Home   トピックス   ラトビア語教室  
2024/07/02 火曜日 08:23:12 JST
メインメニュー
Home
トピックス
協会案内
ラトビア音楽情報
協会ニュース「latvija」
検索
お問合せ
ラトビア語教室
協会合唱団「ガイスマ」
管理用エリア
A blog of all section with no images
【12/13】日ラ音楽協会の混声合唱団「ラトビアの歌をうたう会(仮称)」 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2008/12/15 月曜日 00:43:13 JST
128日から団員募集を開始しています 

去る7月「歌の祭典」に参加された一部の方々からラトビアの歌をうたう合唱団を結成しようとの声があがってから早くも5ケ月になりました。この間、有志関係者により話し合いが行なわれ、当協会設立の目的、日本とラトビア共和国との友好関係の健全な形での発展を目指して合唱団「ラトビアの歌をうたう会」(仮称)を結成し、2009113日(火)より活動を開始するために合唱団員を募集することに致しました。

 

この募集には日本ラトビア音楽協会会員、「歌の祭典」見学旅行に参加された方、会員から紹介された方、または当合唱団が入会を適当と認めた方であれば、どなたでも、合唱経験の有無、上手下手に拘わらず参加できます。遠隔地にお住まいのため普段練習に参加できない方への対応も検討中です。

 

練習は指揮者山脇卓也氏(プロフィール参照)の指導の下に、原則として月2回、毎月第二及び第四月曜日(1月第二のみ例外)、渋谷駅東口近くのアイビスビル10Fで午後630分より830分まで、先ずはラトビアの親しみやすい歌を中心に行なわれます。会費は月額2000円。                   

募集は128日から開始しました。応募者が20名に達した時点で当合唱団の結成を宣言し、上記の通り明年1月13日より活動を開始します。尚、応募者が約50名に達した時点で一時的に募集を中断します。これは練習会場の調整等のためです。予めご承知置きください。

 

皆様の積極的なご参加を心より期待しております。

 [指揮者プロフィール 山脇卓也]

早稲田大学大学院理工学研究科修士課程電子情報通信学専攻修了。指揮を故北村協一氏に師事、合唱全般において栗山文昭氏の影響を大きく受ける。卒業後無線機器メーカーにおいてエンジニアとして働く傍ら合唱団「お江戸コラリアーず」を指揮し各種コンクール等で活躍。全日本合唱コンクール東京大会において4年連続金賞を受賞するなど高い評価を得ている。「第22回ラトビア歌と踊りの祭典」の大ステージで歌った経験を持つ。現在、合唱団「お江戸コラリアーず」、東京稲門グリークラブ指揮者。日本合唱指揮者協会会員。

 応募方法と申し込み先 

応募される方は下記をご記入の上、フアックスでお申し込みください。

                記 

1、氏名

2、住所

3、希望パート

3、e-mail アドレス

4、電話番号

5、Fax 番号

6、所属団体

日本ラトビア音楽協会会員 歌と踊りの祭典参加 会員の紹介 自由参加など

◎ご紹介応募の方はどなたのご紹介かお知らせください。

◎自由参加の方は、xxx合唱団、xxx協会、xxx大学など、現在の所属団体をお知らせください。

7、新しい合唱団「ラトビアの歌をうたう会」(仮称)に対するご希望、ご要望、(合唱団の名称についての提案も含めて)何なりとご記入下さい。【Latvija編集室】

 8、申し込み先日本ラトビア音楽協会 事務局

 FAX: 0427-40-4725 

写真

ラトビアで好評を博した「歌と踊りの祭典」視察団の合唱(088月)

最終更新日 ( 2008/12/21 日曜日 23:34:20 JST )
 
【12/10】リガ大聖堂少年合唱団 東京カテドラル聖マリア大聖堂演奏会 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2008/12/13 土曜日 13:16:20 JST

唖然とする美しい響き、高い芸術性。これぞ世界に冠たる合唱王国ラトビアの真髄!

