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【8月20日】指揮者・ネルソンスの放送情報 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2010/08/20 金曜日 18:28:16 JST



 ラトビア出身で期待の若手指揮者、アンドリス・ネルソンスが、729日に行われたロンドン夏恒例の「プロムス」でバーミンガム市交響楽団を指揮した模様が、NHKFMで、「2010ヨーロッパ夏の音楽祭特集」の一環としていち早く放送されます。この放送は当協会の田摩勇理事が製作を担当しています。Latvija編集室】

 特集:ヨーロッパ夏の音楽祭2010(第4夜)(放送日:82619:3021:10
「アンドリス・ネルソンス指揮バーミンガム市交響楽団」演奏会」
2010729日、ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホールで行われた演奏会のライブ録音)
 【曲目】
歌劇「リエンチ」から「序曲」(ワーグナー)
ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19 (ベートーベン)(ピアノ:ポール・ルイス)
交響曲第9番ホ短調作品95「新世界から」(ドボルザーク)


マリス・ヤンソンスの愛弟子  今秋、ウィーン・フィルを率いて来日 

 ネルソンスは、世界的指揮者であるマリス・ヤンソンスの優れた弟子で、ファイナンシャル・タイムズ誌も「ネルソンは音楽的才能、技術、カリスマ性を全て持ち備えた指揮者」と賞賛しています。今年11月にはウィーン・フィルを率いて来日することが決っており、何とも楽しみです。 彼は今年、イギリスのバーミンガム市交響楽団の第2シーズンを指揮していますが,ロンドン「プロミス」での演奏はその一環です。昨年はザルツブルグ音楽祭、ルーツェイン音楽祭、ベルリン音楽祭にもデビューを果たしています。オペラの世界でもニューヨークのメトロポリタン歌劇場など世界の主要な歌劇場でもデビューを飾りました。今年はかのバイロイト音楽祭でワーグナーの「ローエングリン」を指揮する予定です。 

最終更新日 ( 2010/08/20 金曜日 18:29:49 JST )
 
【8月16日】森川はるかレポート2 東ラトビア PDF プリント メール
作者 webmaster   
2010/08/16 月曜日 11:05:22 JST

 森川はるかさんのレポート第2弾は東ラトビア訪問記です。ローカルな列車の旅、第二の都市・ラウガウビルスや緑と水の町で知られるレーゼクネの様子と、そこに住む人々の生活ぶりなどが興味深く描かれています。東ラトビアはガイドブックにも殆んど掲載されていません。それだけに若い日本女性一人旅の感性豊かなレポーとは、ラトビアに関心がある方々にとって必読と言える内容です。なお最後に森川さん撮影の写真アルバムを掲載していますので併せてお楽しみください。【latvija編集室】

Esiet sveicināti Latgolā! 東ラトヴィアを訪ねて

 

リトアニアのヴィリニュスからシベリア鉄道のような列車の中のほとんどはロシア人でした。「チケット見せて」と言う車掌さん、隣に来る乗客・・・そんなサンクトペテルブルグ行きの列車に一人スーツケースを抱えて乗り込み、ガタゴトと夕方の東ラトヴィアへと向かいました。

ラトヴィア第二の都市ダウガウピルス。ここは58%の住民がロシア人で、ラトヴィア人は17%しかいません。ここではきっとロシア語の方が有用なのだろうと考えていましたが、ロシア語もラトヴィア語も1年弱しか勉強していない私にとっては少し不安でした。東ラトヴィアはガイドブックにも掲載されておらず、周囲で行ったことのある人がいないため、情報がない中で果たして大丈夫なのだろうかと車窓の夕暮れをただ一人眺めていました。

2時間後ダウガウピルスに降りると、その駅自体に特に何もない上、ここでの乗降客がほとんどいないことに気付きました。駅を「くぐる」と車も人もいない街の通り。第二の都市なのにあまりにも静かなので、反対に緊張がほぐれてしまいそうな気がしました。隣にいたタクシー運転手のおじさんに近づくと「どこのホテルだい?」と次々にホテルの名前を言い連ねるので、「いやいや、こっちの」と慌ててゲストハウスの地図を見せました。

それからタクシーに乗り込むとロシア語で「日本から来たのかい?」と聞くので、「その通り(大概中国人と間違えられるので正直驚きました)」とそっとロシア語で答えると、急にぱっと表情が明るくして「ロシア語が分かるのかい!俺なんて英語は全然できないんだよね」と叫びました。「いや、ちょっとだけですよ」と首をすくめる私を無視して、まさにハイテンションと言わんばかりに両手を離しながら運転をし始め蛇行運転に。「見て、ほら、あれが駅だね」「この店、あそこで酒とか食べ物とか買えるからね」「それからホテルで休んで」と大声で両手離し運転で街の解説をするため、何度もガコンガコンと車の壁にぶつかりそうになりました。

