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【10月26日】魅力あふれるラトヴィア 森川はるか PDF プリント メール
作者 webmaster   
2012/10/26 金曜日 16:05:44 JST

お馴染みの森川はるか会員が月刊「地理」(古今書院)5710月号に掲載した「魅力あふれるラトヴィア」を紹介します。若い感覚でラトビアの魅力を見事に記述しています。彼女の成長に編集部からも拍手を贈ります。なおラトヴィア、リーガなどの表示は原文通りにしました。【Latvija編集部】

 1、はじめに 

北にエストニア、南にリトアニア、その間に位置するラトヴィア。国土は北海道ほどの大きさで、人口は約230万人(2011年)です。この国は十三世紀頃からドイツ、スウェーデン、ロシア帝国の支配に置かれ、何百年も他国の下にありました。1918年に遂に独立をしますが1940年からソ連に組み込まれ、1991年にソ連崩壊と共に独立を回復しました。2004年にEU加盟を果たし、ロシアとヨーロッパとの中でのアイデンティティを見いだしつつ、歩み続けている国です。

 2、首都リーガ 

 ラトヴィアの首都リーガ(日本ではリガが一般的ですが正確にはリーガ)は、かつて「バルトの真珠」と呼ばれていました。ハンザ同盟の名残であるドイツ風の建物や教会、アールヌーヴォー調の建物が立ち並ぶ旧市街は、世界遺産にも指定されています。美しい建物に包まれた旧市街では、市場やラトヴィアの民族衣装をまとった人々によるコンサートが行われており、ヨーロッパ的な雰囲気がとても魅力的です。旧市街を出てすぐにある、ミルダという女性が三つの星を掲げた、独立を象徴する「自由記念碑」もラトヴィア人にとって非常に大事な場所です。記念碑の下には毎日花が捧げられており、更に兵士によって警備されているという、まさにラトヴィアの歴史とアイデンティティを示す場所ともいえます。ここでは政治的な催しや様々なイベントやフェスティバルの中心的な位置としての役割も担っています。

 リーガ中心地である旧市街を離れて郊外へ行くと、第一次世界大戦の戦没者を悼む「兄弟墓地(日本のガイドブックでは兵士の墓地)」や、ソ連時代のシベリア送りに使われた列車の展示やモニュメントが残されています。しかしこのようなラトヴィアの暗い歴史を物語るものが置かれているばかりではなく、後述する「歌と踊りの祭典」のクライマックスステージとなる森林公園の野外ステージ、伝統文化保持の場として重要な野外博物館など、美しい旧市街の街並みとはまた別の顔に出会うことも出来ます。

 芸術的にも美しい街並み残る旧市街、歴史を語るモニュメント、そしてラトヴィアの伝統文化にも出会える首都リーガ。次のトピックとして、ラトヴィアの伝統文化の行事についてお話しします。 

3、夏至祭 

  ラトヴィアではラトヴィアの伝統文化がとても大切にされています。文化保存団体によって伝統的な年中行事が行われたり、ラトヴィアの伝統的な紋様が日常のデザインに取り入れられたりと、小さなところからでもその姿勢を見ることが出来ます。行事やイベントごとにラトヴィアの民族衣装をまとうことが一般的ですが、このことはラトヴィアの伝統への誇りやアイデンティティを示しているともいえるでしょう。

