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【5月8日】ラトビア指揮者・プトニンシュ氏が東京カンタートに招聘 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2009/05/09 土曜日 00:41:52 JST

 合唱界のビックイベント、ゴールデンウィークの「東京カンタート」が今年もすみだトリフォニーホールを軸に各地で開催され、歌う側も聴く側も共に合唱の喜びを共有した。「東京カンタート」の特色の一つに“公開リハーサル”や“合唱指揮法セミナー”があるが、今年も外国の著名な合唱指揮者3人が特別招聘され、ラトビアからもカスパルス・プトニンシュ氏が2度目の来日を果した。今年の東京カンタートもラトビア共和国大使館が後援した。 

今回プトニンシュ氏は、公募合唱団「Tokyo Cantat2009カレッジ・クワイア」と、「女声合唱団彩・女声アンサンブルJuriはるか」の指導に当たり、55日のクロージングコンサートでその成果を披露した。指導は全て公開され、前者には4月26日・墨田区みどりコミュニティセンター、28日・東大島文化センター、51日・豊洲文化センター、4日・大田区文化の森ホールで、後者には426日・新小岩地区センター、52日・豊洲文化センター、4日・大田区文化の森ホールでそれぞれ公開リハーサルを行った。さらに429日は、山梨県民文化ホールで行われた「サテライト・セミナー in 山梨」に講師として参加し、六時間にわたって甲府南高校音楽部、市川高校音楽部、都留文科大学合唱団、甲府西高校音楽部をそれぞれ指導した。

 同氏は1992年以来ラトビア放送合唱団の指揮者。1994年ラトビア放送室内合唱団を設立、ヨーロッパ、北米、東アジアへのツアーを行った。2005年エストニア国立男声合唱団の主席指揮者に就任、リアス室内合唱団、アイルランド国立室内合唱団、ユーロクワイヤーなど多くの合唱団の客演指導を続ける。ラトビアを中心にヨーロッパ各地で、放送用レコーディングやCD制作も積極的に行っている。2000年にラトビア文化科学大臣賞を受賞した。

【カスパルス・プトニンシュ氏のメッセージ】

 音楽の仲間の皆様へ! 今年もまた日本で皆様と一緒に、音楽への愛と想像的活動に溢れ、思慮に富み、喜びに満ち溢れたTokyo Cantatの一週間を享受できることを心より嬉しく思います。昨年出会った友人の皆様にまた会えること、そして今年新たな出会いがあることを本当に幸せに感じております。ともに音楽をつくることを通じて、我々人間は非常に親近感を感じることができます。今年も我が母国の音楽を日本の皆様にご紹介する機会をいただいたことをありがたく思っています。ラトビア及び全てのバルト諸国の文化の中で、合唱は重要な役割を担ってきました。一緒に歌うことの必要性という、まさに同じ遺伝子を地球の反対側-日本-の地で認識するのは、なんと素晴らしいことではありませんか。もう間もなく皆さまにお会いできるのを楽しみにしております!

 親愛をこめてTokyo Cantat2009プログラム「咲いた、咲いた、合唱の花花」から転載=訳:安保洋子)

※今回はモンテヴェルディ、ブラームス作品の他、J.カルルソンス、P.プラキディス、P.ヴァイクス、V,トルミスら現代作曲家の作品を指導した。

Latvija編集室】  

カレッジ・クワイアと初対面 「風よ、そよげ」で歓迎 

25日は午後から練習、夜にはプトニンシュさんとの初対面になりました! 写真は歓迎の瞬間です。断幕とラトビアの第二の国歌といわれる“風よ、そよげ”を歌ってお迎えしました。とても喜んでいただけました。歌詞の意味に基づいた、丁寧な練習でした。団員一同、ラトビア語に苦戦しています。いよいよ本番が近くなってきました! 最後の追い込み、頑張っていきます。」(東京カンタートHPより)

写真

 
【5月7日】山脇卓也さんが東京六連合同演奏で絶賛博す(5月3日) PDF プリント メール
作者 webmaster   
2009/05/09 土曜日 00:19:33 JST

 当協会が設立した「ラトビアの歌をうたう会」(5月からGaisumaと命名)の若き指揮者・山脇卓也さんが53日、伝統に輝く第58回東京六大学合唱連盟定期演奏会(東京芸術劇場大ホール)の合同演奏で、この演奏会のために委嘱した無伴奏男声合唱曲『あの日たち』を初演し、絶賛を博しました。  