 

 待望久しいリガ大聖堂少年合唱団の東京演奏会を聴いた。それも、彼等に最も相応しい「東京カテドラル聖マリア大聖堂」で。文字通り天に届く天使のようなボーイソプラノの美しい声が、この会場でしか味わえない素晴らしい残響と共に会場を包み込み、何とも至福の2時間余だった。一夜明けてもまだ、少年たちのあどけない表情と共に、コンサートの感動と興奮が醒めない…。超満員だった聴衆の一人ひとりが同じ気持を味わっているに違いない。

リガ大聖堂といえば巨大なパイプオルガンがあまりにも有名で、私もその荘厳な響きを直接耳にしたことがある。今回はその大聖堂の正オルガニストであるアイワールス・カレイスが一緒に来日し、カテドラルが誇る美しい音色のパイプオルガンを演奏した。少年合唱団とオルガンが一体になった音楽は、正に世界に冠たるオルガンと合唱の国・ラトビアの真髄を極めたもので、あたかもリガ大聖堂の中にいる錯覚を味わった。

今回の来日メンバーは青年部13名と少年部25名の計38名。まず開幕にア・カペラで演奏されたラトビア人作曲家、ウギス・プラウリンシュの「ミサ・リジェンヌ」の美しさと高い芸術性に度肝を抜かれた。半世紀以上も合唱を続けている私の最初の印象は“合唱が違う!”。これがラトビア合唱の伝統なのか。青年部の豊かな声と歌唱力でハーモニーを分厚くして芸術性を高めながら、あくまで舞台の主役は少年たち。この難曲を、前列にいるとりわけ小さい少年が無邪気な表情で歌っていることが信じられなかった。少年部だけで演奏したアベマリア二曲、とりわけ年少の14名が一段高い場所に移動して、高いピッチのユニゾンで歌ったグノーは美の極致だった。

青年部が加わったバッハ、ラフマニノフ、デュプレ、モーツアルトなどの作品でも舞台の主役はあくまで少年たち。それぞれの深い表現は到底少年の演奏とは思えなかった。モーツアルト「レクイエム」の美しいハーモニーに思わず涙ぐんでしまった。

 後半には馬の足音などの擬音を入れながら得意のラトビア民謡を4曲演奏し、最後はバッハの「クリスマス・オラトリオ」に始まるクリスマス・ソングを歌うなど、この合唱団の持つ多彩なレパートリーと可能性を存分に楽しませた。アンコールで歌った日本語の「きよしこの夜」の美しさに体全体が痺れてしまった。

 指揮のマルティンス・クリサンスの物静かで控え目な動きは、逆に底知れず奥の深さを感じた。文字通り合唱王国の卓越した指揮者であることを証明した。美しいテノールソロも披露した。

 ラトビアではパイプオルガンと合唱が一体になった名曲が多いが、日本ではまだこの響きの素晴らしさや表現の豊かさにあまり注目されていない。各地に埃の被ったパイプオルガンも多いだけに、もっと多くの人が親しむべきだと痛感した。

 今回のコンサートツアーは当日本ラトビア音楽協会が後援、客席ではラトビア語教室のメンバーや多くの会員が想像を絶した素晴らしさに酔い、合唱の国ラトビアの伝統と力を改めて実感した。大使館のグナさん、オレグスさんら、多くのラトビア人も客席にいたが、それぞれの表情に誇らしさが垣間見えた。(徳)

 

【写真はアルス東京提供】

 

最終更新日 ( 2008/12/21 日曜日 23:34:30 JST )
 
【12/5】ラトビア共和国・ヴァイヴァルス大使を関西学院にお迎えして PDF プリント メール
作者 webmaster   
2008/12/09 火曜日 23:24:23 JST
90年前に関学で教えたラトビア人・オゾリンが取り持つ縁「大使はいつも笑顔で、その場の空気を和ませてくださる、私にとっては“特別の存在”です」。 

関西学院 学院史編纂室 池田 裕子

 

 

 ペーテリス・ヴァイヴァルス大使を関西学院にお迎えする日がやってきました。高等学部(文科・商科)で英語を教えていたイアン・オゾリンの辞職は1921年のことでしたから、関西学院にとっては、87年振りにラトビア人の訪問を受けることになります。ラトビア共和国が独立を宣言して90年目に当たる記念すべき年に、初代駐日大使が関西学院を訪問されることを知ったら、オゾリンはどんなに喜ぶでしょう?!