 数ある伝統的な行事の中でも、最も盛大で国民的なものといえば夏至祭です。冬が厳しい土地では短く美しい夏を楽しみ、夏至の日を祝う習慣があります。北欧やバルト諸国でも見られますが、ラトヴィアが一番盛大に夏至祭を行っているとされています。ラトヴィアでは夏至である6月23日を「リーゴの日」、24日を「ヤーニの日」とされており、23日の夜から24日朝にかけて終夜行われます。人々はそれぞれの田舎へ帰り、ヤーニスという名前の男性(日本で言うと「太郎」といった一般的な名前)のもとに集まって夏至祭を祝います。この夏至祭の慣習は「日本の正月とお盆がいっぺんに来た」といっても過言ではありません。この夏至祭が近づくと人々は「元気にヤーニ(夏至祭)を過ごせるようにね」と声を掛け合います。更に夏至祭前になると新聞記事のイラストに出てくる男性が皆、夏至祭にヤーニスがかぶるオークの葉の冠をかぶっており、夏至祭に対するラトヴィア人の遊び心も窺えます。 夏至祭の日、人々はそれぞれヤーニスの家に集まります。親戚や隣人ばかりでなく「友達の友達」なども来るため、初対面の男女が出会う社交的な機会でもあります。人々はラトヴィア民族衣装をまとい、ヤーニスはオークの葉の冠をかぶり、女性は花の冠を作ってかぶります。そして夏至祭の民謡を歌ったり踊ったり、ご馳走を食べたりします。夏至祭の代表的な食べ物はキャラウェイ入りチーズとラトヴィア産のビール。他にもその家ごとにいろんな食べ物が出ますが、それを片手に人々は終夜盛り上がります。この日の日没は22時くらいで、4時位から夜が明け始めますが、この夏至祭の日に眠った者は怠け者になるという逸話があってこの日は眠ってはいけないとされていますので、一般的にこの日は眠ることがありません。もともとこの夏至祭がキリスト教の「聖ヨハネの日」の行事と融合した形で定着したこともあり、西欧では火を焚いて聖ヨハネを祝いますが、ラトヴィアのこの夏至祭でも日が暮れると人々は焚火をします。

 夜が明けると干し草を丸めたものを持って川に行きます。この干し草を丸めたものは太陽の象徴であり、その干し草に火をつけて川に流すことで太陽の復活を祝います。

 こうして23日から24日にかけて眠ることなく盛大に夏至祭を行った後の24日の昼間は恐ろしいほど静かなラトヴィアとなります。尤も24日は国民休日なので仕事も休みでほとんどの店は閉まってしまい、また人々も眠りについているため、誰もいない旧市街を歩く観光客に「どうしてこんなに人がいないのか?何故店が閉まっているのか?」と怪訝な顔をされたことがあります。

 こうした伝統的な夏至祭が国民的行事として現在も根付いていますが、あくまでもラトヴィア人の伝統的な祝い方の一つです。ロシア系住民にとっての夏至祭は位置づけが異なっており、またラトヴィア人の中でも近年、現代的な要素の影響も見られます。2010年には旧市街で「皆でリーゴ(夏至祭を祝うの意)しよう!」という看板が掲げられ、この日「ヤーニスの家や田舎に行かない人々」にも呼びかけた、コンサートイベントが終夜行われました。予想以上に多くの人を動員し好評だったため、近年はこの夏至祭イベントが恒例化してきています。更に最近では、観光客向けの夏至祭の公開イベントも開催されています。ラトヴィア人の「ヤーニス」という友人がいなくとも、様々な人々が夏至祭を楽しめるように変化してきています。 しかしながら伝統文化を大切にするということは、ラトヴィア人のアイデンティティに通じるものがあります。伝統文化を守りつつも、こうした現代の要素が入ってきている。そしてそのバランスをいかにして取っていくか。これもまた、現代のラトヴィアとしての興味深い魅力の一面でもあるでしょう。 

