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【8月10日】歌の祭典の歴史(文:堀口大樹) PDF プリント メール
作者 webmaster   
2011/08/10 水曜日 16:59:54 JST

  堀口大樹ラトビア語教室講師の力作「歌の祭典の歴史」をアップします。2008年(第24回)の祭典に当協会から43名が参加しましたが、参加者感想の共通点は「この凄さは言葉では語りきれない、実際に見なければ分からない…」。次回開催は2013年。当協会では、参加ツアーを企画する予定です。【Latvija編集室】 

※ラトヴィアなどの表示は原文のままです。 

歌の祭典(Dziesmu svētki)の歴史 

歌の祭典の歴史の時代区分

 

歌の祭典の発展はラトヴィアの社会的、政治的状況により、5つに時代区分される。

 

前史:19世紀半ばから1873年(第1回祭典)まで

第1期:19世紀末から20世紀初頭(第1回第5回)

第2期:ラトヴィア最初の独立時代(第6回第9回)

第3期:ソ連占領時代、第2次世界大戦

ラトヴィアソヴィエト社会主義共和国時代(第10回第19回)

第4期:民族覚醒運動(Atmoda)、「歌の革命」(Dziesmotā revolūcija

ラトヴィア独立回復後(第20回

 前史:19世紀末から20世紀初頭(第1回祭典第5回)

 本来歌の祭典はラトヴィア人だけの伝統ではなく、19世紀初めにはオーストリア、スイス、ドイツなどヨーロッパで広く行われていた。合唱は最も民主主義的な芸術音楽の形であり、民族全体を愛国心や民族運動に駆り立てる力を持っていたからである。例えば1848年のライプチッヒでは5000人もの男性合唱者が集っている。

 バルト3国の大都市の多くは中世ドイツ人商人の手により建てられたが、19世紀当時この地域にはいまだ多くのドイツ人が支配階級として住んでいた。彼らはドイツ・バルト人とよく呼ばれている。19世紀半ばごろから、このドイツ・バルト人たちにより現在のラトヴィアでも合唱(主に男声合唱)が盛んになっていく。

 ラトヴィアの地方や小都市では、1860年代後半から急速に合唱が盛んになり、歌唱や演劇など様々な文化的な団体が誕生していく。その際、精神生活の充実という共通の目的により、民族を団結させる「合唱」という最も民主主義的な芸術形式に目をつけたのが、その後の民族・独立運動を展開していく当時のラトヴィア人知識階級新ラトヴィア人 (Jaunlatvieši) であった。同じく1860年代後半から現在のラトヴィアの小都市で歌の祭典が行われるようになっていく。

帝政ロシア時代のリーガでは、古くからのドイツ・バルト人とロシア人が多く暮らしていた。ドイツ人が大都市に暮らす支配階級であったならば、ラトヴィア人はドイツ人の地主の下で暮らす被支配階級であった。当時のラトヴィア人知識階級は、ドイツ語やロシア語で教育を受けて、多くの新ラトヴィア人も帝政ロシアの首都ペテルブルグで学んでいた。

 合唱の持つ社会・民族を結束させる力に目をつけた新ラトヴィア人たちではあったが、問題になったのは、レパートリーにラトヴィア人作曲家の作品が少なく、多くが他の民族の合唱曲を翻訳した歌詞で歌っていたことであった。盛んになりつつあったラトヴィアの合唱運動の未来に大きな不安を感じ、仕事に着手したのは、教育者のツィムゼ(J.Cimze)と、リーガラトヴィア人協会(Rīgas Latviešu biedrība)であった。

 この協会の設立の背景には、1867年のフィンランドや現在のエストニアで起こった飢饉がある。彼らに援助を行うため、リーガに住んでいたラトヴィア人により、ラトヴィア援助協会(Latviskā palīdzības biedrība)が設立された。エストニア人への援助の必要性がなくなったその後も、この協会はリーガで多数派とはいえなかったラトヴィア人たちの文化活動を指揮するリーガラトヴィア人協会として残った。まさにこの協会が1873年に行われた第1回全ラトヴィア歌唱祭を企画し、当時の首都ペテルブルグで学んでいたラトヴィア人の作曲家たちと協力をし、第1回全ラトヴィア歌唱祭の準備に取り掛かった。

 

第1期:19世紀末から20世紀初頭(第1回第5回)

 現在のラトヴィアの地域は、当時のロシア帝国のクルゼメ県、ヴィゼメ県、ヴィツェプスク県(現在のベラルーシに重なる)として行政区分されていた。

 当時の県知事の許可を得たり、皇帝アレクサンドル2世の統治25周年に合わせて(第2回)祭典を行うなど、帝政ロシア時代の権力とうまくやり取りを行うことでラトヴィア人たちは祭典の実行の許可を得ていた。