 

 10月10日午前10時10分、永田雄次郎学院史編纂室長と私は兵庫県公館に到着しました。前庭には、ラトビア国旗と日の丸が掲げられていました。現在、大使は知事を表敬訪問されているのです。室長と私は、公館の美しい庭を散策しながら大使を待ちました。

 10時半過ぎ、大使と大使館員オレグス・オルロフスさんが出て来られました。関西学院の公用車に、運転手を含め大人5人が乗り込むと、後部座席は密着状態です。少しでも足元を広くするため、助手席を目一杯前に出し、その後ろに大使にお座りいただくことにしました。その横で、オレグスさんと私は小さくなって座りました。一国の代表をお迎えするには申し訳ないような狭さでしたが、気さくな大使は笑顔で乗り込んでくださいました。

 ここから西宮市にある関西学院までは約1時間のドライブです。その途中、神戸文学館に立ち寄ります。オゾリンが教えていた当時、関西学院は原田の森(現在の神戸市灘区)にありました。そこは現在、神戸市立王子動物園(リガ市から寄贈されたインドゾウ「ズゼ」がいます)になっています。そして、当時ブランチ・メモリアル・チャペルと呼ばれていた建物が今は神戸市の所有となり、神戸文学館となっているのです。

 神戸文学館では、山本幹夫館長と学芸員の義根益美さんが迎えてくださいました。ここで驚いたのは、大使が日本文学に大変お詳しいということです。実に多くの作品をお読みになっていて、今年は逃したけれど、村上春樹にぜひノーベル文学賞をとおっしゃいました。「村上春樹は神戸の隣の芦屋市の出身です」との館長の説明に、大使は一層関心を深められたようでした。

 文学館の中で神戸出身の文学者やオゾリンの話をした後、「それでは、記念撮影をしましょう」と言って外に出ました。石垣に刻まれた『関西学院発祥之地』の文字を目指して階段を下りた時、一人の外国人青年が通りかかりました。青年の胸に「ヤーニス」という名札が見えました。そこで、オレグスさんが声をかけられると、何とこの青年はラトビア人だったのです! しかも、「ヤーニス」はオゾリンのファースト・ネームです。ヤーニス君は日本を旅行中で、東京から歩いてここまで来たそうです。この思いも寄らぬ奇跡的邂逅に、皆、言葉をなくしました。人間の力の及ばない、大きな不思議な力が働いているとしか思えませんでした。大使は「池田さんが呼び寄せたに違いない」とおっしゃいました。「いいえ、オゾリンが引き合わせてくれたのだと思います。だって、名前が同じですから」と私はお答えしました。「ここはラトビア人をひきつける特別な場所かもしれない」と大使は感慨深げでした。「ラトビアのことを書いた本を大使館から寄贈するので、文学館の中にラトビアのコーナーを作ってもらえないでしょうか?」と大使は山本館長に申し出ておられました。「できれば、そこにオゾリンの紹介文も付けてください」と私からもお願いしました。館長も義根さんも「ぜひ、そうしましょう」と言ってくださっていましたが、このヤーニス君との邂逅により、それはそうすべき必然があるように思われました。 

 印象深いひと時を過ごした神戸文学館をあとに、西宮市に向かいました。関西学院でお会いいただく方々のことを説明している内に、車は西宮上ケ原キャンパスに到着しました。正門を入って学院本部前で車を停め、院長補佐の舟木讓先生の歓迎を受けました。3階の院長室にご案内すると、外務省の天江喜七郎参与(関西日本ラトビア協会会長)は既に到着されていました。

 ルース・グルーベル院長主催の歓迎昼食会は12時45分からです。大使は、5月に行われた在大阪ラトビア共和国名誉領事館開設記念レセプションで、院長とは既に顔を合わされています。理事会から駆けつけられた院長としばし歓談された後、2階に用意された昼食会場に向かいました。ヴァイヴァルス大使、オレグスさん、天江さんをお迎えしての昼食会への関西学院側出席者は、グルーベル院長、畑静子前院長夫人(オゾリンを関西学院に紹介した畑歓三の息子の妻)、杉原左右一学長以下9名でした。

 アメリカの南メソヂスト監督教会が創立し、後にカナダ・メソヂスト教会が経営に参加した関西学院では、今も会議開始時や食前に祈りをささげる習慣があります。食事を前に、宣教師でもある院長が祈りの言葉を口にされると、皆目を閉じて下を向きました。前もってこのことを大使館にお伝えし、大使には祈りの習慣はないけれども関西学院のやり方を尊重するとの回答を得ていた私は、こっそり目を開けて大使がどうされているか確認しました。すると、大使もしっかり目を開けておられました! 

