kmほど遡った右岸に到達し、翌1202年、城壁で囲んだ都市を建設し、リヴァニアの副教座とします。現在のラトビアの首都リガ市の創設です。同年には教皇の認可を得て、帯剣騎士団が創設され、ここに宣教と同時に武力によるドイツ人移住者(騎士団関係者と冒険商人)による殖民が進められる体制が整います。 現在のリガ市の旧市街中心部には、到着したばかりの騎士団が1204年に築いた最初の砦の一部が残されています(写真参照)。現在はこの建物は工芸博物館として使用されており、外見からはこれが砦のあととは考えにくい建物ですが、中へ入ると古い城塞の名残り――例えば重厚な壁ぐみや太い柱、中世風の穴倉のような小部屋などを見ることができます。1211年には、現在のリガ大聖堂(リガ司教座)の建築が開始されます。この建築は、現在の姿に近い形になるまでには14世紀までかかります。 なお古い騎士団の砦は、1297年、騎士団と市民団との衝突によって大きく破壊され、騎士団は戦いに敗れれた市民団に対し、市街地から北方にかなり離れた地点に新しいリガ城の建設を命じました(1330年に完成)。この城は現在、旧市街地の北端、ダウガヴァ川右岸に位置し、大統領官邸として使われています(写真参照)。 帯剣騎士団がリガ市に築いた最初の砦跡。写真中央の壁面は、帯剣騎士団が1204年に築いた最初の砦の外壁であった、現在はこの建物は工芸博物館となっている(2006年5月撮影) リガ城。14世紀にリガを制圧していた騎士団と住民との衝突が起こり、騎士団の城は崩壊した。その後、戦いに敗れた住民側は、騎士団の命令でこの新城を築造したという。現在は大統領官邸である(2006年5月撮影)。 リガ城の西側。ダウガヴァ河畔よりリラの花ごしに見るリガ城。右側はマリア・マグダレナ教会
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