 当時、ドイツ・バルト人たちとラトヴィア人たちによる祭典は別々に行われていたが、リーガ市民のドイツ人たちは、農民のラトヴィア人たちの合唱団が引けをとっていないことに驚いたという。

 第1回祭典は1873年6月26日から29日(新暦で7月8日から11日)に行われ、主催はリーガラトヴィア人協会、実行委員長は同協会会長トムソンス(R. Tomsons)であった。

 全体合唱には45の男性合唱団、計1003人が参加をし、教会音楽や世俗音楽のコンサート、歌合戦が行われた。全体合唱では、レパートリー25曲のうち12曲がラトヴィア人作曲家によるものであった。

 第2期:ラトヴィア最初の独立時代(第6回第9回)

1918年11月18日にラトヴィアはロシア帝国からの独立を果たす。独立国となった時代には、当時のラトヴィア大統領チャクステ(Čakste)が祭典のオープニングの祝辞を述べたことから、祭典は民族国家となったばかりのラトヴィアにとってすでに大きな意味を持っていたことが伺える。また全体合唱のレパートリーのほぼすべてが、ラトヴィア人作曲家による作品であったりと、祭典はまさに独立した民族の自由を満喫していた。またこの時代からオーケストラや吹奏楽団などのコンサートも平行して行われるようになり祭典の規模は大きくなっていく。

 第3期:ソ連占領時代、第2次世界大戦ラトヴィアソヴィエト社会主義共和国時代(第10回第19回)

第2次世界大戦後、ラトヴィアがソヴィエト連邦の支配下に入ると、祭典の運営はラトヴィア共産党とラトヴィアソヴィエト社会主義共和国連邦当局の手に委ねられるようになる。そしてこれまで、全ラトヴィア歌の祭典という名称が、ソ連の支配下に入ったことによりソヴィエトラトヴィア歌の祭典と冠されるようになる。

ソ連時代、民衆の芸術活動は一般に広く支持され、合唱活動、舞踊活動、音楽活動は衰えることはなかった。またこの時代のラトヴィア国家音楽院では、合唱指揮科、音楽教育科、文化活動科など新たな学科が設立された。1955年から歌の祭典に踊りの出し物が加わり、踊りの祭典(Deju svētki)が生まれる。この伝統は独立後の現在まで続いている。

しかし当局により5年に一回の祭典のサイクルが、政治的な記念日()にあわせて変則的になった。例えば、「ラトヴィア歌の祭典70周年記念・ソヴィエトラトヴィア第1回歌の祭典」(1948年)を皮切りに、「ソヴィエトラトヴィア25周年記念歌の祭典」(1965)、「レーニン生誕100周年記念・共和国30周年記念ソヴィエトラトヴィア歌と踊りの祭典」(1970)、「ソヴィエト連邦設立50周年記念・歌の祭典100周年記念ソヴィエトラトヴィア歌と踊りの祭典」(1973)、「10月社会主義大革命60周年記念・ソヴィエトラトヴィア37周年記念歌と踊りの祭典」(1977)、「ラトヴィアにおけるソ連権力回復40周年記念ソヴィエトラトヴィア歌と踊りの祭典」(1980)、「大祖国戦争におけるソ連人民の勝利40周年記念・ラトヴィアにおけるソ連権力回復45周年記念ソヴィエトラトヴィア歌と踊りの祭典」(1985)とすることで、共産党はありとあらゆる口実を見つけて政治的記念日を付加し、祭典に自らの影響力を忍び込ませた。

ソ連時代のレーニンの言葉「芸術は人民のものである(Māksla pieder tautai)」というスローガンは、「芸術活動は義務である!自主活動(余暇に行う活動、趣味の意味である)にはかくかくしかじかの割合の労働者が参加しなくてはいけない!すべてのコルホーズや工場には合唱団がなければならない!」と解釈されていた。このような当局の強制ともいえる自主活動の促しは「自主」とは一見互いに相容れないが、一方で歌や踊りを愛する人にとっては好都合であり、逆説的だがこういった国家によるアマチュア芸術活動の奨励がなければ、ソ連時代の合唱運動の発展や歌の祭典自体の存在も危ぶまれていたかもしれない。

ソ連時代もラトヴィア人作曲家による新曲やアレンジなどは続いていた。ラトヴィアの民族衣装を着たり、民族装飾を祭典のポスターに取り入れたり、舞台建築の点においても、形式的には民族主義的であった。しかし内容的には、レパートリー中のラトヴィア人作曲家による作品の割合は明らかに低下し、その代わりに共産党や祖国ソ連を賛美する歌や、ソ連のその他の共和国の民族との友好を歌った歌が取り入れられたり、歌詞内容について当局の検閲を受けた。また他のソ連の共和国からの代表団も参加するなど、祭典はラトヴィア人のものだけではなく、次第に「インターナショナル」になっていく。