 

 昼食会での会話は、最初から最後まで英語でした。院長はアメリカ人ですから、英会話に何の支障もないのは当然ですが、その他は日本人7人、ドイツ人1人です。戦前は「英語の関学」と言われていたらしい関西学院ですが、そんな看板はとっくの昔に下ろしています。それでも、大使をお迎えするということで、出席者は持てる以上の力を振り絞ったのでした。

 今回の準備をする中で、産業研究所のホルガー・ブングシェ先生のお父様(88歳)がベルリン生まれ、ラトビア育ちのドイツ人であることを知りました。関西学院の中でやっと見つけた唯一のラトビア関係者です。ブングシェ先生は、お父様からお聞きになった体験談をご披露くださいました。また、畑静子さんは、3月に亡くなったご主人(前院長)が、ソ連時代に関西学院大学交響楽団演奏旅行でリガを訪問された時の写真をお持ちくださいました。

 大使は、オゾリンに関するラトビア語の資料を院長と私にプレゼントしてくださいました。ラトビア語は全くわからないながらも、じっと見ていたら、意味が推測できそうな部分もあって、『ターヘル・アナトミア』を前にした杉田玄白の心境です。10年間恋焦がれてきたオゾリンのことが書かれているというだけで、私には光り輝いて見えました。

 食後は、院長と室長によるキャンパス・ツアーです。話が弾み、昼食会が20分以上長引いたため、お見せできたのはハミル館だけでした。旧キャンパス原田の森から移設されたハミル館は、オゾリンがいた当時、高等学部文科の校舎として使われていました。現在は心理学の研究室になっています。ここで、名誉教授の宮田洋先生が何故か見事なポーランド語でご挨拶され、大使は度肝を抜かれたご様子でした。

 ハミル館を出られた大使とオレグスさんは、スパニッシュ・ミッション・スタイルと呼ばれるキャンパスをお歩きになって、「ここは日本ではないみたいですね」とおっしゃいました。

 

キャンパス・ツアーの後は、いよいよ関西学院大学主催特別講演会「バルト海の真珠ラトビア、EUの一員Latvija - Baltijas pērle Eiropas Savienībā」です。会場は、この春できたばかりのG号館101号教室。講演会のことが読売新聞と朝日新聞で紹介されたため、学生だけでなく、一般の方にもお越しいただき、200名程集まりました。

 杉原学長の挨拶のあと、ラトビア紹介のDVDを約10分間流しました。そして、大使と通訳オレグスさんの登場です。大使から関西学院でご講演いただけるとの話をお受けした時、英語か日本語通訳付きのラトビア語でとのご提案でした。講演会を協賛する経済学部と相談したところ、迷うことなくラトビア語でお願いすることになりました。講演会参加者から「大使の話される美しいラトビア語の響きに魅了された」との声が寄せられましたから、この選択は大正解だったと思います。

 私自身は、中座している時間もあったため、講演内容の詳細をお伝えすることはできませんが、いくつか印象に残った言葉を挙げてみましょう。「皆さんはラトビアを遠い国と思っておられるかもしれません。しかし、日本とラトビアは案外近いのです。両国の間にはロシアがあるだけです」「なぜラトビアのことが日本で知られていないかというと、ソ連時代、鉄のカーテンで覆われていて、内部で行われていたことが全く漏れないようにされていたからです」「これまでの経験から、私たちはロシア人のことを知り尽くしています。ロシアのやり方を熟知しているし、ロシア語も自由に話せます。そんな私たちの力をぜひ活用してください。例えば、日本がロシアと直接取引きした場合、ロシアの税関で荷物が2週間とめられます。ところが、ラトビアを経由すれば、それを半分の1週間にすることができるのです」「私たちにとって音楽は空気みたいなものですから、なぜラトビアで音楽が盛んなのか、その理由を説明するのは困難です。ただ、他国の支配を受けている期間が長かったため、言葉にするのが許されないこと、例えば、『ドイツ人は嫌いだ』とか『ロシア人に虐められた』という内容を歌にしてきました」「民族、言葉、宗教の異なる人々と共存する状態がラトビアにとっては常にノーマルなことだったので、それが特別なこと、難しいことだとは思っていません」。