 この作品は、合同演奏指揮を依頼された山脇氏が、若手期待の作曲家・北川昇氏に委嘱したもの。北川氏はテキストに立原道造の詩から5編を選んだ。立原は24歳の若さで死去した詩人で、その作品は若々しくみずみずしい感性に溢れる。北川氏が選んだ作品はいずれも立原21歳前後の作品で、この日初演する学生たちに最も相応しいテキストだった。作曲の北川氏自身もまだ24歳の青年で、若いハートを優しく包み込む表情豊かな作品に仕上げた。時には激しく若さをぶつけるが、全体的に男声合唱ならではの美しいハーモニーで感動的な終曲につなげる。聴いている私もふと青春時代にタイムスリップさせられるような情感溢れる作品だった。

 山脇氏はプログラムに「若い学生たちが、同年代の立原の言葉をどう感じ、24歳の北川の音楽をどのように歌うかという気持ちを大事にしたい。私はその背中をそっと押してあげるだけ」と書いていたが、その言葉通り、200人の学生を前に派手なゼスチャーは一切なく存分に歌わせた。“私の指示通り歌え”という姿勢を全く表に出さなかった。新作初演はなかなか名演奏が生まれないが、この日の初演は文句なしに感動的な名演奏だった。学生一人ひとりの充実した表情が強く印象に残った。山脇氏の並々ならぬ音楽性と指導力を改めて痛感した。

 この作品は譜面的にも比較的平易な感じを受けたし、少人数でも充分表現できそうだと感じた。若者によって生み出されたこの佳品を高校生たちにも愛唱して欲しいし、男声合唱再興の起爆剤になればと願った。アンコールに歌った、同じ北川氏作曲の「ここから始まる」(初演)も実に素晴らしく、心に沁みた。本当に若さが羨ましかった。

 

写真

六連の合同演奏で拍手を受け続けた山脇卓也指揮者

 

  58回目を迎えた東京六連演奏会のこと 

 

 この演奏会は私が早大グリー入部早々の1952年(昭和27年)6月に日比谷公会堂で第1回が行われ、想像を絶した人気で開演前から会場を二重三重に取り巻いたお客様をみて大興奮した記憶が鮮明にある。以降、各大学とも新メンバーによる初の大ステージとして定着し、幾多の名演奏を残した。第1回演奏会は私自身も1年生ながらオンステを許され、早稲田グリーへ入って本当に良かった!と実感した日だった。この日の早稲田は107名で黒人霊歌を歌った。黎明期の第1回から4回まで連続出演しただけに、私自身もこの演奏会への思い入れは特別に強く、今でもスケジュールが許せば聴きに行く。

 

 正直なところ、近年は大学生の男声合唱への関心が薄れ、各大学とも部員数が激減している。今年は出演順に、東大コールアカデミー15名(創部1920年)、立教グリークラブ54名(創部1924年)、早稲田グリークラブ70余名(創部1907年)、慶應ワグネル・ソサェイテイー30名(創部1901年)、法政アリオンコール10名(創部1928年)、明治グリークラブ14

(創部1949年)で、時の流れと言えばそれまでだが、往年の隆盛を知るだけに、とりわけ、明治、法政、東大の少なさに一抹の寂しさを感じた。

 

 しかし、彼等のひたむきな取り組みを目にし、耳にして、“合唱は数だけではない”ことを改めて感じた。明治は新実徳英氏に委嘱した「合唱とピアノのための“三つのよじれ歌”」に14名で果敢に挑戦して初演し(指揮:外山浩爾)、15名の東大はカウンターテナーを含む多声作品「スペイン愛の歌」を極めて正確なピッチとバランスで好演した(学指揮)。慶應の「海鳥の詩」は音楽性豊かな演奏で伝統の力をしっかり発揮した(学指揮)。逆に数が多い立教の「富士山」は早いテンポで軽快にソツなく演奏したが、音楽的に欲求不満が残った(指揮:高坂轍)。法政は昭和10年代の競演会(コンクール)で早稲田がなかなか勝てなかった伝統があり(当時の早稲田メンバーの合言葉は“打倒法政!”)、この六連も田中信昭氏が第1回から欠かさず指導を続けて毎年ユニークな演奏を披露している。今年は日本叙情歌(林光編曲)を指揮者なしの10人でハモッたが、やはり物足りなかった。人数は少なくても、田中氏の捧で法政らしい日本のオリジナル作品を聴きたかった。

 

 さて早稲田だが、今年も「WHAT’S ENTERTAINMENT?」(学指揮)と題して70余名の豊かなボリュームで存分に遊んだ。近年の早稲田は六連を編曲物のポップス中心に聴衆を楽しませ、続く四連で重厚な合唱曲を聴かせるというスタイルを続けている(7月の四連は荻久保和明氏自ら指揮する「縄文ラプソディー」。)このポリシーにOBとしても賛同できるが、問題は中身。かつて宇田川安明編曲「美しき地球の女たち」(1993年・辻正行指揮)に思わず“ブラボー!”と叫んだことがあったが、今年は、彼らがコンセプトにした童謡と洋楽のコラボが中途半端であまり楽しめなかった。登場する動物(?)の動きもぎこちなかったし、最後に肩を組んで“紺碧の空”を歌うに至っては自己満足が過ぎる。六連の場に相応しくない。6分の5は他校のお客様だということも考えねば…。(辛口ご免!)