 第4期:民族覚醒運動(Atmoda)、歌の革命(Dziesmota revolūcijaラトヴィア独立回復時代(第20回第23回)

 80年代の民族覚醒運動はラトヴィアの政治家や芸術家や知識人、亡命ラトヴィア人の活動が大きいが、そこには歌が大きな役割を果たしていた。ソ連時代に禁止されていた独立時代の国歌「神よ、ラトヴィアに幸いあれ」を歌う権利回復は、独立回復とまさに一致している。

 独立回復宣言後の2ヶ月後、1990年7月初めに行われた歌と踊りの祭典では、名称も「第20回全ラトヴィア歌の祭典・第10回踊りの祭典」となり、これは今回2008年の祭典の名称「第24回全ラトヴィア歌の祭典・第14回踊りの祭典」にも受けつがれている。

 この期間中で最も大きかったのは、他のバルト諸国とともにラトヴィアの歌と踊りの祭典がユネスコの世界無形文化遺産に登録されたことであろう。これにより歌の祭典はバルト諸国が世界に誇れる伝統と文化であることが証明されたのである。

 

ラトヴィア国外の歌と踊りの祭典

第二次大戦後、約10万人のラトヴィア人が西側に亡命したが、戦後で混乱していた時代でも異国の地でも、ラトヴィア人は歌を通じて自分たちのアイデンティティーを確認していた。

1946年、英米仏軍が占領していたドイツでラトヴィア人による最初の「歌の日」が確認されている。これはニュルンベルグ近郊の町など7つの都市で行われた。その他にもイギリス(「歌の日」1949年から1986年)、オーストラリア(「ラトヴィア文化の日」1951年から1989年)、カナダ(「歌の祭典」1953年から)、アメリカ(「アメリカラトヴィア人全歌の祭典」1953年から)、ヨーロッパ(「ヨーロッパラトヴィア歌の祭典」1964年から1989年)で行われてきている。ラトヴィアのソ連からの独立後、歌の祭典は開かれなくなった国もある。最も大規模な祭典はアメリカのラトヴィア人による歌の祭典で、2007年にインディアナポリスで行われている。

ラトヴィア国外の祭典も、ラトヴィア国内の祭典同様に様々なジャンルの芸術の展覧会や演劇、踊り、音楽のコンサートが行われ、ソ連時代にはラトヴィアで演奏ができなかった作曲家の曲を演奏することができた。合唱指揮者には亡命したラトヴィア人が呼ばれた。亡命ラトヴィア人による合唱団や音楽アンサンブルは、独立後のラトヴィアの祭典に毎回招待される。

 

 社会学調査「変動する社会環境における歌の祭典」

文化省の指令により2002年に行われたこの社会学調査では祭典の運営関係者や参加者、音楽学者、一般人を含めた1000人が対象のアンケート調査により、歌の祭典の実態を検証した調査報告書である。

 

祭典の参加経験者の割合は調査対象の1000人のうち、女性で37,1%、男性で19,5%であった。

典型的な参加者は、25歳以下の若い女性、ラトヴィア人、地方出身、高等教育を受けたか、現在学生であり、自分を中流階級の上に置いている。一方、典型的な観客は、40歳以上の女性、ラトヴィア人、高等教育を受け、同じく自分を中流階級の上に置いている。

 

歌の祭典の意味について多くの回答者は、大きな文化的伝統、ラトヴィア人らしさが最も発揮される場所、国際的なラトヴィアの位置づけに大きな意味を持っているもの、そして開催中自分がラトヴィア人であることを確認できる機会としている。また娯楽であると同時に、感情が高まるまたとない機会である。ラトヴィア人の民族的アイデンティティーに加え、民族の社会的・政治的結束を養うため意味を持っていることは、関係者、マスメディア、一般人ともに共通した意見である。

 

多民族国家のラトヴィアでは、歌の祭典への関心は民族別に異なる。その意味で祭典は多民族社会全体を結束させるよりも、ラトヴィア人を結束させる力を持つ。ラトヴィア人が集団で歌の祭典に関わるのに対し、非ラトヴィア人の祭典への関わり方は個人的である。しかし一方で同時に、半分近くの回答者は、民族の違いや経済的格差、世代を忘れさせる効果を祭典は持っていると答えている。

資本主義社会では、自発的な文化活動には時間のなさが障害となっており、ラトヴィアも例外ではない。よって祭典への参加を念頭に入れた活動には、自身のモチベーションが必要である。

