【9月3日】白石氏連載「日本・ラトヴィア関係史」(3) |
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2011/09/03 土曜日 20:41:38 JST |
日本・ラトヴィア関係史(第3回) 公使館設置への道のり その1 パリからの電報と石井大使の「先見の明」 外務省外交史料館 白石仁章 ラトヴィアの首都=リーガが別名「バルトのパリ」と呼ばれていることは、本会会員の皆様ならよくご存じかと思う。今回はそのパリを舞台として、日本がラトヴィアに公使館を開設するに至る交渉のある局面が展開されたことを紹介したい。 前回紹介したように、1921年3月1日に日本政府はラトヴィアを国家承認したが、これに対する謝意は、ラトヴィアの在フランス公使館から日本大使館へ書面により伝達された。 当時日本の駐フランス大使は、大物外交官石井菊次郎であった。彼が優れた外交官として高く評価されている理由の一つに、鋭い「先見性」が挙げられる。例えば、第一次世界大戦の前にも駐フランス大使を務め、大戦勃発を予測した最初の電報を送ったことは有名だ。外務次官を経て、外務大臣に就任すると「書類整備の完否は結局、外交の勝敗を決する」と看破し、その思想は現在も筆者の勤務先である外交史料館に受け継がれている。晩年には、枢密顧問官の要職にあり、日独伊三国同盟問題について、ドイツに関し「吸血を事とするが如き国柄」と警告するなど、その「先見性の冴え」は衰えることがなかった。 二度目の駐フランス大使を務めていた石井大使より1921年5月3日の内田康哉外務大臣宛電報によると、ラトヴィア政府からの謝意が記された書面に、さらに同国に日本から外交官を派遣する予定があるかにつき質問してきたことも記されていた。当時イタリアは既に公使を派遣し、イギリス、フランスも公使を派遣する予定だと同書面には記されていた。ラトヴィア政府が暗に日本からの外交官派遣を求めていたことは明らかだ。 ここでも石井大使は「先見の明」を発揮し、リーガに外交官を派遣することを要請している。この後、1929年になってようやくリーガに正式な公使館が開設されることとなる。しかし、そこに至るまでには順次紹介していく様々な紆余曲折があるのだが、奇しくもパリにおいて公使館開設に至る重要な一歩が刻まれたのであった。 リーガ市の美しい街並みは「バルトのパリ」と称される。 こちらは本家パリの写真です。 【8月16日】好評連載「日本・ラトヴィア関係史」(2) 【8月1日】新連載「日本・ラトヴィア関係史」(1)
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最終更新日 ( 2011/09/03 土曜日 20:53:16 JST )
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