4、歌と踊りの祭典について

  ラトヴィアは「歌の国」「ダイナの国」と言われています。ダイナ(Daina)とはラトヴィアの地に古くから伝わる民謡であり、一般的に四行詩の形を取っています。これらは農作業の合間や年中行事の時、子守や冠婚葬祭の時等に歌われてきました。こうした自然や人々の生活ぶりを歌ったダイナの数は百万篇以上ともいわれ、ラトヴィア人一人につき一篇の民謡があるとよく表現されます。口承によって継がれてきたこのダイナはやがて、19世紀末にバロンス(Krišjānis Barons18351923)によってラトヴィア全国から268815篇収集されました。この民謡収集活動をきっかけとして、ラトヴィアの人々は自民族の文化とアイデンティティの再発見することとなりました。この頃ロシア帝国下にあったラトヴィア人農民たちが、農奴解放をしたロシア側にいくことがないよう、当時の事実支配層であったバルト・ドイツ人たちが農民たちの囲い込みを行うために合唱祭を行っていました。これはドイツ人たちが「歌を通してラトヴィア人たちがキリスト教の信仰を深めている」ことに着目し、合唱を通してドイツの啓蒙主義を普及させようとしたことがきっかけでした。しかしラトヴィア人たちはやがて自主的に「ラトヴィア人の合唱祭」を行うようになり、1873年に第一回目が開催されました。これが「歌の祭典」です。当時田舎の人口増加から都市に多くのラトヴィア人が出るようになり、新たなコミュニティが形成されました。この時、互いに知っているダイナを歌うことは共通の文化を共有することになりました。一つのダイナを歌い合うこと、これが合唱活動に結びついていき、歌の祭典を作り上げていきました。歌の祭典は現在でもアマチュアの合唱団が出演対象となっており、ラトヴィア人作曲家による合唱曲、ダイナを基とした民謡の合唱編曲が主な曲目です。ラトヴィア語のダイナやラトヴィア人作編曲の合唱曲を歌うことは、自文化への意識とラトヴィア人アイデンティティの高揚につながり、1928年の独立に結びついていきました。その後ソ連に組み込まれてからも歌の祭典は続きました。実は共産主義的な思想や統一を図るためにソ連が開催を支持したのですが、結果的には合唱活動がラトヴィア人のアイデンティティに働きかけ、1987年の「バルトの鎖」(バルト三国の三つの首都を人間の鎖によって結ばれた出来事、国際社会にソ連の支配を訴える目的で行われた)やその後の独立回復運動に発展していきました。古くからラトヴィア人にとって歌とはアイデンティティ共有の大切なものであり、辛い中を生き抜く力でもありました。「歌いながら生まれ、歌いながら育ち、歌いながら生き抜いた」というダイナがあるほどです。2003年に歌と踊りの祭典(ソ連時代から踊りの演目が加わり、以降「歌と踊りの祭典」となる)は三国そろってユネスコ無形遺産に登録され、現在でも五年に一度の頻度で開催されています。またソ連時代から始められた小学生から高校生までを出演対象とした「生徒の歌と踊りの祭典」も、その五年に一度の合間に開催されています。どちらもアマチュアの合唱団であることが前提ですが、オーディションを勝ち抜いてステージに上がってくるため、どの団体もプロに引けを取らぬレベルです。合唱のコンサートの他に、伝統舞踊のコンサート、吹奏楽、オーケストラのコンサート、また伝統文化イベントも開催され、一週間の祭典の日程中は開催地リーガが笑顔と楽しさに包まれます。この時出演者は全員ラトヴィアの民族衣装をまとうことになっており、ここでもラトヴィアの伝統文化の色が強調されています。最後の合唱のコンサートでは三万人の合唱団員とそれ以上の観客が一つになって歌い合うという、心震える時間を共有します。ラトヴィアにとって非常に重要な、また忘れられない気持ちと記憶を分かち合う重要な祭典なのです。そして次の「歌と踊りの祭典」は、来年の6月30日から7月7日の開催予定、また「生徒の歌と踊りの祭典」は2015年開催予定です。

 5、ロシア系住民との関係について 

 ラトヴィアの人口約230万人のうちラトヴィア人は六割程度で、残りの四割は「ロシア系住民(ロシア人以外の旧ソ連圏の住民も含むため、このように表現される)」とされています。ロシア系住民の約三割はロシア人、約一割がベラルーシ人、ウクライナ人等でとなっています。