ゲストハウスでも優しそうなロシア人のおばさんが出迎えてくれました。英語が予想以上に通じないということを咄嗟に気付いたので、ロシア語と「外国語としての」ラトヴィア語を交互に交えながら会話をすることとなってしまいました!「ここが食堂ね、8時でいいかしら?」と親切に話してくれるおばさんに緊張がほぐれる間もなく、タクシーのおじさんに「是非また俺を呼んでくれ!」とメモを残し手に何度も接吻されました。私が階段を上ると、「いやぁ、あんなにちっちゃなお嬢ちゃんが一人でこんなところに来るなんて大したもんだよね」とおばさんと大声で話しているのが聞こえてきて、「ちっちゃなお嬢ちゃん」という言葉に苦笑してしまいました。

 

宿泊客も皆ロシア人で、街の人々も皆ほとんどロシア人でした。お店の表示などは全てラトヴィア語ですが(国語庁の政策上公の場は全てラトヴィア語になっています)、会話は全てロシア語。張り紙などもロシア語で、相手が誰であろうとロシア語で話しかけてきます。ラトヴィア語の新聞を手に入れることさえ難しく、お店に置いてあるものはほとんどロシア語新聞。若い人で時々英語が分かる人がいるかどうか危ういほどで、ラトヴィア語さえ聞こえてこないという、不思議な街でした。

中心地は都会的な建物があったり、ダウガウピルス大学はリーガにある建物よりもずっときれいで驚きましたが、一方中心地から離れるとまるで廃墟のような団地も見られます。第二の都市とはいえ、大きさの割に閑静です。また当然ながらロシア正教会が割合多いのですが、すぐ近くに大きなカトリック教会が建っているという、混在して並ぶ様はこの街の性質を表しているのかもしれません。

バルト三国唯一ほぼ手がつけられずに現存するダウガウピルス要塞が何よりも有名ですが、実は半分が一般人立ち入り禁止(軍事的領域かもしれません)で、半分はなんと住宅地になっています。教会やお店があるばかりではなくバスも運行されているほどで、ここに住む人は旧ソ連の軍事関係者の家族だと言われています。ただ中には独特のこの空間を気に入って住みつく芸術家もいるそうですが。

またこの都市はポーランドやリトアニア、モスクワと近いことから重要な運輸地点・有名な貨物駅でもあります。実際私が滞在していたゲストハウスは大きな貨物駅の目の前で、終日ロシア語で貨物の業務アナウンスが響いていました。だからこそラトヴィアにとって第二の都市として重要な位置になっているのかもしれません。

ダウガウピルスは正直に言いますと、あまり観光向きではありません。ダウガウピルス要塞は半分生活環境ですし、他でも特に見どころがあるわけでもありません。また私が行った7月初旬はカラカラの猛暑だったこともあってあまり外出せず、ゲストハウスの一人部屋でテレビを専ら見る生活。普段全くテレビを見ない私ですが、ここでは延々と夢中になってテレビを見ていました。何故ならこれほどダウガウピルスでの生活の一面を見る材料として、興味深いものはなかったからです!

チャンネル数はなんと57チャンネル。その9割はロシアからの放送でロシア語、ラトヴィアのテレビ局は7つしかありませんが大方それにはロシア語の字幕が付いていました。時々他国の放送も入りますが、ロシア語吹き替えだったりとまさに「ロシア人向け」で、果たしてこの街に住むロシア人はどれくらいラトヴィア語を分かっているのだろうかと考えました。ゲストハウスのオーナーの人もラトヴィア語を「外国語」として知っているようなくらいでしたので、ラトヴィアが持つ一面性としてこれほど深く感じるものはありませんでした。民族とは何か、そして国とは何でしょうか?国境とは、EUとは、地域とは一体何なのでしょうか?

私がこの街を歩いていた時、人々は必ず振り返り、猫はじっと見つめ、犬は絶えず吠えました。アジア人がいるということももちろん驚くべきことですが、まず「自分たち」以外の人がこの街にいることが珍しいことなのでしょう。英語もほとんど通じず、人々もお構いなしにロシア語で話しかけてきますが、そんな人々に接していると彼らの感情表現の豊かさと穏やかさを何よりも感じました。民族が混在していないほど治安も穏やかになる傾向はありますので、ラトヴィアにとっては皮肉かもしれませんが、まさにダウガウピルスはそうなのかもしれません。リーガでは正直なところ、人々の警戒心をよく感じますが、ここダウガウピルスではそういった空気もなく、どこか開放的で人々の温かさを覚えます。そして驚いたことに、洗濯物が外干ししてある!洗濯物を外に干すことは盗まれる可能性もありますので欧米では全く見たことがない光景だったのですが、ひょっとするとそんな所からも、この街の性質を物語っているかもしれません。

スーパーに入ってみると、さすがポーランドなどに近いこともあってポーランドからの輸入物や、ロシア音楽のCDも多く売られていました。また暑い街中ではどの都市でも専らアイスクリームが売られているものですが、ここではビール。さすがロシアですね(笑)。また、これがロシアの一面になるのか分かりませんが、自販機でコーヒーを注いだところ、どさっという音と共に大量の砂糖が落ちてきました!機械の調子が悪かったのか、それともロシア式コーヒーの飲み方なのか――

このダウガウピルスにいることで多くのラトヴィアの一面性に触れることが出来たと感じています。民族とは、そしてラトヴィアという国においてどうなっていくのか、祭典のことも考えながら私はレーゼクネへと向かいました。

   ラトガレ(東ラトヴィア地方)の心、レーゼクネ

 