 

 という訳で、今年はオンステメンバーが少ない大学の、一人一人がひたむきに演奏する姿と演奏内容を評価することにした。早稲田は次の四連(7517時・昭和女子大人見講堂)に期待!!!

Latvija編集室】

 

写真

 

1、東大コールアカデミー

 

 

2、明治大学グリークラブ

 

  

 

3、早稲田大学グリークラブ

 

 

最終更新日 ( 2009/05/23 土曜日 14:11:52 JST )
 
【5月6日】協会合唱団の名称はGaisuma(ガイスマ・光)に決定 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2009/05/09 土曜日 00:17:03 JST
 

創団から5ヶ月目に入った「ラトビアの歌をうたう会」の団名が、メンバーの投票でGaisuma・光」と決りました。

最終的に残った4候補の投票数は、①Gaisuma11票)、②Saule(サウレ・太陽・9票)、③Balsis(バルシス・声・3票)、③Dziesmas(ジェスマス・歌・3票)でした。(計26票)

正式名称は,『日本ラトビア音楽協会合唱団 Gaisumaということになります。

 5月から練習会場が変わります。

 合唱団の発展を目指して、かねてから幹事団は新しい練習会場を検討していましたが、この件もメンバーの総意で511日の練習から新しい練習会場に変わります。スペースが広くなり、ピアノがありますので、ピアノ伴奏がある曲も存分に練習できます。場所も渋谷から徒歩圏内です。

【新練習会場】

社会福祉法人 パール 地下1階講習室

1500035 渋谷区鉢山町327

電話 0354584811

※渋谷駅南口から徒歩12分。東急バス35番乗り場から鉢山交番前下車

地図

http://jlv-musica.net/latnews/images/newspic/daikan.bin

 今後の練習日(原則として毎月第2・第4月曜日の18302030

5月】11日、25

6月】8日、227月】13日、278月】17日、31日(第3・第5月曜日)9月】14日、2810月】5日、26日(第1・第4月曜日)11月】9日・30日(第2・第5月曜日)12月】14日・28 

427日は大使館で練習

 427日の練習は6時から7時半までラトビア共和国大使館で行われました。会場の雰囲気は最高ですし、エギレス・ゼルメ次席がテノールの高いピッチで「Dievs Sveti Latviju(ラトビア国歌)」を絶唱して発音を指導する場面もありました。

 これには訳があって、大使館から徒歩数分の場所にあるレストラン「Pleasaurant」で8時から行われる大使館主催の“ラトビア料理を楽しむ会”に出席する為でした。大使館関係者の他に、合唱団メンバー、ラトビア語教室受講メンバーもほぼ全員出席、多くの会員も参加して、次々に出る料理(バイキングスタイル)やフリードリンクのリカーを堪能した夜でした。合唱団は即席でこの日たっぷり練習した「Dievs Sveti Latviju」を歌い、ヴァイヴァルス大使をはじめ大使館関係者から大喝采を浴びました。

※このパーティーの模様は写真と共に別掲載します。

Latvija編集室】 
最終更新日 ( 2009/05/09 土曜日 00:31:18 JST )
 
【5月1日】各国大使館員日本語スピーチコンテスト(4月11日) PDF プリント メール
作者 webmaster   
2009/05/01 金曜日 23:49:38 JST

 ラトビア大使館のオレグスさんが審査員特別賞受賞 

 第12回各国大使館日本語スピーチコンテスト2009411日に千代田区内幸町ホールで行われ、お馴染みのラトビア共和国大使館O.オレグス三等書記官が審査員特別賞を受賞した。

 

このコンテストは、外務省、文化庁、千代田区、NHK,ジャパンタイムスなどが後援し、同コンテスト実行委員会が主催するもので今年が12回目。この日は19カ国21名が出場した。スピーチの制限時間は5分、オレグスさんは“ボーイスカウト活動を通じた日本とラトビアの長い友情”をテーマで感動的に話した。当日の原稿を全録する。