一方通行で終わるのではなく、来場者からの質問に答える時間を多くしたいとの大使のご配慮のおかげで、活発な講演会になりました。質問のひとつひとつに、ユーモアを交えながら、丁寧に、誠実にお答えになる大使の紳士的態度と、オレグスさんの当意即妙の通訳、フロアとの見事なやりとり、お二人の抜群のコンビネーションに、参加者は引き込まれました。質問が次から次に出たため、途中で打ち切らざるを得なくなってしまったのは心苦しいことでした。講演終了後、大使とオレグスさんに声をかける人々が群がり、大変な人気でした。オゾリンもどこからか、見てくれていたでしょうか?

 

帰りは、グルーベル院長、杉原学長、山内一郎前理事長、永田室長等に見送られながら、再び関西学院名物(?)ぎゅうぎゅう詰めの公用車にお乗りいただき、新大阪駅までお送りしました。3連休前夜のみどりの窓口は長蛇の列で、オレグスさんはびっくりされました。「大使は普通の方ではないからグリーン車でしょう? グリーンならすぐに指定が取れるから大丈夫」と耳打ちすると、「グリーンには乗りますが、大使は普通の人です。特別な人ではありません」とオレグスさんはきっぱり否定されました。関西学院にお迎えするに当たって、ぎゅうぎゅう詰めの公用車以外にも数々の失礼、不手際があったことと思います。大使はすべてを包み込み、いつも笑顔で、その場の空気を和ませてくださいました。そんな大使は、私にとってやっぱり「特別な存在」です。

 【この原稿はLatvija編集室が池田裕子氏に依頼したものです。カラー写真が多数送られてきましたので、同氏の了解を得てHPにも掲載しました。当日の模様の一部が10月31日、BSジャパンの番組「大学が変わる。現場へ」で放映されました。Latvija編集室】

1 昼食会後の記念写真 大使、グルーベル院長(女性)の後は左からオレグス大使館員、ブングシェ准教授、天江外務省参与、杉原学長、竹本経済学部長、伊藤同教授、畑前院長夫人、永田学院史編纂室長、筆者(池田)、舟木院長補佐【写真はいずれも関西学院学院史編纂室提供】

 

2 美しいラトビア語で講演したヴァイヴァルス大使

 

3 オレグス館員が見事な日本語で通訳を務めた

 

 

4 かつて関西学院があった原田の森の神戸文学館に立ち寄り、偶然通りかかったラトビア人青年ヤーニス君と奇跡的な出会いがあった(左から2人目)

 

5 英語で歓迎の挨拶する筆者(昼食会)

 

6 ソ連時代に関学交響楽団がラトビア演奏旅行をした時の写真を感慨深く見る大使ら

7 昼食後、院長と緑濃いキャンパスを散策 院長はノルウエー系のアメリカ人で話は弾んだ

 

最終更新日 ( 2008/12/21 日曜日 23:35:12 JST )
 
【12/5】ラトビアとのボースカウト友情プロジェクト始まる PDF プリント メール
作者 webmaster   
2008/12/09 火曜日 23:12:26 JST

ラトビアから3名来日、終始笑顔で3週間の多彩なスケジュール楽しむ

交流キャンプ、富士登山、ラトビア大使館訪問、お茶会、工場・社寺見学…… 

日本ボーイスカウト富士地区  

 724日、ラトビア共和国から23歳の女性リーダー、リエーネ、17歳の男子スカウト、アーチス、女子スカウト、ポーリーナの3名が中部国際空港に降り立った。リエーネは5ヶ国語を操る才媛、アーチスはスカウト技術抜群、ポーリーナは昨年の世界ジャンボリーに参加した。12名から選抜された優秀なスカウト達だ。3人とも礼儀正しく、常に笑顔で、しっかりした英語を話す立派な若者という第一印象は、3週間接してその通りだった。3人は富士市内10軒のスカウト家庭に1週間ずつ分宿し、日本を知り、友情を育んだ。812日に帰国する時は、スカウト達もホストファミリーも涙を流して別れを惜しむほど友情は深まった。