大衆文化の影響は、歌の祭典にも入り込んできている。例えばそれは多声よりも2声や1声が、アカペラよりも伴奏つきの曲が中心になりつつあること、演奏の簡素化、電子楽器の使用、舞台の音響に反映されており、ソロ歌手、ポップスの人気歌手や舞台演奏家が招待されることも珍しくない。これを支持しているのは祭典の運営者や芸術監督であり、逆に指揮者や音楽学者は本来の伝統的な形式を保守したいとしている。このように全体合唱の役割や人間の声自体の役割が小さくなっていると指摘される傾向が出てきている。またテクノロジーの発達による祭典のショー化も危惧されている。

祭典の芸術的側面について、まずプロの音楽家とアマチュアの参加者の意見の相違がある。それはレパートリーの難易度である。プロが毎回の祭典でレパートリーの難易度を上げる傾向があるのに対し、アマチュアはその難易度についていくのが大変であるとしている。またプロの中からも祭典のレパートリーの高い難易度により、アマチュア合唱団のレパートリーそのものが狭まっているという声もある。しかしアマチュアにとって祭典の芸術的側面はあくまで多くの側面の中のひとつに過ぎず、祭典は民族のお祭りであるとする意見が多い。

レパートリーについては、その難易度と同時にその内容も問題である。観客が知っているような歌か、民謡のアレンジか、宗教曲か、現代作品か、の点で常にバランスをとる必要があるのは誰もが認めていることである。

 変わらないものと変わるもの

社会による権威と国家による援助で祭典が伝統を維持する力は増しており、祭典の存続とそのための伝統の維持に多くの人が肯定的である。それはまたレパートリーへの要望にも現れ、レパートリーの中心はやはり民謡であるべきというのは多くの人の願いである。

一方で、祭典はその場で動かないものではなく絶えず動いていくものである。市場経済の中で、文化への姿勢、人と人とのつながり、余暇の過ごし方が多様化しつつある。その中で人々が今後どのようにして時間をやりくりして音楽と関わっていくかが問題である。

また参加者の多くが若い女性であるという、年齢と性別による不均衡をどのように是正していくのか?さらに祭典にとって、参加者が「大都市」と「地方」から来ていることを認識することは重要である。大都市の人口は地方の3倍にもかかわらず、地方からの参加者や観客も多く、祭典でも重要な位置を占めている。しかし学校や公共交通機関などの合唱運動のために必要な地方のインフラをどのように整備するか?主に海外を中心に活動し自分のCDを出す「エリート合唱団」が祭典に参加しないこと、ポップスしか聴けない若者など、祭典に対する価値観やそもそもの美的感覚が多様化していることが、祭典の今後を占う要素である。

 

「第24回全ラトヴィア歌の祭典・第14回踊りの祭典」

 

 

 

  2008年7月5日から18日まで行われる今回の祭典。8日間の間にリーガで54もの大小さまざまな合唱、吹奏楽団、民族楽器コークレ、オーケストラ、踊りのコンサートやコンクール、民族工芸品や民族衣装の展示会、演劇の上演が行われた。

 

7月5日のオープニングコンサート「歌いながら生まれ 歌いながら育った(Dziedot dzimu, dziedot augu)」(芸術監督は日本ラトヴィア音楽協会会員アイラ・ビルジニャ)に始まり、7月6日祭典の参加者がリーガの街を練り歩く「祭典の行進(Svētku gājiens)」、8日に行われる通称「歌合戦(Dziesmu kari)」もしくは「合唱団戦(Koru kari)」と呼ばれる合唱団コンクール(Koru konkurss)、11日の踊りの祭典クロージングコンサート「時を踊り通して(Izdejot laiku)」、12日の歌の祭典クロージングコンサート「ラトヴィア 太陽の地」(Latvija – saules zeme)では祭典の参加合唱団が祭典の最終日に森林公園(Mežaparks)でひとつのステージ上に会した全体合唱(kopkoris)などが、祭典の最も大きな目玉であった。

 

歌の祭典クロージングコンサート「ラトヴィア 太陽の地(Latvija - Saules zeme)」では250の混声合唱団計8000人と女性・男性合唱団4000人をはじめ、また選び抜かれた舞踊アンサンブルや吹奏楽オーケストラ、ラトヴィア公共楽団などが結集した。人にとって太陽とは世界の中心、再生の象徴であり、すべてのよいことを運ぶ者であることをコンセプトにしている。

  【4月1日】「ラトビア歌と踊りの祭典」早稲田写真展

 参考文献・サイト

Dziesmu svētku mazā enciklopēdija. 「歌の祭典小百科事典」 

Musica Baltica.2004.

Dziesmu svētki mainīgā sociālā vidē.「変動する社会環境における歌の祭典」 http://www.km.gov.lv/ui/imagebinary.asp?imageid=980(文化省HP

http://www.dziesmusvetki2008.lv(「歌の祭典2008」HP

 

このレポートは以上の文献・サイトを翻訳しまとめたものです。

 

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最終更新日 ( 2011/08/18 木曜日 21:57:38 JST )
 
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