 この日の優勝者はカザフスタン共和国大使館員(外務大臣賞)、2位中国(文部科学大臣賞)、3位チェコ(文化庁賞)だった。【Latvija編集室】 

「心に残る日本とラトビアの友情物語」

 みなさま、こんにちは。ただいま紹介していただいた、ラトビア大使館のオレグス・オルロフスと申します。どうぞよろしくお願いいたします。

本日、皆さまにお届けする話は、私の心を動かした話で、ラトビアと日本の友情の話でもあります。心に残る日本とラトビアの友情物語です。

 

ご存知の通り、2ヶ国の関係というのは、政府の関係だけではなく、まずは国民同士の交流が基本となっております。今回私のスピーチは日本人とラトビア人の人間同士の交流、友情につながった実際にあった話をしたいと思います。

 

その話の始まりは1933年のラトビアのボーイスカウト総会にさかのぼります。その年、ラトビアのスカウト運動に大変貢献した「ベリザード・ラジンシュ」というラトビア人スカウターがスカウトの最高勲章「シルバー・ウルフ」を受賞されました。スカウト運動は1917年にラトビアで広がり、1918年ラトビア独立後、盛んになりました。

 

しかし、第二次世界大戦が始まった頃、1940年にソ連軍はラトビアを侵略し、ラトビアのスカウト運動とスカウト組織を破壊しました。ラジンシュさんはソ連の侵略に抵抗しましたが、結果として海外に亡命せざるをえない状態になり、1949年アメリカのシアトルにたどり着き、定住しました。ラトビアから持参できたのは何よりも大切にしてきたシルバー・ウルフとほんの僅かの私物(しぶつ)だけでした。

 

1968年、日本からアメリカへ留学を希望する川島泰彦という日本人の若者がシアトルにやって来ました。そして、彼が大学入学のための保証人探しに苦労していた時、協力してくれたのが、ラジンシュさんでした。スカウターであったラジンシュさんと8歳からスカウトをしていた川島さんとの出会いをきっかけに新しい友情が生まれました。一期一会(いちごいちえ)と言える出会い、ラトビア人と日本人の心を永遠に結び、大きな2カ国の民族友情関係につながったのです。

 

ラジンシュさんは、スカウティングをはじめ、様々な分野について川島さんと語り合い、ラトビアで受賞されたシルバー・ウルフ章を見せて、スカウティングは人生で最も大事なことだと川島さんに教えたのです。日本人の若者は、大きく成長し、留学後、日本へ戻りました。1972年ラジンシュさんは日本を訪問しましたが、翌年69歳で他界しました。

 

その悲しいできごとを知った川島さんはすぐにシアトルのラジンシュさんの家(いえ)を訪問しました。そして、その時、ラジンシュさんの家族はラジンシュさんと川島さんのスカウティングを通した友情のあかしとして、また亡きラジンシュさんのスカウティングへの思いが込められたシルバー・ウルフを川島さんに手渡しました。

 

ラジンシュさんはラトビアが再び独立することを経験できませんでしたが、川島さんが彼のラトビアに対する気持ちを知り、ラトビアのスカウターにとって特別な意味を持つシルバー・ウルフを大切に保管してきました。「我が祖国ラトビアはどんなにひどい目に合っても、必ず蘇る」というラジンシュさんの言葉は実現しました。1991年にラトビアは再び独立し、スカウト運動が再建されたので、川島さんはシルバー・ウルフ章を持つべき人への返還を決意しました。スカウト運動が100周年を祝う2007年、川島さんはラトビアのスカウト組織にラジンシュさんのシルバー・ウルフ章を返還しました。この返還は川島さんとラジンシュさんの間に培(つちか)われた友好の灯火を次の日本とラトビアの世代に手渡したいという考えにもとづいて行われたことでした。

 

川島さんは世界スカウティングの永遠友情のあかしとして章を返還すると共に友好プロジェクトを始めました。日本とラトビアのスカウト交流はもう2年目に入っています。こういった立派な人物が日本とラトビアをつなげていくことに私が心からの敬意を払い、これからもサポートしていきたいと思います。

 ご清聴(ごせいちょう)、誠にありがとうございました。 

写真

1、スピーチコンテストで熱演するオレグスさん

  

2、出場者全員の前のふるさと自慢スピーチするオレグスさん

3、見事に審査員特別賞受賞

4、左からカザフスタン(優勝)、チェコ(3位)、オレグスさん、応援にかけつけたオレグス夫人

 
最終更新日 ( 2009/05/01 金曜日 23:50:34 JST )
 
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