 滞在中、行事が多かったが、日本の厳しい暑さの夏に負けることなく、常に笑顔でスケジュールをこなしたのは見事だった。主な行事は歓送迎会、スカウト交流キャンプ。共にテントで生活し、同世代で環境問題などを話し合い、キャンプファイヤーでは歌や踊りで交流を深めた。さらに一行は、斉藤斗志二代議士、富士市長表敬訪問、東京見学、在日ラトビア大使館訪問を行った。東京見学は渋谷の友好団の協力で実現し、スカウトの家庭に滞在して大都市を楽しんだ。大使館ではエギリス次席、グナ書記官、オレグス館員の心暖まる歓迎を受け、しばしラトビア語での報告話に花が咲いた。次に訪問した日本ガールスカウト本部では、1960年代に日本とラトビアの間で友情の交流があった証拠の品を目にすることができ、一同大いに感激した。

 富士登山、お茶会、工場や寺社見学など盛り沢山だった。特に山がない国から来た彼らは、富士山での貴重な体験とご来光の荘厳さに心を打たれ一番記憶に残っただろうし、サポートしてくれた人々との友情も生まれた。 送別会では両国の若者達が見事に打ち解けて、友情の花を咲かせている様は実に美しく見えた。来年は富士地区のスカウトがラトビアを訪問する計画で、さらに友情が深まることを期待したい。

 

 ラトビアスカウト来訪の経緯

  戦前、独立国であったラトビア共和国でベリザース・ラジン氏はスカウト運動創設者の一人として傑出した役割を果たし、その貢献に対し、1993年BS運動創設者ベーデン・パウエル卿より最高章シルバーウルフが手渡された。しかし1940念ラトビアがソ連軍侵攻によって占領されると同氏はやむなく米国シアトルに亡命した。

 1968年、同地におちて少年時代からスカウトだった23歳の私に出会い共にボーイスカウトであることが分かり、比類ない友好関係を築き上げた。1973年にラジン氏が69歳でこの世を去った後、弔問に訪れた私に家人はラジン氏が命より大切にしていたウルフ章を遺品として託した。以来、ウルフ章は霊峰富士の麓に33年間大切に保管されてきた。 1991年ラトビアが独立し、しばらく後スカウト運動が復活したことを知ると、私と志を同じくスカウト一同は、ウルフ章ラジン氏の愛してやまなかった祖国へのウルフ章返還を決意した。同時にウルフに土産に背負わせて返そうと募金運動も開始した。

 かくして1993年に手渡されたウルフ章は、1940年代にラジン氏と共に戦乱のラトビアからドイツ、英国を経てアメリカに渡り、1974年、私と共に日本に移った。そして2007年、奇しくもボーイスカウト運動100周年に当たる年に開かれた世界スカウトジャンボリーで返還式を行い、友情の証明を得て、富士地区代表団の手によって、ラジン氏の愛する祖国ラトビアへの帰還が実現しました。 ラトビアのスカウター・ラジン氏と日本のスカウター・私が育んだ友情の絆を記念し、最高章シルバーウルフを通じた友情に敬意を払い、これらの礎の上に今後両国の若者が新たな友情の絆を創り上げることを目的とした合意がなされ、今回の来訪が実現したのが経緯であります。 ウルフ章に背負われたお土産は多くの幅広い協力者を得て、現在ラトビアの地に『ラジン記念友好基金』として存在し、この交流をサポートしております。 

【この原稿は川島氏から日ラ音楽協会ニュースLatvijaに寄稿されましたが、紙面の都合で一部抄録掲載しましたので、ここにカラー写真と共に全文収録しました。Latvija編集室】

1 富士のスカウト達に囲まれるラトビアスカウト

2 ラトビア大使館訪問 スカウト達は訪日して初めてラトビア語で話した

3 富士山頂にラトビア国旗を掲げる

4 五合目登山口でサポートメンバー達と

5 富士市長表敬訪問

6 お茶会で浴衣姿で寛ぐ日ラスカウト達

7 送別会 日本のスカウト達と別れを惜しむ

8 送別会でハッピをプレゼントされて大喜びのラトビアスカウト

最終更新日 ( 2008/12/21 日曜日 23:36:04 JST )
続きを読む...
 
<< 最初 < 戻る 111 112 113 114 115 116 117 118 119 次へ > 最後 >>

結果 905 - 912 of 945
ラトビア関連写真(写真随時追加)
llimage001.jpg
サイト内記事検索
人気記事