そう呼ばれる都市に降り立った時、ダウガウピルスと対照的にも思えてくる雰囲気に驚きました。「緑と水にあふれた街」と形容されますが、まさにその通り。夏の光が柔らかく感じられるほどの穏やかな緑でいっぱいでした。実際に私が滞在したホテルの目の前には湖があり、昼間は人々の水浴び場になるのですが、早朝に散歩した時、靄と光を湛えたこの美しい水辺にため息がこぼれました。自然の豊かさを身近に感じられる、素敵な都市です。

 ダウガウピルスとは異なり、観光に力を入れているからか、通りや見どころを示す看板が多くありました。「ラトヴィアの統一のために」と掲げられた聖母マリアを思わせる女性の像が街の中心にあり、レーゼクネやラトガレの歴史などが書かれた看板やガイドブックも置かれ、ラトガレの陶器文化を示す事柄が多くありました。

 この都市ではラトヴィア人とロシア人が半々くらいなので、時々ラトヴィア語も聞こえてきて少し安心しました。ただ半々くらいとなると、余計に戸惑うもの。ロシア語で話した方がいいのか、ラトヴィア語で話した方がいいのか・・・この都市では観光化の流れからか、英語も少し通用するようになっていましたが、極力現地語で話したい私としてはなかなか悩みの種でした。スーパーで買い物をしようとしてもどちらの方がよいだろうか、違う方で話したら失礼だろうかと躊躇したものの、周囲の会話を聞きながら慎重に話しかけることを選びました。

 ラトガレ文化歴史博物館へ行ったのですが、若い女性にラトヴィア語で話しかけたところ、にっこり笑ってくれました。「日本でラトヴィア語を勉強しています」ということと博物館の感想を、置いてあったゲストブックにラトヴィア語で書いておきました。また本屋へ行った際にラトヴィア語テキストを購入したのですが、それを見て店員さんの表情が柔らかくなり、いつまでも私を見送ってくれたこともありました。観光客は多くなったものの、やはりこの街でもまだまだ「外国人」は珍しいようですが、ロシア語よりラトヴィア語が分かる人となると嬉しいようです。この点でも同じ東ラトヴィアでも違いがあることに気付かされました。

 

 ラトガレにはラトガレ語という一種の方言があり、またその話者はラトガレ人としての意識があるといいます。ラトガレ人はラトヴィア人の一員である意識から、ひょっとするとロシア人と対するものがあるかもしれません。しかしながらおそらく、私が躊躇するほど言語の問題をレーゼクネに住む人々はあまり露わにしていないように感じます。ただ彼らが日常接する時どのように感じているのかは定かではありませんが・・・・・・。

ダウガウピルスと異なった雰囲気を持つのは地理的環境ばかりではなく、民族構成も大きく影響していると思います。内陸で国境に近いからこそ容易にはいかない民族問題ですが、例えば言語の面でどううまく彼らがつきあっているのか、日本人である我々からすると少し想像しにくいかもしれません。ではアイデンティティは?このことについては様々な意見があるかと思いますが、再独立してから20年近く経つ今、もうこのことを際立てる必要性は以前より薄れてきたのかもしれません。

  

ダウガウピルスとレーゼクネ。どちらも同じ東ラトヴィアですが、似ているように見えて実は対照的な都市であるように思います。レーゼクネではラトヴィアとしての意識が高く、文化や都市のアピールをしているように見えましたが、ダウガウピルスでは穏やかな生活環境といった要素が強いように感じられました。

タイトルに挙げた“Esiet sveicināti Latgolā!”(ラトガレへようこそ)、これはレーゼクネでもらったパンフレットに書いてあったフレーズでしたが、果たしてこう言う人はこの東ラトヴィアにどれくらいいるのでしょうか。まずこの言葉を言うことにあたってラトヴィア語か、ラトガレ語か、ロシア語か。本当に「ようこそ」と言えるほど、人々が他の人々を受け入れるための心の準備が出来ているのでしょうか。私には、この言葉にラトガレとラトヴィアという国自体の多面性が見え隠れしているのではと、非常に興味深く感じられます。

 きっとこれから何度もこの地に私は足を運ぶことになるでしょう、ラトヴィア語で「こんにちは」である“Labdien!”と言いながらロシア語で「こんにちは」にあたる“добрый день!”を笑って加える、そんな日常に我々は生きることにおいて何か大切な部分を見いだせるのではないかと考えながら。

 

   

写真①正教会

 

  

写真②貨物駅 

 

 

   

写真③レーゼネク公園

 

 

 

 

 

写真④レーゼネク湖

 

 

 

 

  

写真⑤レーゼネクの古城

 

   

 

 

写真⑥レーゼネクの像

 

 

 

 

   

 

 

写真⑦ダウガビルス要塞1

 

 

 

 

 

   

 

 

写真⑧ダウガビルス要塞2

 

 

 

 

   

 

 

写真⑨ダウガビルスの通り1

 

 

 

   

写真⑩ダウガビルスの通り2  

最終更新日 ( 2010/08/16 月曜日 11:20:42 JST )
 
【8月12日】森川はるかレポート1 歌の祭典 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2010/08/12 木曜日 09:54:55 JST