 首都リーガではラトヴィア人が四割程度しかおらず、ロシア系住民が五割を占めています。実際にリーガでも度々ロシア語が聞こえてきますが、迂闊にロシア語を話せば白い目で見られるのが現状です。ラトヴィア人が四割程度とはいえ、リーガにおいてラトヴィア語で話すことがラトヴィア人のアイデンティティに大きく寄与するからです。リーガの旧市街前の中央駅を越えた南側は「マスカチカ(モスクワの指小形呼称)」と俗に呼ばれています。その地区にマスカヴァ(モスクワ)通りがあることも由来していますが、「モスクワ寄り地区」と言われているほどロシア系住民が多く住んでいることも示しています。この辺りは貧しい人が多く、治安も良くないとされています。夏至祭はラトヴィア人の伝統的な文化であり行事でありますが、ロシア系住民にとっては「皆で飲んだりする日」もしくは「特に何もしない」といいます。また、歌と踊りの祭典はラトヴィア文化が一気に花開き、ラトヴィア人アイデンティティが最も高揚する祭典です。ロシア系住民にとって祭典は民族的な排他性を感じるものとなりえてしまいます。これに対してロシア系住民の反応は、「関心はあまりない」と少し距離を置いたものもあれば、「あんなに大勢の人が一つになる祭典は素晴らしい」と褒めるものもあります。実際には祭典に出演する人もいるため、一概に祭典の民族排他性が強調されるわけではありません。しかし多民族国家であるラトヴィアでは、ロシア系住民とラトヴィア人との間で一種のアイデンティティのぶつかりがあることは否めないでしょう。

また、ラトヴィアでは「市民権」を得ることにより、ラトヴィアでの永住権を認められています。市民権を得るためにはラトヴィア語や歴史などを含む一定の試験に合格しなければなりません。こうした試験を受けていない人々で、ラトヴィア国籍もロシア国籍も持たない者は「無国籍者」として扱われています。無国籍者とは、独立回復後も帰化せずにソ連時代からエストニアとラトヴィアに居住している人々とその子孫のことで、ラトヴィア人口の十六パーセント(2011年国勢調査)を占めています。シェンゲン協定に加盟しているラトヴィアの住民であるのでビザなしの訪欧ができると同時に、ロシア政府が援護するバルト三国在住の無国籍者でもあるため、ラトヴィア国籍者にはない訪露も出来る特権を持っています。外国に帰化してラトヴィアに住み続けても、年金は帰化した国から受給することができます。またロシアの年金受給年齢がラトヴィアよりも早いため、無国籍であることで両方から年金を受給できます。しかし、こうした人々が政治に関与すると親露派と組む可能性が高いため、政治的な行動等が規制されています。

2012年2月に、第二公用語としてロシア語を認めるか否かという国民投票が行われました。ロシア系住民が多いラトヴィアのこの議論は、ラトヴィア人のアイデンティティをかけた大きな出来事となりました。「ラトヴィアとラトヴィア語を守ろう」という動きが相次ぎ、芸能人を用いたロシア語反対のキャンペーンもあったほどでした。結果的にロシア語の公用語化は否決されました。ラトヴィア人からの反対多数はもちろん、「ロシア語が公用語となるとロシア側から多くの企業が進出してくるため、ラトヴィアの企業や生活に影響が出る」といった見方がロシア系住民にもあったためと言われています。

 

文化や言語の問題からも分かるように、多民族国家ラトヴィアでは様々なアイデンティティの「揺れ」があります。ラトヴィア人とロシア系住民の問題は非常に難しく、いかに共存していくか、近年ますます求められるようになりました。今後ラトヴィアのアイデンティティや社会がどのようになっていくか、我々は注意深く見る必要があります。

 

6、おわりに 

 

 「花と歌の国」「ダイナの国」美しい花や緑にあふれ、歌やダイナと共に生きてきた国であるラトヴィアは、ラトヴィア人にしばしばそう形容されます。また近年は現代文化や社会の影響を受けて変わりつつありますが、日本と比べてラトヴィアの方が伝統文化に対する姿勢が熱心であることに気付くことでしょう。

 

「多民族国家ラトヴィア」このことは必ず心に留めなくてはならない、現代ラトヴィアの一面です。今まで長く他国に支配されてきましたが、独立回復後の近年は国際化が進み、ソ連時代のことを知らない若い世代が増えています。ロシア系住民との関係やラトヴィア人としてのアイデンティティがどうなっていくのか、ラトヴィアという国を我々は様々な面から見る必要があるのです。

 

ラトヴィアは文化的にも社会的にも、様々な魅力を兼ね揃えた国です。ヨーロッパとロシアの間にあるラトヴィアに、是非足を運んでみてはいかがでしょうか。

 
最終更新日 ( 2012/10/26 金曜日 16:15:18 JST )
 
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