森川はるかさんから届いたレポート第一弾です。彼女の旺盛な活動力は本当に頼もしい限りです。写真も森川さんの撮影です。【Latvija編集室】 

 Labdien! 合唱団ガイスマ及びラトヴィア語教室でお世話になっております、立教大学の大学院1年の、森川はるかと申します。ラトヴィアを知って早7年、学部生時代から文化人類学を専攻していますが、現在はラトヴィアの合唱文化について研究をしております。

今年の620日から717日までの1ヶ月、フィールドワークのために主にラトヴィアのリーガに滞在していました。今回で3回目の訪問でしたが、何よりも今回は26年ぶりの記録的猛暑で、冷房がなく石造りの窓がほとんど開かない建物・朝4時半から夜10時半まで照りつける太陽とで本当に大変でした。昨年は長袖が朝晩必要なくらいだったのですが、今回はこの毎日の暑さとの格闘という、厳しい旅でした。乾燥しているため、水をいくら飲んでも自分の体がバテている事に気付きにくく、まさにサバイバルな1ヶ月だったという印象でした。朝テレビをつければ「無料の水に近寄る人々」と噴水や湖、海の側にいる人を報道し、また新聞ではこの異常気象ぶりを毎日のように取り上げていました。

  

今回もまた様々な体験をしたのですが、まずメインイベントであった「第10回学生の歌と踊りの祭典」についてお話をしようと思います。

 

ご存知の通りの有名な「歌と踊りの祭典」、こちらは5年に1度開催されますが、その周期の半分の年に「学生の歌と踊りの祭典」が開催されます。今年がその開催年で、7/612にかけて首都のリーガで行われました。

 

この学生のための祭典が始まったのは1960年。「歌と踊りの祭典」は1873年に始まりましたが、このプログラムではあくまでも若者達の発表の場はほんの一部にしかすぎないため、「未来や文化を継承していく若者達メインの発表の場を設けよう」としたのがこの祭典のスタートでした。

 

オーケストラや合唱、伝統音楽、伝統舞踊、コンテンポラリーダンス、ブラスバンド、フォークロアプログラムと様々なコンサートが次々と開催され、また祭典期間中は公園で出店やステージ発表やワークショップなども行われ、子供から大人まで楽しめるプログラムになっています。コンサートは有料制で、残念ながら完売してしまった伝統舞踊コンサート以外は全て買占め、毎日コンサートをはしごしておりました。プログラムによってはリハーサルも有料で見ることが出来ます。

 

何週間も前からテレビではこの祭典のCMが流れ、新聞でも待ち望むようにインタビューや準備・練習風景が取り上げられていました。実はあまり公にはなっていませんが、異常気象の猛暑のために人がばたばた倒れたので、この祭典開催自体を中止しようか考えたようです。しかしこの異常な暑さは誰も予想が出来なかったこと、また7月という時期に開催する良さもあるということで開催を決行したそうです。期間中幾分か暑さが和らいだ日もありましたが、綺麗な青空とじりじりとした暑さの中、6日間リーガはお祭りモードに包まれました。

 

因みに祭典のロゴである七色の独楽ですが、これは「(虹色のように多い)様々な人々が一つになろうという願い、そしてコマが回るように皆で一つになって踊る」という意味が込められているそうです。よく見ると独楽の軸が鉛筆になっています。

 

 

全国から小学~高卒位までの学生がオーディションを勝ち抜いて(主にクラス、学校単位で)集まってきます。そのためこの時期のリーガは民族衣装や祭典仕様のTシャツを着た子供達で溢れ、“Bērni”と行き先表示のされた子供達専用のバスがあちこちで見られます。実はこのバス、地方からやってくるため運転手もリーガ市内で迷子になって渋滞になってしまうとか・・・。学生達は主にリーガ市内の学校の体育館や施設に寝泊りをするようですが、この時期の教師達は元気いっぱいにはしゃぐ学生達をまとめるのに一苦労のようです。「子供たちが夜中に走り回るから昨日は3時間しか寝られなかったわ・・・」とため息交じりに首を振る女教師の方もいました。

 

  

 

(写真)Bērni行きバス。我々は乗れません。

 

7月6日

 

 

いよいよ祭典開始の日、歌の祭典公園という旧市街より北にあるところで開会式がありました。学生達が民族衣装などをまとって歌い、二人組みで踊り、そして男の子が呼びかけます。「ヴィゼメ、クルゼメ、ラトガレ、ゼムガレ。リーガに集まって皆で祝おうよ!」

小さなヨットが池の中にある小島を一つ一つ巡ると筒の花火が次々と点火するという、可愛らしい演出の後、開会式は終了。皆が花でラトヴィアの形を池の前に作っていたのが印象的でした。

 

 

(写真)開会式(小さなヨットが小島の花火を点けていくのが見えます)

 

 

(写真)花で「ラトヴィア」作り

 

  そしてこの日の夜はBērnu simfonisko orķestru koncerts(子供達のオーケストラコンサート)がありました。全部で4団体が民謡をベースとしたオケ演奏、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、ピアノ協奏曲などを披露。中高生が主でしたが、レベルの高い演奏に人々全員大拍手でした。 

 

 

7月7日

 Jaunrades kora dziesmu koncerts „Radītprieks”(創作合唱コンサート)が行われました。このコンサートのためにラトヴィアの著名な作詞家・作曲家が作曲やアレンジをし、民族衣装をまとった学生達が発表するという合唱のコンサートでした。ラトヴィアの川についての組曲など、ラトヴィアの作曲家達のコラボレーションは見事なものでした。それぞれの曲の合間に学生の参加者や作曲家などにインタビューをしていましたが、最も印象的だったのは巨匠Raimonds Pauls司会者「ライモンズ・パウルスさん、“Ar Vilcienu Rīgā brauc”(リーガで列車に乗って)という曲をアレンジされましたが、コメントをどうぞ」パウルス氏「いや、僕はリーガではトラムを使うんだけど」一同笑っておりました。

  コンサート終了後参加者の学生達のために「ではお菓子をどうぞ」という司会者の声に、学生達が勢いよく集まったのはとても微笑ましい光景でした。  

 

  7月8日

 この日は友人と一緒に、伝統音楽コンサートを担当するクァクレ奏者の教師の方が「リハーサルに来ていいよ」と言ってくれたので、見に行きました。「違う!ここではもっと響きのハミングを!」と熱心に学生達に指導する指揮者、作曲者の方や先生方も交えて最後の詰めのために必死に練習をしていました。 

 

 そしてちょっとしたリハーサルの合間に「歌の祭典仕様のだよ」と友人が凝乳デザートをくれました。kārumsという乳製品製造会社のものなのですが、スポンサーの一つなのでパッケージがいつもと違います。こういったところからも、まさに全国民的行事の一面性を知ることが出来ます。 

 

 そしてこの夜にイベントホールとしてとても大きい場所である所で、Pūtēju orķestru koncerts „Priecīgs koncerts(ブラスバンドコンサート)が行われました。ヴィゼメ、クルゼメ、ラトガレ、ゼムガレ、リーガの各5つの地域ごとのもの、選抜グループなどによるもののマーチングバンド演奏がありましたが、総勢何千人いるのでしょうか、相当な迫力の演奏でした。質の高い演奏は勿論ですが、相当な人数をまとめ一つの音楽にすることは至難の業。全国から集った学生達と、この一つのコンサートを作り上げる人々の力に驚かされました。  

 

 7月9日 

   Mūsdienu deju koncerts(コンテンポラリーダンス)のコンサートでは休憩を挟むものの、3時間という長時間にわたってのダンスの発表。それぞれの華やかな衣装を着て、非常に現代的な演出で他のコンサートプログラムとは大きく違い、「この現代だからこそ」作られたプログラムの一部だと感じました。 

 

  そしてこの日の夕方にいよいよTautas mūzikas koncerts „Saule sēja sidrabiņu”(伝統音楽コンサート)、これは前日辺りからリハーサルに出入りをしたり、本番直前の楽屋へ入ったりとしたものだったので、本当にとても楽しみにしていました。 

 

  テレビ局の人が私の隣に来ており、なんと中継を行っていました(全てのコンサートはテレビ中継がされているため、テレビからの鑑賞者も全国に大勢います)。民族衣装の学生達が民族楽器の打楽器やクァクレを演奏し、合唱へと盛り上がり、司会者二人の曲間のつなぎ目に入る歌もあって、会場いっぱいにその音楽が溢れました。民謡のSaule(太陽の意)をベースにした曲が演奏されたのですが、その優しいメロディーと学生達の純粋な声のハーモニーが本当に感動的で、気がつくと自分の目頭が熱くなっていました。全演奏が終わった後アンコールを求めて立ち上がった人々の熱狂的な拍手の光景が、今でも忘れられません。「素晴らしい音楽をありがとう!」心から私は歌の素晴らしさと感謝を、リハーサル等に招いてくれた奏者の彼女に伝えました。

   

(写真)コンサートのアンコールの時の様子  

 

 

  Folkloras kopu koncerts „Es mācēju, es mācēju, ko tie citi nemācēja”(フォークロアコンサート)もその次に行われましたが、これは伝統的な合唱やダンスといった発表に留まらず、ジョークやソロによるものも披露されました。 

 

 

7月10日

 祭典もいよいよクライマックスに入ってきました。この日午前9時からお昼ごろまで31000人を越える参加者全員が街中をパレード。全員が民族衣装やそれぞれの衣装着て、プラカードや花や旗などを掲げながら、歌ったり叫んだり、進んでいきます。中には「いくよ!1,2,3、はい!」と一人が声を掛けると二人組みになって踊りながら進むグループも。道路の両側にいる観客達も興奮して一緒に叫んだりしました。とあるグループは何の旗も掲げていなかったので、私の隣にいた男性が勢いよく「旗なしのグループばんざーい!!」と叫んだところ、学生達もそれに応えて「イェーイ!ばんざーーい!」と叫びあっていました。ところで参加者全員とは誰を意味するのでしょうか?この祭典のホームページを敢えて英訳したものを読むと“All Latvians”と書いてあります。“All Latvians”とは一体誰なのでしょうか?「純ラトヴィア人」のための祭典なのか、それとも「ラトヴィアに住む全ての人」なのか。多民族国家ラトヴィアが抱える民族問題を懸念していた私としてはこのパレードは実に興味深いものでした。

ロシア系やベラルーシ系の学生達はロシアやベラルーシの民族衣装をまとって、北欧4カ国系の学生達はそれぞれの国旗を掲げて、そして黒人系の子供がラトヴィア民族衣装を着て歩いていました。決して「純ラトヴィア人(勿論この定義づけは容易ではないのですが)」だけではなく、他の民族にとってもまた「祭典」であり、共有されるものであることをこのパレードを一通り見てとてもよく感じました。

 

(写真)ラトヴィアの神々の象徴を掲げて  

    

(写真)ロシア系学校の学生達  

 

  中にはベビーカーを押しながら行進している女性(先生だと思います)やスーツ姿で全力疾走している男性もいました。彼に「どうしたの?」と聞くと「指揮者なんだけど、置いていかれてしまったんだよ!」と必死で答えていました。きっとおそらく途中でインタビューされていたのかもしれませんね。因みにパレードの最後尾に私は付いていって、参加者の学生達と一緒に道行く人々などに叫んできました。実は参加者特別の祭典Tシャツも着ていたので、すっかり参加者気分でした(笑)。「そこの窓から覗いている女性に万歳―!」「Maxima(有名なスーパーのチェーン店)に万歳―!」「全部にばんざーい!」――・・・

 参加者も観客も一緒になってお祭りのムードを味わい、盛り上がる。心から一緒に盛り上がって楽しみ、共有する喜び。コンサートやパレード、そしてこの祭典自体が持つ力に圧倒された気がしました。 

  そしてこの日の夜、いよいよクロージングコンサートと呼んでいる野外ステージでの合唱のコンサート、Koru koncerts „Mana zeme – zemīte skaistā!”がありました。野外ステージのある森林公園行きのバスは1時間以上前からすごい混みようで、コンサートが始まってもまだ多くの人が観客席に入れない状態でした。

この日も例のごとく夕方になっても気温が高く、西向きのステージは本当にまぶしかったです。参加者の学生達は羊の毛織の民族衣装スカートを着ている子ばかりで「暑そうだな」と眺めていたところ、皆短く織り込んでしまって本番前まで歩いているという「民族衣装ミニスカート」光景をちらほら見かけました(笑)。

  首相の演説、国歌斉唱、そして合唱のプログラム。民謡からアレンジしたもの、現代の作曲家によって作られたもの、ブラスバンドとの共演と、休みなく進んでいきました。時々子供たちによるダンスが歌に合わせて入ったり、「虹の橋を」というフレーズに合わせ、七色の布が歌い手の学生達によって運ばれて行ったり、歌手によるソロの曲も入ったりしました。おや?なんと昨日の伝統音楽コンサートでテレビ局の報道をしていた男性がマイクを持ち、ソロで歌っていました!「彼、実は歌手なんだけれどもアナウンサーもしているんだよね」と友人が話していました。老若男女の方では有名な歌手が勢ぞろいしてソロを歌うようですが、学生版ではそれほどソロの歌手は出ないとのことでした。伝統的な合唱と現代的な音楽とを交えたプログラムでした。 

  そして最後の3曲は全員合唱。ここ近年祭典などで歌われているもので私も過去に聞いたことのある、ものでした。プログラムに印刷されている歌詞を見ながら、全員立って歌いました。最後に花火が打ち上がり、コンサートは終了。何万人で一つの曲を歌う感動を改めて感じた時間でした。

  

(写真)最後の全員合唱 

「これからが本番だよ!」と指揮者の掛け声。夜の10時半前、家路に着いた観客もいましたが、その指揮者の声に合わせて、待っていましたとばかりに皆の表情が変わりました。観客と参加者が一体となって歌い合う「非公式コンサート」の始まりです! 

  

(写真)非公式コンサートの様子

  私と友人は前の方の席へ移動し、あらかじめ配られていた歌集を片手に「さあ次は○番だよ!」と次々と歌う曲を指定していく指揮者に合わせて歌いました。私達の前にいたツアーで来ていたドイツ人観光客の年配の人たちはびっくりしていましたが、すぐに「今何番の曲?」と歌集を見ながら(ラトヴィア語は分からないものの)曲に合わせて楽しそうに手を叩いたりしていました。私も知っている歌が多かったので一緒に歌い合い、私も「ラトヴィア人」として同じ何かを共有しました。「楽しいからなんだっていいよね!」そう嬉しそうに横で言う友人の言葉が本当に尤もに感じられました。ところでこの指揮者、指揮をしている間にひっきりなしに参加者の学生達が台に上がってきてサインを求められるため、大変そうでした。ある子は背中を差し出したため、彼は左手で指揮をしながら右手で書くということをこなしていました!学生達も指揮者も観客も、こんなに近い位置で同じ音楽が共有できる。歌いながら、心から音楽の素晴らしさを感じました。 

 12時に「非公式コンサート」は終了し、帰る前に私はステージの一番上に上ってみました。「明日が本番なんだけどね!」と元気に答える高校生のグループ、バスを降りてもまだ歌い続ける人々、熱気の残る会場、歌の跡。そして何よりも一つになって、何万人という人々で、音楽と心とを分かち合うこと・・・。夏の忘れられない、熱い記憶をいつまでも抱きしめていたい気持ちの夜でした。   

 

7月12日

 Tautas deju lielkoncerts „Deja kāpj debesīs”(伝統舞踊コンサート)が行われたのですが、ダンスだからでしょうか、とても人気であっという間にチケットが完売してしまったがために私は見ることが出来ませんでした。

   この祭典期間が終了してから、この祭典の実行委員会長であるAgra Bērziņaさんにお会いして、インタビューをしました。「日本人がこんなに小さな国の文化と祭典に興味を持ってくれるなんて、しかも来てくれるなんて」と大喜びでした。彼女との話した内容は解説にも載せてきましたが、他の事項もここに記したいと思います。 

――伝統音楽や舞踊だけではなく、コンテンポラリーダンスやポピュラー音楽のプログラムも入れていますが、どうしてでしょうか?「学生達は何も伝統音楽や舞踊だけを習い接しているわけではありません。現代的な音楽や芸術にも触れています。この祭典は自分達が勉強していることの発表会。様々な人がいるのだからそれを発表しあい、互いを知っていく。そういったことから設けています」

――パレードのとき様々な国の人がいたりしましたし、そういった人々のためのステージとかもありますが、こういった人々のステージについてどう考えていますか?「ラトヴィアで教育を受けている人々にはこれらを発表する権利、参加する権利は当然あります。だからこそ彼らのステージもあるわけです。それにラトヴィアとしてのまとまりも持てますしね」

――歌のクロージングコンサートにあるような「非公式コンサート」についてはどう考えていますか?「これは2006年から始まったものなのですが、コンサートを聴いている間観客だって歌いたいと感じますよね。だから一緒に共有する場を設け、皆で楽しむのです」

――確かにそうですね、私もそうでした(笑)でもところで、何故人々はこのような歌の文化、合唱の文化を持っていると思いますか?「昔人々にとって歌は休息でした。また支配されていたからこそ、人々の安らぎでした。皆で歌うことで楽しみ、気持ちを共有していました。だからこそこのような文化が保持されているのでしょうね」

――なるほど。ではこの祭典の将来をどう考えていますか?日本人の中にはこの祭典に興味を持っている人もいますし、他の国の人々に知ってもらいたいとやはり思いますか?「もちろんこれからも盛んになって続いていくでしょう。学生版の祭典も現在、無形世界遺産の登録を待っていますし、他の国の人々に是非知ってもらいたいです」

  次は新聞社のインタビューもあると忙しい中わざわざ私のために時間を割いてくれ、本当に嬉しい限りでした。 

  

(写真)実行委員長のAgraさんと筆者 

  6日間リーガに全国の学生達が集まり、発表し合うこの祭典。オーディションに勝ち抜いて披露するという、学生達にとってはとても誇りになる大きな舞台です。私も合唱や吹奏楽をしてきた身ですので、コンクールで勝ち抜く喜びはよく分かります。そして「何故これに参加するの?」と聞けば、第一に「楽しいから」と彼らは答えるだろうと思います。実際にクァクレ奏者に「何故クァクレを弾くの?」と質問してみましたが、彼女はとても困惑していました。「自分の文化を見せたい」「伝統文化を守りたい」ということもあるかもしれませんが、我々日本人とやはり彼らは同じなのです。「やっぱり楽しいから」「趣味だから」この理由がまず適当なのではないでしょうか。

 莫大な費用と人員と時間をかけてここまでまとめ上げることは、本当に凄いことだと思います。「楽しさ」も重要視していることは確かですが、全国民的行事として国を動かす力となることを、勿論主催者側は意図していることは確実です。多民族国家をまとめることにあたって、音楽の力ほど穏やかで、人々を一つにすることは他にないと感じます。実際にAgraさんにインタビューをしている時に「統合する」という単語がしばしば見受けられました。小国だからこそ全国的にできる行事でもありますが、国を一つの方向にまとめ上げるためにも、この祭典の位置づけが非常に重要であることがわかります。

 世界遺産として、またラトヴィアという小国の文化のショーケースとしてかけがえのない祭典であってほしいと望みます。しかしその一方でこの祭典が果たす社会・政治的意味合いももちろん大切な役割を果たしていることを、私は敢えてここで挙げたいと思います。「小国だからこそ」出来る行事でもありますが、「小国だからこそ」必要な行事である。そして現代社会の様相をよく反映しうるこの祭典が、今後どのようになっていくか、また楽しみでもあります。 

 この祭典に対し、他のラトヴィアに住む民族がどう捉えているのでしょうか。 

 一概に言うことは出来ませんが「人の関心それぞれ」ではあります。これは何も「ラトヴィア人らしい祭典だから差異を感じる」という意味合いだけではなく、「音楽にさほど興味がない」人も当然ながらいます。一方で「あんなにまとまって出来ることはすごいよね」ととても評価している人もいます。反対にラトヴィア人の中でも「観光客も呼べるし、経済効果もあるよね」という見方も実際のところあります。「ポピュラー音楽も入れているし、敢えて親しみやすくしている傾向・低俗化の傾向も近年ある」こういった批判もあり、確かに時代とともに歌の意味が変わっていっていることは事実です。 

 「日常的に歌に溢れている文化」と思いがちですが、残念ながら実際のところそうではありません。もちろん自分の文化として歌を大切にする傾向はありますが、こういった祭典の時・パーティの時といった特別なところで皆が歌う形式が一般的です。それでも自分達の言葉と文化が生き抜くために、また心の安らぎとして、歌が大切にされてきた歴史は間違いありません。この文化が現代に根付いていることも素晴らしいことでありますし、また支配され続けられてきた歴史がそのような文化を自然と作り上げたと言うことも出来ます。皆で大切にしていくべき文化、またこのような時代だからこそ未来に継承されるべき文化です。

  この祭典の持つ様々な役割を大切にしていってほしい。多民族国家として揺れるラトヴィアにおいて、この祭典がどんなラトヴィアを作り上げていくのか、私も一緒に歌いながら見ていきたいです。  

最終更新日 ( 2010/08/13 金曜日 10:57:03 JST )
 
【8月8日】ブラボー、「大江戸コラリアーず」定期演奏会 PDF プリント メール
作者 webmaster   
2010/08/09 月曜日 17:43:07 JST

 お馴染みの山脇卓也氏が指揮する男声合唱団「大江戸コラリアーず」(通称:おえコラ)の第9回定期演奏会が88日、杉並公会堂大ホールで行われ、人気と実力を象徴するように超満員の聴衆が会場を埋め、最後まで絶賛の拍手を贈り続けた。最終ステージの「御誦(おらしょ)」が終った瞬間、私の目から感動の涙がこぼれた。今年テーマは「祈り」。80名のメンバーが、ブルックナーの「アベマリア」に始まる多彩でハードなプログラムを見事に歌いきった。アマチュアによる究極の男声合唱と評価すべき演奏会だった。 

 メンバー構成は10代の学生数人の他、殆んど2030代の歌い盛り。学生時代は無我夢中に歌い続けて、声量・声の円熟味、合唱の心などなどが、“さあこれから!”という時に学窓を去る。学生時代に男声合唱で青春を燃焼させた彼等の受け皿としてこんな合唱団が存在することは、日本の合唱界にとっても限りない価値がある。「お江戸コラリアーず」は今年10年目の節目を迎えたが、昨年の全日本合唱コンクールで金賞を獲得、今年も出場する。ますますの活躍と躍進を祈りたい。

男声合唱を60年近く続けてきた私の、もう絶対に果せない夢を、若い人たちが私に代わって叶えてくれた気がした。羨ましい気持ちもあったが、“ありがとう!”という言葉が思わず出た。【Latvija編集長 徳田浩】

  

[第1ステージ]

ブルックナー「アベマリア」、プークラン「パドヴァの聖アントニオ賛歌」、コチャール「神よほめたまえ」とも中身の濃いオリジナル男声合唱曲。最後の曲を振った村田雅之氏も才能豊かな団内指揮者。

 

[2ステージ]

男声合唱とピアノのための「くちびるに歌を」。2005年に信長貴富氏が、ドイツ語の言語と日本語訳の両方をテキストにして作曲した意欲的な組曲。全体にメロディーラインが美しく、男声合唱の素晴らしさを堪能させる。とりわけ終曲は圧倒的魅力に満ちた佳品で、迫力と美しいハーモニーに引きずり込まれた。須長真美さん(ピアノ)の柔らかいタッチが、この作品と見事に調和していた。

 

[3ステージ]

 全員赤いシャツに着替えて登場。台湾、エストニア、ラトビア、インド、ナイジェリアのユニークな作品をバラエティー豊かに構成したステージで、いきなり16ビートのアベマリアが演奏して度肝を抜いた。かつて地元の合唱団で聴いた「雷神への連祷(トルミス)」は、日本の合唱団では無理だろうと思っていた作品だが、二人のソリストともども見事な熱演だった。ラトビア民謡「私は戦争に向かった」の美しいメロディーとハーモニーを聴けたのも嬉しかった。男声合唱のメニーサイド・醍醐味を満喫させたステージだった。このステージも第一曲を村田氏が振った。

 

[4ステージ]

 「御」を久し振りに聴かせてもらった。大島ミチル氏が音楽学校在学中に作曲した男声合唱とアルトとピアノとパーカッションのための名曲(組曲)で、私自身は03年の早稲田グリー定演(山田和樹指揮)で聴いて感嘆した作品。今回の祈りをテーマにしたプログラムの最後を飾るに相応しい選曲で、緊張感あふれた合唱に加えて、照明、メンバーの黒衣装・パファーマンスが雰囲気を最高に盛り上げ、感動的な名演の舞台になった。全てが協調してアベマリアを歌い上げる最後の場面の、メンバー全員の充実した表情がこの日の成功の全てを物語っていた。文字通り、メンバー全員が主役だった。社会人の限られた練習時間の中でよくここまで仕上げた努力を絶賛したい。アルトの池田眞子氏、ピアノの前田勝則氏、パーカッションの目等貴士・久米彩音両氏の、メンバーの情熱と一体になった熱演も光った。

  
最終更新日 ( 2010/08/09 月曜日 17:43:52 JST )
 
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結果 745 - 752 of 945
ラトビア関連写真(写真随時追加)
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